読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

マネジメントは嫌いですけど

2025年01月20日 | ビジネス本
マネジメントは嫌いですけど

関谷雅宏
技術評論社


 というわけでビジネス本である。と言っても関谷雅宏って誰やねん? 奥付の著者紹介をみても、ソフトウェアやミドルウェアの開発会社の管理職や役員を歴任してきてきた技術職畑の人くらいしかわからない。著者のXのアカウントが掲載されていたので覗いてみたが個人的趣味爆裂のアカウントでもっとよくわからない(笑)
 ビジネス書は日々新刊が発表される。これもありがちな量産本のひとつかと思ったけれど、書店でパラパラしてみたら

 ・表紙を開いて1ページ目の本扉を見ると、左下にサブタイトルのように、『「人を動かす」では得られない答えがある』と書いてあった。カーネギーの古典三部作にケンカを売っているところに興味を持った。
 ・めずらしく横書き右開きのレイアウトであった。最近では「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」がこのタイプだったので、それを彷彿させた。
 ・出版元が技術評論社。この出版社はたまにエッジの効いた変に面白い本を出す。

 という点が気に入ったので買ってみることにした。前回の投稿でも言ったように、僕もちょっとスランプ気味で、いろいろな観点にあたってみたいという気持ちもあった。


 さて。読んでみての感想としては、まあそんなところかなという順目な感じも多かったが、とは言えしっかり言語化してくれてもやもやしていたものが明確になったのも事実だ。本書は技術職やIT業界を踏まえての書き方が主なのでそうでない業界の自分としては隔靴掻痒なところもあったが、だからこその『 「マネジメント」とは「仮説」と「計測」を繰り返す「技術(あるいは機能)」でしかない』と突き放した姿勢はなんか心が洗われたような気がする。

 「人を動かす」では得られない答えがある、というのは、単なる挑戦的な惹句なのではなかった。著者の主張によれば「人を動かすことに長けるマネジメント」とは「交渉力で問題を解決するマネジメント」であり、それすなわち「現在起こっている問題を現在用意できそうなリソースでなんとか解決しようとするマネジメント」ということになる、というロジックなのだ。これはけっきょく「全体的に短期的な目的を、手元にある資源を使いこなして達成するマネジメント」になってしまい、「未来に向かうマネジメントを行う余裕がなくなる」と主張するのである。

 著者にとってマネジメントは「未来から逆算して考える」ものであり、マネジメントとは「現実に変化を起こす」ことであり、その判断は「仮説と計測」に尽きるもので「正解はない」ということであった。つまり、常になにかトライ&エラーをしながら、組織の体質改善を図り続けることがマネジメントであり、コトが勃発するたびにその交渉力でなんとかリソースを確保して解決していくのはマネジメントではない、ということになる。この両者は何がちがうかというと、前者が「成長」と「持続可能性」をマネジメントの目的に内包させているのに対し、後者はあくまで都度都度の対症療法でしかない、ということである。その違いは組織構成員(要は部下)の成長やモチベーションとか、その組織が出すアウトプットの向上というものに違いとなって現れてくる。

 そうかー カーネギーの「人を動かす」は僕も一目置いていたのだが、本書の指摘もなるほど、という気がする。人が自分の意図どおりに動いてくれたりするとマネジメント冥利の感慨もあってついついそこに腐心してしまうが、それはやがて「短期的な目標に対しての問題解決型」マネジメントに終始してしまい、組織の成長や持続可能性といった観点が後背に追いやられてしまう。対症療法的な綱渡りを続けているうちに致命的なクライシスを迎えつつあることに気づかなったりするのだ。このあたり「世界はシステムで動く」の第1のフィードバックと第2のフィードバックの話にもちょっと通じる。

 とはいっても、日々の業務の中で、人を動かさなければならないのはマネジメントとして避けられないことなので、ここは極論に振るのではなく、「人を動かして目の前の問題の解決をはかる」ことと「未来のために現在の仕組みを変え続ける」ことの両方をアウフヘーベンさせなければならないのだろう。


