宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

さやけき生命(7)

2016-08-11 08:41:18 | 祈り
      (前日から続く)
 世界平和の祈りというのは、地球人類だけ
ではなく、宇宙にいる人類すべての、
星々すべての、ふるさとの祈りなのです。
 肉体だけで祈るのでもなく、霊だけで祈る
のでもなく、全体が祈るんです。言葉だけで
祈るんじゃないんです。想いも何もかも、
波動全体で皆んなが光って祈っている。私が
祈っていると同時に、私だけではなく、私から
広がって、あらゆるすべてのものが祈る。
 そういう祈りになってゆくわけですね。

 だから、この世界平和の祈りというのは、
非常に広大無辺なものなんです。どこから
どこまでがどうの、どこからどこ迄が光るとか、
これ祈ったらどうなるとか、そういう小さな
ことなんていうのは、私の神様は相手にしない。
 宇宙神の広大さなんて、そんなものではない。
 私達なんかの一つや二つの生命を使っても、
それでもまだ、もっともっと大きなことを
なさる。そんなものですよね。

 生命を捨てざれば生命を得ずというのは、
それなんです。捨身になって神様を信じ、
本当に信じるところから出発する時に、光は
サーッと入って来る。信じなきゃ入らない
かというと、そうじゃない。信じないところにも
入るんだけれども、より信じてよりゆだねて
祈る時に、神様から来る光というのは、素直に
自分の心へ入って来る。そのことによって、
我々の道が生かされてゆく。生きるわけ
ではなく、生かされてゆく。
           (翌日へ続く)

さやけき生命(6)

2016-08-10 07:07:58 | 祈り
       (前日から続く)
 自分だけが光る祈りじゃないんですよね、
世界平和の祈りというのはね。
 尽十方(じんじっぽう)に広がり、強烈で
やわらかく、祈ってる人も祈られてる方も
光になって、敵も味方もなくなってというのが
世界平和の祈りですよ。そういう祈りを常に
口ずさんで呟いて、身体の中に入れて
ゆく時には、もう自分の身体だか神様の身体だか、
身体が有って無いようなね。本当に把われが
なくなって来て、神様の久遠の光と一緒で
共に生きている。自分の中に光が流れ込み、
その光に支えられて、神様に支えられて
我々は生きているんだなあということを、
これを悟らせて下さるのが祈りですよね。
 それで、何の為に祈るかというと、やはり
自分の生命が輝くために祈る。自分の生命が
輝くというのは、エゴイズムの祈りじゃ
ないんです。
 自分の生命というのは、神様から流れて
来ているもの。神様の奥の奥の生命と、自分の
生命とが一体なんだ、共にある生命なんだ
と思って祈る時には、両方輝くわけです。
 肉体界も輝くし、幽界も霊界も天界も全部が
輝く、すべての世界が輝く。目に見える世界も
目に見えない世界も、すべてが輝いて、
すべてが赦し合って、すべてが大愛の世界に
なってゆく。
 本来我々が、そういう世界の住人なんです。

 そこへ目指して行くんじゃないんです。
 そこへ帰るんですね。その世界から我々は
来ている、地球へやって来ていろんな仕事を
している。元々が光っているわけです。
 光ってるけれども光っているなんて到底
思えないような、様々なことがあって、
苦しみがあり、どうしようもない色々なことが
あって、最後にふるさとである世界平和の祈りの
ところへ、皆んなが今、たどり着いてきた。
           (翌日へ続く)

さやけき生命(5)

2016-08-09 08:10:58 | 祈り
         (前日から続く)
 例えば、自殺をする人がいるでしょ。入水する
人もあれば飛び込む人もある。色々な苦しみも
あるけれども、そういう自殺ではなくて、実際に
捨身(しゃしん)をする。自分の身を捨てて、
自分が光になって、業を消すというかたちの自殺
もある。つまり、神様に押されて、守護霊様に
押されて、守護霊様の光によって霊界に転出する
という、その死もある。これは人間の智恵では
分かりかねる。
 たとえプラットホームからボーンと飛び込んで、
肉片がいっぱい散って顔もわからない状態
になったとしても、本人が本当に悲しみ嘆いて
自殺する場合と、そうでない場合とがあるんです。

 なんであの人がと思う人が不幸になったり
死んでしまったりね。あっという間に居なく
なったりする時には、何かしらの神様の方の
おもんばかりが後ろで働いている。だから、
自分がやろうと思わないことです。自分の生命
だと思わないことです。神様から流れて来ている
生命だと思うことです。

