目的への抵抗 シリーズ哲学講話
國分功一朗
新潮新書
今回の話は難解かもしれない。自分の頭では明晰なのだが、言語化が追いつかない感じがする。
まず、タイトルをみて、僕はピンときた。むしろタイトルだけで全部わかっちゃった、くらいの感じである。本書の「はじめに」で著者は、今回のテーマである「目的」の意義を疑うなんてどう考えても意味不明なすごくわかりにくいことだとあらかじめ述べている。しかし、僕はもうタイトルだけでそうだその通りだ、と思ってしまったのである(橋本治の「上司は思いつきでものを言う」のタイトルを見たときに感じた稲妻に匹敵する)。2023年4月に刊行されたというから僕が完全に見落としていたのだ。
「目的」と「手段」はいとも簡単に逆転するんだよな、というのは僕が社会人になってすぐに気づいたこの世の真実のひとつであった。目的手段逆転の話やボヤキは、このブログでも何度かしている。(「手段と目的」で検索をかけたらいくつも出てきて我ながら呆れた)
しかし、どうもコトはそう単純ではないなと気付いたのはここ数年だ。「目的」と「手段」は簡単に逆転するけれど、それは浅慮や怠慢という単純な話ではなく、もっとずっと奥が深くて厄介なものなのだ。
・よほど強力な意志を持たないと、手段は目的化してしまう抗い難い力学がある
・設定された目的そのものが、何かの上位目的のための手段であることがよくある
・その目的の概要は、「手段」で説明しなければ輪郭を持ちえないことがよくある
・「その手段を使いたい」というのがそもそもの目的であることは、この世の中によくある
・当初設定された「目的」そのものが、その後の環境変化で意味を失っているのに開始された「手段」だけが残ることがこの世の中にはよくある
もはや「目的」と「手段」を分離するという二元論の設定自体が無理筋なのではないかと思うことさえある。
しかし、本書で指摘されているように、「目的」を設定することに対しての疑問は、今日の社会においてほぼ無いに等しい。そして、その目的から逆算して今なにをすべきか、すなわち目的から逆算して手段を決める、という思考回路について、今日これに疑問を挟むことはまず無いように思える。エンジニアリングという発想も、料理の段取りも、イシューからはじめることも、KPIもPDCAもムーンショットもみんなそうである。就活も受験対策もそうだ。それどころか人生設計もいまやそれが推奨されている。タイパもコスパもみんな目標達成への合理的物差しである。
シゴデキな優秀な人とは、目的から手段を逆算できて、ゴールにむかって最短距離を導き出せる人のことである。
閑話休題。職場でとある中堅女性社員が若手にむかって指導していた。目的をもって逆算だよ、私はずっとそうやってきた、と彼女は話していた。僕は黙って横で聞いていたのだが、一方でこんなことを思っていた。
「目的をもって逆算する」を成功させるには、2つのことに無謬である必要があるな、と。
そのふたつの無謬とは以下である。
・設定されたその「目的」は本当に適切なものなのか?
・その目的が正しいとして、逆算されたその「手段」は本当に適切なものなのか?
で、さらに踏み込むと、
あなたはそれを「正しい」と断じきれるほど全知全能なのか?
ということなのだ。ひょっとしたら自分は間違うかもしれない、と思えるかどうかの能力である。ソクラテスは「無知の無知」「無知の知」という術を我々は生きていく上で知っておかなければならないと述べた。つまり、この中堅女性社員の若手への指導を観察したときに「この人に、その目的は正しいのかとか、逆算して講じたその手段は正しいのか判別できる能力はあるんかな」と僕はおもってしまったのである。
自分で自分の目的を設定することでさえ脆弱性があるのに、まして示達とか指示とか指導とか、他人様から設定された目的を背負わされるのだとしたらそれはもっと気をつけたほうがいい。繰り返すがその目的設定はかなり脆い根拠の上にあるおそれが高い。ご都合主義で定められた目的にむかってレールを引かされているようなものである。
なので目的志向というのは賢げに見えて実はリスクが高いというのが僕の結論なのだが、この世は当たり前の顔して目的志向があふれており、その手段なるものがあの手この手の姿で社会を席捲している。
やはり意識すべきは「目的」と「無目的」は対等の関係であるということだ。世の中がこれだけ「目的」を我々に切迫させてくるのだから、我々は意識して、すなわち抵抗して「無目的」な行動をしなければならない。いや、「無目的」という言い方は「目的」に対して卑している。「目的」と対等にして対立する概念と言い表すならばということで本書は「自由」という言葉を導き出している。「目的」に対等した対立概念は「自由」である。
というわけで、「目的への抵抗」とはものすごい含蓄が内包されたタイトルなのだ。よくぞ言語化してくれたものだと思う。続編として「手段論」もあるらしいのでこれはもう絶対に読むつもりである。