「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学
諏訪正樹
講談社
僕はどちらかというと「頭でっかち」の性分で、それゆえに考えすぎというか脳みそが煮詰まってくるとたまに身体論の本を読む、という結局「頭でっかち」なことをしてしまっているのだが、本書もその類である。
本書によれば「スランプ」は次の成長のための必要悪な存在らしい。つまり「スランプ」なき成長はありえないのである。「スランプ」というと主にスポーツを想像するし、本書も野球やゴルフやボーリングを代表例にして説明をしているが、もちろんスポーツに限らない。受験勉強や楽器の演奏なんかにもスランプはあるし、飲み会でうまく会話の流れに乗れなくなったとか、料理の仕上げが思うようにいかなくなった、というようなことだってスランプの一種である。
スランプの対義語に「こつ」という言葉を持ってきたのは本書の慧眼だ。確かにうまく軌道に乗っているというのは「こつ」をつかんでいる、ということだろう。
この「こつ」がくせ者で、これすなわち「身体知」に他ならないのだが、「こつ」は大概において言語化さられない。つまり暗黙知である。しかし本書はこの「身体知」を暗黙知のままにしておかないでなんとかして自分の言葉で言語化することを強く勧めている。というのは、この「言語化」こそが暗黙知化している身体知を、外部からの観察と検証を可能にしてPDCAさせる秘訣であり、この言語化されたものをモニタリングすることによって「こつ」と「スランプ」と上手につきあって、つまりは「成長」できる、とするのだ。
どういうことかというと、人はボーリングでもピアノでも、ものを習得するとき最初はぎこちない。姿勢や規則的な動作、動きを他人からコーチされたり、見様見真似したり、本や動画と首っ引きになりながらやっていく。このとき自分の口でつぶやきながらやればそれは言語化である。このとき言語化されるものは「身体の詳細部位」に関するものが多いそうだ。ボーリングならば「ここで顔の位置は変えずに後ろ側に肘をあげる」とかピアノならば「卵を持つようにやさしく指を丸める」とかそういうやつだ。
もちろん言語化されたものがすぐには自分の筋肉を理想通り動かすに至らない。最初は七転八倒であり、ちっともうまくいかない。うまくいったと思ってももう一度試すとやっぱり失敗したりする。つまりまだ身体知を体得できていないのだ。だけどそうやって日々鍛錬していると次第に「こつ」をつかむ。
そのときに多くの場合は言語化によるモニタリングをやめてしまう。いわゆる「体が覚える」というやつだ。ところがここでも頑張って意識的に言語化を続けると、実は言語化される内容が変わっていくという。身体の詳細部位に関するコメントよりも、より大きな視点での言語化がなされるそうだ。ボーリングならば「体が振り子のようにいく」とか、ピアノならば「腕から弾いていく」とか曖昧な言い方になっていく。こういう大まかな言語化になっているときは「コツ」をつかんでいるときらしい。この粒度になったときの言語化を「包括的シンボル」と本書では表現している。
ところが、そうやって「こつ」をつかんでボーリングなりピアノなりの研鑽にさらに励んでくると、やがて成長がとまって踊り場となる。場合によっては下手になったりする。これはいろいろな原因がある。
たとえば、ここまで習得することによって、逆に今まで見えていなかった広い世界が眼前に現れ、それはこれまでの習得技術では太刀打ちできない、なんてのがある。そのやり方だと70点までは上達するけど、それ以上うまくなるにはそのルートではダメなんだよ、というやつだ。ピアノの世界では国内の音大で優秀な成績を収めていた学生が海外の有名音大に留学したらその弾き方では上達しないと言われて基礎からやり直しをさせられたなんて話がざらにある。
長い期間をかけて習得するものの場合は、自身の身体の変化が影響する場合がある。オリンピックのアスリートでローティーンのときはすごい記録を出すのにその後伸び悩むなんてのは、体がさらに成長して重くなったり大きくなったりしたのが原因だったりする。
また、対戦相手があるような分野だと、相手自身も強くなってこれまでのようには勝てなくなった、なんてことは多いにある。
つまり、成長は必ずどこかで壁にあたる。これがスランプである。
で、そうなるとどうやってスランプから脱するのか。本書によれば、ここで再び言語化しながらおのれの試行錯誤と向き合って再構築していくのが結果的にスランプの克服になっていくそうだ。実験によると、スランプになるとその言語化は、例の「包括的シンボル」から、また再び身体の細かいところの話になっていくそうだ。ボーリングならば「ここで親指を5時の方角に1センチ引く」とか、ピアノならば「右手薬指を自分の気持ちよりプラス1センチ右に動かす」とか。そうやって試行錯誤していくと(場合によっては長い時間を要するが)やがてスランプを抜け出し、ふたたび「こつ」を取り戻す。
そのとき、あなたのボーリングなりピアノなりの技術は、スランプ前よりも一段高いレベルになっている。
なるほど。「スランプ」は成長前のシグナルなのだ。これはとても勇気のある指摘である。スランプのときは「詳細部位」のところが気になり、こつをつかんでいるときは「全体」を語って詳細のところが暗黙知になる。
ところで、僕はここのところ会社の仕事がスランプ状態である。このブログでも何度か吐露している。なんか思うように提案書が書けないとか、説得力をもって人に説明ができないとか、新たなサービスが覚えられないとか。歳のせいかとすっかり自信喪失なのだが、一方でここのところビジネス関係の本を手にすることが多い。ゆえにこのブログもビジネス本の登場が増えているが、これこそが「詳細部位」なのではないか。
なんか調子がいいときは、ビジネス本なんか目にもくれず、どちらかというと歴史本とか哲学本みたいなものから仕事のヒントや方針みたいなのを導き出してなんとなくひょうひょうとやってきていた。それは一種の「包括的シンボル」に基づいた「こつ」だったのだろう。しかし、ここのころ内外さまざまな要因で思うようにいかない。つまり「スランプ」だ。そこでなにがしか助けにでもならんもんかと何冊かビジネス本を読んではおのれにあてはめて反芻していたのだが、本書を信じればまさにこれはスランプ期の効果的な過ごし方である。
というわけで、自分の仕事が本調子を取り戻したとき、それはさらなる高みに上っているはずだ。ということを励みに今日も悪戦苦闘は続く。もうしばらくビジネス本は続きそうである。