 一方で、本書はかようなマネジメントは、所詮は「技術」であって「機能」である、とする。こと中間管理職の立場としては、それは経営など上層部から任命と指名において「させられている」ものであって、要は仕事としてわりきっていいのだ、とする。具体的には

 ・うまくいくうまくいかないは大雑把に50%の確率
 ・仕事は頼んだほうにも責任がある
 ・今現在ないものをつくるのだから、失敗しても今より悪くはならない
 ・誰かがやらなければならないから任命されたのであって、実績があるから任されたのではない
 ・結局、後から振り返れば「できることはできている」し、「できないことはできてない」

 と吹っ切れている。見事なものだ。ついでに言うと我々がいつも苦しむ示達予算というものについても、「予算」というのは「押し付けられた不快なもの」だが「会社全体が生き残るための金なのだ」として、誰しも「今は採算がとれなくても、いずれ莫大な利益を生む」という言い草は会社の日常なのだから、「予算」がふってくるのは仕方がないのだ、というのは変に浪花節の説得力がある。本書ではむしろ「財務や経理がどんな理屈や力関係で予算をつくっているかを知っておくほうがいい」と諭している。


 というわけでそれなりに面白い本であった。著者の矜持が垣間見えたところとしては「私はマネージャーの責任の中には会社が潰れたときにも食べていけるようにしてあげること」というくだりである。こういう上司に恵まれた部下は幸いであろう。

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「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学

2025年01月17日 | サイエンス
「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学

諏訪正樹
講談社


 僕はどちらかというと「頭でっかち」の性分で、それゆえに考えすぎというか脳みそが煮詰まってくるとたまに身体論の本を読む、という結局「頭でっかち」なことをしてしまっているのだが、本書もその類である。

 本書によれば「スランプ」は次の成長のための必要悪な存在らしい。つまり「スランプ」なき成長はありえないのである。「スランプ」というと主にスポーツを想像するし、本書も野球やゴルフやボーリングを代表例にして説明をしているが、もちろんスポーツに限らない。受験勉強や楽器の演奏なんかにもスランプはあるし、飲み会でうまく会話の流れに乗れなくなったとか、料理の仕上げが思うようにいかなくなった、というようなことだってスランプの一種である。

 スランプの対義語に「こつ」という言葉を持ってきたのは本書の慧眼だ。確かにうまく軌道に乗っているというのは「こつ」をつかんでいる、ということだろう。
 この「こつ」がくせ者で、これすなわち「身体知」に他ならないのだが、「こつ」は大概において言語化さられない。つまり暗黙知である。しかし本書はこの「身体知」を暗黙知のままにしておかないでなんとかして自分の言葉で言語化することを強く勧めている。というのは、この「言語化」こそが暗黙知化している身体知を、外部からの観察と検証を可能にしてPDCAさせる秘訣であり、この言語化されたものをモニタリングすることによって「こつ」と「スランプ」と上手につきあって、つまりは「成長」できる、とするのだ。

 どういうことかというと、人はボーリングでもピアノでも、ものを習得するとき最初はぎこちない。姿勢や規則的な動作、動きを他人からコーチされたり、見様見真似したり、本や動画と首っ引きになりながらやっていく。このとき自分の口でつぶやきながらやればそれは言語化である。このとき言語化されるものは「身体の詳細部位」に関するものが多いそうだ。ボーリングならば「ここで顔の位置は変えずに後ろ側に肘をあげる」とかピアノならば「卵を持つようにやさしく指を丸める」とかそういうやつだ。
 もちろん言語化されたものがすぐには自分の筋肉を理想通り動かすに至らない。最初は七転八倒であり、ちっともうまくいかない。うまくいったと思ってももう一度試すとやっぱり失敗したりする。つまりまだ身体知を体得できていないのだ。だけどそうやって日々鍛錬していると次第に「こつ」をつかむ。
 そのときに多くの場合は言語化によるモニタリングをやめてしまう。いわゆる「体が覚える」というやつだ。ところがここでも頑張って意識的に言語化を続けると、実は言語化される内容が変わっていくという。身体の詳細部位に関するコメントよりも、より大きな視点での言語化がなされるそうだ。ボーリングならば「体が振り子のようにいく」とか、ピアノならば「腕から弾いていく」とか曖昧な言い方になっていく。こういう大まかな言語化になっているときは「コツ」をつかんでいるときらしい。この粒度になったときの言語化を「包括的シンボル」と本書では表現している。

