これも何度も話をしたことですけれどもね。
心というものと本心というものは、これは
違うんですね。
元々から言ってしまうと、本心というものが
あなた方の本来の姿。
光り輝く姿なんです。
どうもね、言葉というものは不自由でねえ、
本心というとその本心というイメージが
湧いてくるでしょう。
自分のイメージに訴えてその像を
つくっちゃうからねえ。
それで、どうにもしょうがなくなっちゃって
把われちゃうんだけれども、なるだけそれを
くだいて言おうと思うとね。
つまり、光明があるところですね。
神様の光が渦巻いているところですよ。
それが本心ですね。
それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の
自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、
どこともなくスポッとおさまってる、それが
本心ですね。
その本心というものは、いつも私が申します
ように、全く迷いのない姿。
言葉をかえて言えば、本心というのは、迷いも
疑いも悲しみも悩みも何にもないところで、
ただ神様だけを仰いで、神様と一体になってね、
神様といるということも忘れて、ただその生命を
輝かしている。
そういう場所、そこが本心の座なんですね。
(つづく)
心というものと本心というものは、これは
違うんですね。
元々から言ってしまうと、本心というものが
あなた方の本来の姿。
光り輝く姿なんです。
どうもね、言葉というものは不自由でねえ、
本心というとその本心というイメージが
湧いてくるでしょう。
自分のイメージに訴えてその像を
つくっちゃうからねえ。
それで、どうにもしょうがなくなっちゃって
把われちゃうんだけれども、なるだけそれを
くだいて言おうと思うとね。
つまり、光明があるところですね。
神様の光が渦巻いているところですよ。
それが本心ですね。
それは、あなた方の肉体のもっと奥の奥の
自由な体の、本当に霊妙で細かな波動の中に、
どこともなくスポッとおさまってる、それが
本心ですね。
その本心というものは、いつも私が申します
ように、全く迷いのない姿。
言葉をかえて言えば、本心というのは、迷いも
疑いも悲しみも悩みも何にもないところで、
ただ神様だけを仰いで、神様と一体になってね、
神様といるということも忘れて、ただその生命を
輝かしている。
そういう場所、そこが本心の座なんですね。
(つづく)