 「久遠の光、神と共に」と書いたのは、久遠の
光というのは、消えることのない絶えることの
ない光ですよね。これが、我々のこの
身体(からだ)を貫いて流れている。そして、
この光というものは大宇宙につながっている。
 宇宙神のみこころにつながってる。その大愛に
つながってる我々というものを、自分の中で、
そうだそうだと本当に思おうとすれば、これは
やっぱり祈るしかない。
 何でもいいけれども、我々は世界平和の祈りに
つながった。だから、世界人類が平和であります
ようにと祈ってゆく時に、皆んなが
そこで光になる。
               (翌日へ続く)

さやけき生命(4)

2016-08-08 07:31:25 | 祈り
        (前日から続く)
 世界平和の祈りというのは、そんなものではない。
 世界平和の祈りというのは、皆んなが光一元の
生命ですよ、本当は皆んな迷ってないんですよと。
 でもそれを言ったら、じゃあ迷った人は
救われないのか、迷ってるあなたが悪いんだという
ことになると困るから、それは消えてゆく姿ですよ、
大丈夫ですよと皆をこうして連れて来たわけです。

 だけれども、今地球の進化のスピードが非常に
速くなって来ている。そこに肉体人間が肉体つけた
ままで、その進化のスピードに合わなきゃいけなく
なっている。速度を合わせなきゃならなくなって
来てる。だから、そのずれがあるから非常に
みんな辛い。個々の運命というものも、
ハイスピードで良くなったり悪くなったり、
揺れもどしが来たり、地震が来たりと、現われては
消え、現われては消えている。
 今まではゆっくり歩いてよかったのが、ちょっと
少速歩になったり、強歩になったり、ある時点では
走ったり、小走りになったりしなきゃいけない。
 今までそんなこと無かったから、一体どうなって
いるんだろう、どうなるんだろうなんですよね。

 雲仙でもそうです。あれもやはり一つの
現われですね。地球を本当に浄化して霊化させて
ゆく。肉体波動なんか持たなくても、霊体で
行ったり来たり出来る位の地球になってゆくわけで、
雲仙の噴火で亡くなられた人達の本体は、それを
知ってるんですね。でもそんなこと言ったって、
残された人達はたまらない。
             (翌日へ続く)

さやけき生命(3)

2016-08-07 06:09:47 | 祈り
        (前日から続く)
 光というものは、どんなにでも働くんですね。
 神様は光の元の元です。神様というのは、
どんなふうにでも人に現われて来る。その
現われて来る時は、いい現われかたばかりでは
ないんです。非常に手の込んだ、もって廻った
現われかたもあるのです。悪役も一人や二人
置いといて、喧嘩をさせたり、色んなこと
させたりして、神様が何故こんなことまで
されるのか?というような体験をさせて、
人間の出来をもっと上にあげようとする。
 だから光によって全部ワーッと良くなるか
というと、そうでもないんですよね。それは
御利益信仰と同じことになる。

 ですから、ごほうび上げますよと言われたら、
その通りのものがポンと来ると皆思ってしまう
でしょうが、その人は何十生何百生何千生かけて
やって来た、いろんなことがあるわけですね。
 いいこともあるし、悪いこともあるし、
過(あやま)ちもある。それらが混合されて、
生命の糸をつむぐように、今色んなことに
現われて来ている訳でしょう。その中で人間が、
消えてゆく姿の中で、ただ一つの光の自分を
見つけていくためには、ものすごい苦労が
要るわけですよね。だから、要らないものは
もうけっこうですと、もう辛いことはけっこう
ですと言いたくなる。みんな言いたくなる。

 ところが、その人の前生に借金がまだ払って
いないものは残っているんですね。四次元の
光が降ろされ、世界的にも個々人にも
いい方向へ行くんですが、ただその人が固有に
自分で消さないといけないものは、やはり皆、
それぞれに持っているわけで、その分だけは
なんか苦労がまだあるなぁーという
感じなんですね。

 しかし、神様は平等だから、絶対に皆んなを
幸せにするんです。だからそこに信を置けば、
どんなものが来ようと、たとえ自分が八つ裂きに
されようと、そこで「ありがとうございます。」
と言って死ねるんですが、そういうわけには
ゆかないのが人間ですね。何でこんなものが
自分のところへ来るんだろうと、御神水も
飲んでるし、富士にも行ってるし、いっぱい愛行
やっているのに、色んな活動もやっているのに
何故なんだと。これは、御利益信仰になって
きたら、うちの信仰はだめだ。
             (翌日へ続く)