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世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学

2025年02月03日 | 哲学・宗教・思想
世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学

近内悠太
NewsPicksパブリッシング


 コロナ騒ぎが起こった頃に刊行された本なのでもう5年前になるのか。

 文体としては読みやすいし、タイトルもズバリだし、腰巻には有名人の推奨コピーが並んで、Amazonにもいっぱい星が付いているけれど、実はけっこう難解な本だと感じた。

 一般的に、この手のもので「贈与」という場合は「贈与経済」のことを指す。モースの贈与論や、ボールティングの贈与経済学は、「贈与」という行為すなわちモノやサービスを無償で人に与えるという行為は、実はそこに見えない交換が潜んでいるというものだ。それは「自分を優遇してもらうこと」だったり「二人の間の人間関係の維持」だったり「自分の地位を誇示して認めてもらうこと」だったりする。また、時間軸的にも「いま現在のバランス関係をキープさせる目的」の贈与だったり「遠い後先を見据えた保険的な目的」の贈与だったりする。
 で、貨幣経済や唯物的交換経済ではなく、贈与経済でこの人間社会は古今東西成立してきたのだ、という論説は、人文学の世界ではメジャーなものであると言ってよい。

 しかし、本書で言う「贈与」はそれではない。ピュアに、見返りが期待されていない一方通行の贈与だ。この世界は「ピュアな」贈与でできている、のである。

 じゃあ本書は!実はこの世界は「ピュアな贈与」でできているのだということを証明しているのかというとそういうわけでもない。あえて言えば「そんな考え方が持てたら素敵じゃない?」といったところか。


 本書にはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や、トマス・クーンの「パラダイム・シフト」や、小松左京のSF論などが次々と、それも脱線に継ぐ脱線のように出てくる。伏線になっているような回収できているようなごまかされたようなという気がしながら、僕も傍線をひいたり、余白にメモったり、見取り図をつくってみたりしていったいこの本は何が言いたいのかを一生懸命追いかけてみる。


 本書の読解で個人的に手がかりにしたのは、トマス・クーンの「逸脱的思考」「求心的思考」だ。

 「逸脱的思考」とは、要は「常識を疑う能力」である。「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」でも、人文学の価値は常識をひっくり返すことにある、と指摘されていたように、常識とは、偏見や不当な因襲や既得権益が張り付いていることが多いものだ。クーンの「パラダイムシフト」とは、恒常的常態、すなわちすっかり空気のような常識としか思っていなかった世の中のシステムやレジームが不連続変化することであった。

 「常識を覆す」のは爽快だしカッコいいがそう簡単なことではない。その常識が社会に根付いていれば根付いてるものであるほど、それが「覆す余地のある常識」であることは感知しにくい。相応の力量が問われる。

 では常識を覆す能力すなわち「逸脱的思考」はどのようにして身に付けられるのだろうか。クーンによればそれは「求心的思考」能力を磨かなければならないということになる。「求心的思考」とは、伝統の尊重と継続を意識する思考である。つまり常識を否定的態度ではなく、あるべきものとして考える思考だ。え? どういうこと? と一瞬混乱するが、この「求心的思考」とは保守的態度をとる、という意味ではなく、このような常識があるということはそれを常識足らしめようとする仕組み、意識、価値が存在するのだ、ということを探求する態度である。だから、否定的態度ではなくて批判的態度を持つ必要がある。批判的態度とは「否定しようとする態度」ということではなく「本質を見極めようとする態度」のことである。

 要するに、「求心的思考」ができなければ、どこが「逸脱的思考」になりえるかのポイントを発見できない、ということなのだ。そのことの実例を本書は小松左京のSFや、まんが「テルマエ・ロマエ」を用いて説明している。

 この「求心的思考」「逸脱的思考」は、本書の著者というよりはトマス・クーンの思想だが、ここを足掛かりにこの世の中を改めて「求心的思考」で見渡すと、我々の世界は「言語ゲーム」によって成立している、と本書は説く。今度はヴィトゲンシュタインである。
 ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論は簡単に要約できないものだ。乱暴に片付けると「この世には絶対的正解というものはなく、関係者間で『このようなことにしておこう』という納得解ですべて占められている」という世の中の見立てとでも言えばよいだろうか。

 つまり、「常識」とは正解ではなく、関係者間における「納得解」でしかない。

 だから関係者でない人の目からみれば、その「常識」は「非常識」になる。「●●の常識は××の非常識」というのはよく見かけるフォーマットだ。会社内組織とかローカル社会の中の話であれば「関係者でない自分」を想像するのは難しくない。


 ところが日本人としての「常識」、人間としての「常識」、まして地球生命体としての「常識」などのスケールになると、「関係者でない自分」を想像するのは相当に脳みそを必要とする。本書が小松左京のSFや、ヤマザキ・マリのタイムスリップお風呂まんが「テルマエ・ロマエ」を引用しているのはまさにそこに迫っているわけだが、「言語ゲーム」に支配されたこの社会の常識がいかに不自然(アノマニー)に満ちているかに気付くためには「求心的思考」「逸脱的思考」を持たなければならないとしているのが本書なのだ。地球の常識を批判的に求心的思考し、そこから逸脱的思考によって常識をひっくり返す。その思考能力を持て、と本書は主張しているのである。


 なんで、そこまでの思考能力を持ったほうがよいのか。

 そうすれば、我々は誰かからの「ピュアな贈与」の存在に気づくことができるからである。交換経済に支配されているようなこの脆弱な世の中において、実は私は誰かからのピュアな贈与に助けられ、私は気づかぬ間に誰かにピュアな贈与をしてその人を助けていたのだ。そして気付くのだ。世界は贈与でできていた、と。

 これは、目の前の地平が逆転するような全く新しい世界像を手に入れることに等しい。「求心的思考」「逸脱的思考」を鍛える理由は、世界のありようを学びなおすためなのだ。


 しかし、この世の中を「逸脱的思考」するためには、この世の中そのものの「求心的思考」をしなければならない。つまり、この世の中がどういう仕組みで成立しているのかを批判的に勉強しなおさなければならない。そうすることで人の気遣い(贈与)に気づき、自分も人に気遣うことができる人間になれるのである。なんと本書は大人になっても勉強するって大事ということが書いてあった難解本なのだ。

 これを言うためにクーンやヴィトゲンシュタインや小松左京まで引っ張り出したというよりも、クーンとヴィトゲンシュタインと小松左京の三題噺をやってみたら「贈与」になったというべきだろうか。一応僕なりに本書を一生懸命「求心的思考」で追いかけてみたつもりである。 ふう。


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