(前日からの続き)
もう何十回も言ったことだけども、我々の
心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心
というものがある。
そして、先程申しましたけどね、毎日毎日の
生活の中でいろいろな座がある。
その座に座らせていただいている。
喜びごとがある時には喜びの座に座ってるんです。
悲しみのときには悲しみの座に座ってるんです。
あるいは、孤独の座にも座るんです。
そうして、そういうところへ座らせて
いただきながら、私たちは、神様の大きな愛の座、
本心の座、光の座、神様の座に招かれて、
そこへ進んでゆく訳ですね。
それは何も向こうへ行って修行しなくったって、
毎日毎日がそうなんですよ。
この世と向こうは続いているんだからね。
この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が
意識しようとしまいとね、その座が進んで
ゆくかどうか、転落するかしないか、毎日
毎日の想いが修行の場なんです。
霊界だって想いでみんなつくられているでしょ。
だから、物欲の強い人が向こうへ行ったら、
そりゃあもう物欲かたまりの世界ができますよね。
無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いて
というような清浄な空気のところを歩くと。
みんなイメージなんです。
イメージだけれども、じゃあ霊界がないか
というとそうじゃない。
真実の生命につらなっていく。
そういうものというのは確固としてある。
だから、その本心というものをたずねて
祈ってね、できる限りの消えてゆく姿を
やって、その座が進んでいくように、
そうして、進むも進まないも、もうひとつ
いけば、神様に任せます、いいように
なすって下さいというふうに言えるように
もっていくのが信仰ですねえ。
そして、それを助けるのが五井先生ですね。
世界平和の祈りですね。
決してあなた方だけの力で絶対そんなことは
できませんよ。
だけど、あなた方の祈り心が一人になり
二人になり十人になり三十人にとやって
いけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあ
すごい力を発揮するんです。
目には見えないけれども、その光がサーッと
全世界にうずまいて、全宇宙に広がってね、
そうして、光明があたりを浄めていくんですね。
そのことを忘れたらいけません。
そのことを忘れて祈りをしたら、これは
ただ単なるご利益の祈りになっちゃう。
そうじゃないんですよ。
南無阿弥陀仏にしても南無妙法蓮華経にしても、
世界平和の祈りにしても主の祈りにしたって、
本当の真実の祈りの奥底にあるものは、何か、
こうして下さい、ああして下さい、運が
よくなりますように、そりゃあ大事ですよ、
みんな生き生きといかなきゃいけないんだから、
やっぱりそういうものはなきゃ困る。
でも本当に目指すものは何かというと、
神様と一体になる我々は生命なんだという、
その喜びに至る。
そこが大事なんです。
それを忘れた祈りはないんです。
神様というものが我々のためにいて
下すってね、神様というものから我々は
分かれてきた分生命、分霊で、そうして、
我々が我々の分に応じて、あるいはそれ
以上の働きを、神様の力によって愛念
によってさせていただくんだということね。
本心と心というものは分かれてるものじゃ
ないんですよ。
本心からずっと光明が出ましてね、
我々の肉体も想いも、想いを出してる心も
浄めていくんです。
祈りがそれを浄めていくんですよ。
だから、世界平和の祈りの中に、あるいは、
南無阿弥陀仏の中に、いろんな祈りの中に
溶け込んで、そうして最後には、自分自身が
役に立つも立たないも、とにかく神様の光
になって無になって動いていく時に、この
世の中というのは光明波動になって
いく訳ですね。
だから、役に立たない生命なんていうのは
この世の中に一つもないんです。
無駄というものも一つもないんです。
(つづく)
もう何十回も言ったことだけども、我々の
心の奥底ずっと降りていくと、やっぱり本心
というものがある。
そして、先程申しましたけどね、毎日毎日の
生活の中でいろいろな座がある。
その座に座らせていただいている。
喜びごとがある時には喜びの座に座ってるんです。
悲しみのときには悲しみの座に座ってるんです。
あるいは、孤独の座にも座るんです。
そうして、そういうところへ座らせて
いただきながら、私たちは、神様の大きな愛の座、
本心の座、光の座、神様の座に招かれて、
そこへ進んでゆく訳ですね。
それは何も向こうへ行って修行しなくったって、
毎日毎日がそうなんですよ。
この世と向こうは続いているんだからね。
この常住坐臥の毎日毎瞬が、あなた方が
意識しようとしまいとね、その座が進んで
ゆくかどうか、転落するかしないか、毎日
毎日の想いが修行の場なんです。
霊界だって想いでみんなつくられているでしょ。
だから、物欲の強い人が向こうへ行ったら、
そりゃあもう物欲かたまりの世界ができますよね。
無欲の人が行ったら、何だか小鳥が啼いて
というような清浄な空気のところを歩くと。
みんなイメージなんです。
イメージだけれども、じゃあ霊界がないか
というとそうじゃない。
真実の生命につらなっていく。
そういうものというのは確固としてある。
だから、その本心というものをたずねて
祈ってね、できる限りの消えてゆく姿を
やって、その座が進んでいくように、
そうして、進むも進まないも、もうひとつ
いけば、神様に任せます、いいように
なすって下さいというふうに言えるように
もっていくのが信仰ですねえ。
そして、それを助けるのが五井先生ですね。
世界平和の祈りですね。
決してあなた方だけの力で絶対そんなことは
できませんよ。
だけど、あなた方の祈り心が一人になり
二人になり十人になり三十人にとやって
いけば、それはもう光明波動なんですからね、
人間というのは光なんですから、そりゃあ
すごい力を発揮するんです。
目には見えないけれども、その光がサーッと
全世界にうずまいて、全宇宙に広がってね、
そうして、光明があたりを浄めていくんですね。
そのことを忘れたらいけません。
そのことを忘れて祈りをしたら、これは
ただ単なるご利益の祈りになっちゃう。
そうじゃないんですよ。
南無阿弥陀仏にしても南無妙法蓮華経にしても、
世界平和の祈りにしても主の祈りにしたって、
本当の真実の祈りの奥底にあるものは、何か、
こうして下さい、ああして下さい、運が
よくなりますように、そりゃあ大事ですよ、
みんな生き生きといかなきゃいけないんだから、
やっぱりそういうものはなきゃ困る。
でも本当に目指すものは何かというと、
神様と一体になる我々は生命なんだという、
その喜びに至る。
そこが大事なんです。
それを忘れた祈りはないんです。
神様というものが我々のためにいて
下すってね、神様というものから我々は
分かれてきた分生命、分霊で、そうして、
我々が我々の分に応じて、あるいはそれ
以上の働きを、神様の力によって愛念
によってさせていただくんだということね。
本心と心というものは分かれてるものじゃ
ないんですよ。
本心からずっと光明が出ましてね、
我々の肉体も想いも、想いを出してる心も
浄めていくんです。
祈りがそれを浄めていくんですよ。
だから、世界平和の祈りの中に、あるいは、
南無阿弥陀仏の中に、いろんな祈りの中に
溶け込んで、そうして最後には、自分自身が
役に立つも立たないも、とにかく神様の光
になって無になって動いていく時に、この
世の中というのは光明波動になって
いく訳ですね。
だから、役に立たない生命なんていうのは
この世の中に一つもないんです。
無駄というものも一つもないんです。
(つづく)