 ところが、そうやって「こつ」をつかんでボーリングなりピアノなりの研鑽にさらに励んでくると、やがて成長がとまって踊り場となる。場合によっては下手になったりする。これはいろいろな原因がある。
 たとえば、ここまで習得することによって、逆に今まで見えていなかった広い世界が眼前に現れ、それはこれまでの習得技術では太刀打ちできない、なんてのがある。そのやり方だと70点までは上達するけど、それ以上うまくなるにはそのルートではダメなんだよ、というやつだ。ピアノの世界では国内の音大で優秀な成績を収めていた学生が海外の有名音大に留学したらその弾き方では上達しないと言われて基礎からやり直しをさせられたなんて話がざらにある。
 長い期間をかけて習得するものの場合は、自身の身体の変化が影響する場合がある。オリンピックのアスリートでローティーンのときはすごい記録を出すのにその後伸び悩むなんてのは、体がさらに成長して重くなったり大きくなったりしたのが原因だったりする。
 また、対戦相手があるような分野だと、相手自身も強くなってこれまでのようには勝てなくなった、なんてことは多いにある。

 つまり、成長は必ずどこかで壁にあたる。これがスランプである。

 で、そうなるとどうやってスランプから脱するのか。本書によれば、ここで再び言語化しながらおのれの試行錯誤と向き合って再構築していくのが結果的にスランプの克服になっていくそうだ。実験によると、スランプになるとその言語化は、例の「包括的シンボル」から、また再び身体の細かいところの話になっていくそうだ。ボーリングならば「ここで親指を5時の方角に1センチ引く」とか、ピアノならば「右手薬指を自分の気持ちよりプラス1センチ右に動かす」とか。そうやって試行錯誤していくと(場合によっては長い時間を要するが)やがてスランプを抜け出し、ふたたび「こつ」を取り戻す。
 そのとき、あなたのボーリングなりピアノなりの技術は、スランプ前よりも一段高いレベルになっている。

 なるほど。「スランプ」は成長前のシグナルなのだ。これはとても勇気のある指摘である。スランプのときは「詳細部位」のところが気になり、こつをつかんでいるときは「全体」を語って詳細のところが暗黙知になる。


 ところで、僕はここのところ会社の仕事がスランプ状態である。このブログでも何度か吐露している。なんか思うように提案書が書けないとか、説得力をもって人に説明ができないとか、新たなサービスが覚えられないとか。歳のせいかとすっかり自信喪失なのだが、一方でここのところビジネス関係の本を手にすることが多い。ゆえにこのブログもビジネス本の登場が増えているが、これこそが「詳細部位」なのではないか。
 なんか調子がいいときは、ビジネス本なんか目にもくれず、どちらかというと歴史本とか哲学本みたいなものから仕事のヒントや方針みたいなのを導き出してなんとなくひょうひょうとやってきていた。それは一種の「包括的シンボル」に基づいた「こつ」だったのだろう。しかし、ここのころ内外さまざまな要因で思うようにいかない。つまり「スランプ」だ。そこでなにがしか助けにでもならんもんかと何冊かビジネス本を読んではおのれにあてはめて反芻していたのだが、本書を信じればまさにこれはスランプ期の効果的な過ごし方である。

 というわけで、自分の仕事が本調子を取り戻したとき、それはさらなる高みに上っているはずだ。ということを励みに今日も悪戦苦闘は続く。もうしばらくビジネス本は続きそうである。

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