(前日からの続き)
何も無理なこととか、あなた方の分相応
以上のことを突然やらせようなんてことは誰も
思わない。
だけども、あなた方がこれが私の分相応
だとか、これ以上私はできないとか思ってる
その枠というものを、神様というのは
守護の神霊というのは取っぱらってね、
本当の人間というものはそんなちっぽけな
もんじゃないよ、あなた方の中にも本当の
人間が息づいているんだよということを
知らせよう知らせようとしている。
だから一番いいのは、私は何も
できないけれど、神様がさせて
下さるんだったら私はやりましょうという、
そういう心ですよ。
そういう心でもって、皆で和顔愛語で
やってかないと。
神様の言葉だからといって、しかめっ面で
やっていっちゃあ駄目。
和顔愛語なんです。
いろんな人がいるんですから。
いろんな人の悲しみがあり悩みがあり
苦しみがあるでしょう。
それをね、溶かしてゆくのは柔らげていくのは
笑顔なんです。
何をどう難しいことを真理の言葉を言えるか
言えないか、そうじゃない。
やっぱり笑顔なんです。
笑顔というものはね、いろんなものを
とかしますよ。
いろんな立場の人、たとえ宗教の人であっても
何であっても、笑顔というものを
見た時に、人間というものはやっぱり
慰められるね。
笑顔にはぬくもりがある。
笑顔とぬくもりというものでもって人間は
息づいていくんです。
ほっとするんです。
何故かというと、その笑顔とぬくもりの中に
神様の愛の源というものはあるんだから。
だから、難しいことを言おうとかね、これは
こう言わなきゃいけないとかね。
ねばならぬからは何も生まれてこない。
ねばならぬと思わないで神様に任せて
しまえばね、そこから言葉も出てくる、想いも
出てくる、ね。
真理の言葉だって、自分がこんなことを
言おうと思わなくったって、いろんないい
深い言葉が出てくる。
口をついて出てくる。
それは神様がしゃべらせて下さる。
語らせて下さる。
あるいは、そこへおもむかせて下さる
訳ですから。
だから、人間への他力本願ではなくて、
本当の意味で神様に任せて、他力になって、
そうしてその他力になった上での自力をね、
自分の努力をね。自分の癖は自分がよく
知ってましょ。
だからその癖をよくとらえて、自分が息を
しやすいように、決して自分に無理が
いかないようにね、自力と他力を融合させて
明るい生命の宗教というものを作って
いかないといけない。
それが、私が大神様から命じられた
ことなんだから。
今、もう人類が、人間がね、分かれて、
ああだこうだ、こっちだあっちだと言ってる。
そういう時代じゃないんです。
どんな人でも、とに角、結び合って
寄り合って生きていける、そういう世界を
つくってゆく。
それが神様の本来の願いなんだから、
祈りなんだから、その心で人間が皆ここへ
来ているんですからね。
そのために皆が生きてる訳だから。
そこへ目指しての祈りをやっていかなきゃ
いけません。
ね、だから、私はできないというのだけは
やめて、私にさせて下さい、何が来ても、
私はできないと思うかもしれないけれども、
次の瞬間には、神様、あなたの中に全部
放り込みます、というそういう信仰を養って
いただきたいと思います。
昭和63年8月26日
何も無理なこととか、あなた方の分相応
以上のことを突然やらせようなんてことは誰も
思わない。
だけども、あなた方がこれが私の分相応
だとか、これ以上私はできないとか思ってる
その枠というものを、神様というのは
守護の神霊というのは取っぱらってね、
本当の人間というものはそんなちっぽけな
もんじゃないよ、あなた方の中にも本当の
人間が息づいているんだよということを
知らせよう知らせようとしている。
だから一番いいのは、私は何も
できないけれど、神様がさせて
下さるんだったら私はやりましょうという、
そういう心ですよ。
そういう心でもって、皆で和顔愛語で
やってかないと。
神様の言葉だからといって、しかめっ面で
やっていっちゃあ駄目。
和顔愛語なんです。
いろんな人がいるんですから。
いろんな人の悲しみがあり悩みがあり
苦しみがあるでしょう。
それをね、溶かしてゆくのは柔らげていくのは
笑顔なんです。
何をどう難しいことを真理の言葉を言えるか
言えないか、そうじゃない。
やっぱり笑顔なんです。
笑顔というものはね、いろんなものを
とかしますよ。
いろんな立場の人、たとえ宗教の人であっても
何であっても、笑顔というものを
見た時に、人間というものはやっぱり
慰められるね。
笑顔にはぬくもりがある。
笑顔とぬくもりというものでもって人間は
息づいていくんです。
ほっとするんです。
何故かというと、その笑顔とぬくもりの中に
神様の愛の源というものはあるんだから。
だから、難しいことを言おうとかね、これは
こう言わなきゃいけないとかね。
ねばならぬからは何も生まれてこない。
ねばならぬと思わないで神様に任せて
しまえばね、そこから言葉も出てくる、想いも
出てくる、ね。
真理の言葉だって、自分がこんなことを
言おうと思わなくったって、いろんないい
深い言葉が出てくる。
口をついて出てくる。
それは神様がしゃべらせて下さる。
語らせて下さる。
あるいは、そこへおもむかせて下さる
訳ですから。
だから、人間への他力本願ではなくて、
本当の意味で神様に任せて、他力になって、
そうしてその他力になった上での自力をね、
自分の努力をね。自分の癖は自分がよく
知ってましょ。
だからその癖をよくとらえて、自分が息を
しやすいように、決して自分に無理が
いかないようにね、自力と他力を融合させて
明るい生命の宗教というものを作って
いかないといけない。
それが、私が大神様から命じられた
ことなんだから。
今、もう人類が、人間がね、分かれて、
ああだこうだ、こっちだあっちだと言ってる。
そういう時代じゃないんです。
どんな人でも、とに角、結び合って
寄り合って生きていける、そういう世界を
つくってゆく。
それが神様の本来の願いなんだから、
祈りなんだから、その心で人間が皆ここへ
来ているんですからね。
そのために皆が生きてる訳だから。
そこへ目指しての祈りをやっていかなきゃ
いけません。
ね、だから、私はできないというのだけは
やめて、私にさせて下さい、何が来ても、
私はできないと思うかもしれないけれども、
次の瞬間には、神様、あなたの中に全部
放り込みます、というそういう信仰を養って
いただきたいと思います。
昭和63年8月26日