(前日からの続き)
我々は、本当はいろいろな座にいるんです。
それは、特に統一しなくてもね。
日常の世界の中でもね。
例えば、遊びに行ったり食事をしたりとか、
そういう信仰のことを離れても、
その時その時いろんな座にいるんですね。
それはどういうことかというと、やっぱり
気持ちのいい人と会えば自然に心が和んでね、
言葉もやわらかになって、いろんな話も
弾みますでしょ。
そういう時には心が喜んでくるんですねえ。
そうして、いろいろな煩いを一時忘れて、
子どものように素直になって、その時には、
私たちは素直という座にいますね。
そういう自覚をもたなくても、そういう
ところへ導いて下さるのが守護霊さん
であり守護神さんですね。
我々の生命とか生き方とかいうものは、
もちろんこの世の中においても向こうに
行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。
自分も気がつかない内に、いつの間にか、
悩みとか悲しみとかいうものを少なくして
下すってる。
その座というものは、あなた方のあるいは
我々の気持ちによって、上がったり下がったり
するんですよ。
向こうへ霊界移行するでしょう。
霊界移行したばかりの人たちというのはね、
やっぱりこっちの世の中の想いとかありますよね。
早く死んじゃって、(残してきた)子どもが
小さいのにとか、ありますでしょ。
そうすると、向こうは素直というのを貫いて
修行するんですよ。
さっき申しましたね。
神様の愛念というものは、生き死にを貫いて、
そういうものをとっ払っちゃってあなた方を
愛してるんだということを申しましたね。
だから、そこのところを深く信じる。
難しいけれども深く信じる。
任せてしまう。
それを向こうへ行ってもやるんです。
座禅したりね、いろいろありますよ。
いろんな修行の仕方があるけれども、
あなた方にもさせたけれどもね。
だけど、それは何のためか。
すっきり自分の生命が神様の方に
抱きとられているということを喜ぶための
修行なんですね。
そうでなきゃあ、苦しむための修行だったら
何もならない。
けれども、向こうへ移行したばかりの
霊(こっちへ来たての霊)たちというのは、
残してきた人のことがやっぱり気になるでしょ。
それはやっぱり、肉体の我といいますかね、
肉体の想いの座に転落しちゃうのね。
でまた、一からやり直す。
そりゃあ厳しいですよ。
この世の中で、子どものためにとか
孫のためにとかね、あるいは、この人の
ためにとかやってる方がよっぽどやりやすい。
そのくらい厳しい。
よく、ひとおもいに向こうへ行ったらと
想うけれども、そうもいかないんですね。
やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
いろいろなおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう
いろんなところを通り過ぎて、祈りという
ところへ行くんでしょ。
ですから、その祈りというのはただ祈ればいい
というもんじゃない。
神様へ呼びかける。
こんな私ですけれどもといって呼びかける。
その時に、神様というのは、ああいいよ
といってあなた方に答えて下さる。
(つづく)
我々は、本当はいろいろな座にいるんです。
それは、特に統一しなくてもね。
日常の世界の中でもね。
例えば、遊びに行ったり食事をしたりとか、
そういう信仰のことを離れても、
その時その時いろんな座にいるんですね。
それはどういうことかというと、やっぱり
気持ちのいい人と会えば自然に心が和んでね、
言葉もやわらかになって、いろんな話も
弾みますでしょ。
そういう時には心が喜んでくるんですねえ。
そうして、いろいろな煩いを一時忘れて、
子どものように素直になって、その時には、
私たちは素直という座にいますね。
そういう自覚をもたなくても、そういう
ところへ導いて下さるのが守護霊さん
であり守護神さんですね。
我々の生命とか生き方とかいうものは、
もちろんこの世の中においても向こうに
行っても努力が必要ですが、しかし、
知らず知らずの間に守護霊さんとか守護神
さんが、きっちりと我々を行くべきところへ
導いて下すってる。
自分も気がつかない内に、いつの間にか、
悩みとか悲しみとかいうものを少なくして
下すってる。
その座というものは、あなた方のあるいは
我々の気持ちによって、上がったり下がったり
するんですよ。
向こうへ霊界移行するでしょう。
霊界移行したばかりの人たちというのはね、
やっぱりこっちの世の中の想いとかありますよね。
早く死んじゃって、(残してきた)子どもが
小さいのにとか、ありますでしょ。
そうすると、向こうは素直というのを貫いて
修行するんですよ。
さっき申しましたね。
神様の愛念というものは、生き死にを貫いて、
そういうものをとっ払っちゃってあなた方を
愛してるんだということを申しましたね。
だから、そこのところを深く信じる。
難しいけれども深く信じる。
任せてしまう。
それを向こうへ行ってもやるんです。
座禅したりね、いろいろありますよ。
いろんな修行の仕方があるけれども、
あなた方にもさせたけれどもね。
だけど、それは何のためか。
すっきり自分の生命が神様の方に
抱きとられているということを喜ぶための
修行なんですね。
そうでなきゃあ、苦しむための修行だったら
何もならない。
けれども、向こうへ移行したばかりの
霊(こっちへ来たての霊)たちというのは、
残してきた人のことがやっぱり気になるでしょ。
それはやっぱり、肉体の我といいますかね、
肉体の想いの座に転落しちゃうのね。
でまた、一からやり直す。
そりゃあ厳しいですよ。
この世の中で、子どものためにとか
孫のためにとかね、あるいは、この人の
ためにとかやってる方がよっぽどやりやすい。
そのくらい厳しい。
よく、ひとおもいに向こうへ行ったらと
想うけれども、そうもいかないんですね。
やはり、人間のこういう日々の営みの中で、
いろいろなおもいを経験して、そうしてそれを
乗り越えてね、叫んで呻いて怒って、そういう
いろんなところを通り過ぎて、祈りという
ところへ行くんでしょ。
ですから、その祈りというのはただ祈ればいい
というもんじゃない。
神様へ呼びかける。
こんな私ですけれどもといって呼びかける。
その時に、神様というのは、ああいいよ
といってあなた方に答えて下さる。
(つづく)