読書の記録

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刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機

2024年12月03日 | 歴史・考古学

刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機
 
関幸彦
中公新書
 
 
 刀伊の入寇キター!
 
  最近の日本史をテーマにした新書は「観応の擾乱」とか「中先代の乱」とか渋いところをついたものが多くて興味深かったが、まさか「刀伊の入寇」が一冊の新書になってやってくるとは。
 
 「刀伊の入寇」は僕にとって謎に満ちていた事件だ。なにしろほとんど言及されたものを見たことがないのである。高校生のときに学校で使っていた山川の教科書でも欄外に注釈みたいな一文が書かれていただけで、情報量としてはほぼゼロであった。
 なので「刀伊の入寇」でまるまる新書一冊というのは僕にとってタイトルしか知らされてなかった謎の事件の全容をいよいよ知るということなのである。
 
 それにしても「刀伊の入寇」が、元寇のように語り継がれていないのははぜだろうか。本書を読むまでは史料がそれほど残ってないからかとも思っていたが、どうやらそれなりに記録は残っていたようである。むしろ日本があっさりと迎撃してしまい、元寇ほど歴史的インパクトを残さなかったことが理由としては大きいのかもしれない。
 たしかに元寇はその後の日本の歴史に作用した。北条政権すなわち鎌倉時代を追い詰める一因になったし、日蓮宗という新仏教の隆盛とも因果をつくった。元寇という事件は歴史の流れに影響を与えるものだったと言える。
 だけど「刀伊の入寇」が平安時代の流れに何がしかの影響を与えたかというとどうもそこまでは言えないようである。刀伊軍が対馬の地を襲撃してから最終的に朝鮮半島のほうに敗走するまでの期間はわずか半月程度で、全体的にみれば日本の完勝であった。海の反対側から女真族が攻めてくるという平安時代最大の対外危機でありながら歴史の教科書で軽視されてしまうのはこのあたりが背景だろう。
 
 むしろ平安時代というあの世に、刀伊軍をあっさり潰走させるだけの兵力をもった日本軍がいたという事実のほうが考察に値する。
 
 つまり、「刀伊の入寇(1019年)」の理解とは、平将門や藤原純友の反乱である「天慶の大乱(939年)」と、源頼義・義家親子の東北遠征である「前九年の役(1051年〜)」というミッシングリンクをつなぐことなのである。
 
 「天慶の大乱」と「前九年の役」という武士が関わる二つの争乱の間には藤原摂関政治の頂点時代がすっぽりとはまる。「刀伊の入寇」があったときの京都はあの藤原道長の時代なのだ。どうもこの時代の印象は王朝文学とか国風文化であったり朝廷内の内ゲバ的な権力争いだったりして、なんとなく生ぬるい平和な印象がある。一方で浄土思想なんかも芽生えていて決して煌びやかなだけではないけれど、その前後の時代に比べるとどうも緊張感がないなというのが僕のイメージであった。本書によると朝廷や京の貴族たちは海外情勢もよくわかっていなかったようである。
 
 だけど中央部がふやけているということは、地方への行政指導力が弱まったということでもあり、地方はそのぶん自治が強まっていった。税制としての班田制が廃れて荘園制が台頭し、治安を確保するための警察力として武士(兵)なるものが育っていくのである。教科書では武士についての記述は「天慶の大乱」の後は「前九年の役」まですっとばされてしまってこの間のことがわからなくなってしまっているが、刀伊の入寇があったとき九州北部には兵団と兵力があったのだ。中世への序章はすでに始まっていたのである。
 
 この地方におけるガバナンスのあり方は100年近く時間をかけて完成されていったようだ。律令制が緩み、由緒ある出自の国司崩れや在庁官人(桓武平氏、清和源氏、藤原傍流など)と地元の有力豪族の虚々実々なバーターがあって利害の一致と協力関係の仕組みとして整えられた。「天慶の大乱」は監視が緩やかな地方において貴族のボンボンが調子こいて火遊びしちゃったような面が無きにしも非ずですぐに鎮圧されてしまったが、「前九年の役」では蝦夷サイドの安倍氏がなかなか強く、朝廷が派遣した源頼義も手を焼いた。結局、源頼義が勝利したのは安倍氏と同じ俘囚の清原氏(後の奥州藤原氏)が源氏側に加担したことが大きい。それでも安倍氏を討ち破るまでには11年を要することになった。「刀伊の入寇」はこの両者の過渡期に起こっているのだ。
 
 刀伊が入寇してきたときの日本側の総司令官的立場にあったのが藤原隆家だ。この人は藤原道長の甥に当たり、前半生は宮廷内で権力争いをしていた。有名な花山法王誤射事件なんかにも関わっていて、藤原伊周と一緒に左遷させられたりしている。道長にとってかなり煙たい存在であったようだ。いろいろあっての太宰府への赴任は隆家本人の希望であったとされるが、道長は九州勢力と結託するのを恐れて妨害しようともしたらしい。
 しかし、結果的には隆家が太宰府にいたことは刀伊の入寇において日本側の僥倖と言えるだろう。彼はなかなか気骨ある貴族だったようである(もともと荒っぽい性格だったようだ。枕草子にも登場する)。地元の豪族もよく管掌していた。刀伊との戦闘においては戦略戦術ともによく機能し、刀伊軍を蹴散らしたのは彼の統帥が優れていたからでもある。太宰府は国防上の要所だからそれなりの人物を配すことにしていたのだろう。もしも紀貫之のような人間がこの時の太宰府権帥だったら目も当てられなかっただろう。
 
 
 ところで善戦したとはいっても刀伊軍の経由地であった対馬・壱岐の犠牲は甚だしい。元寇のときもそうだが、この二つの島は地政学上の宿命として悲惨な歴史を負っている。日本人はもう少しこの二つの島に関心を持ってよいのではないかと思う。

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