読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

個性を活かすリーダーのコミュニケーション・社会という「戦場」では意識低い系が生き残る・うちの父が運転をやめません・クララとお日さま•他

2025年02月27日 | 複数覚え書き
ちょっとここのところ公私ともにスランプ気味であり、なにか脱出の糸口探していろいろ読んでいた。下記にあげるのは、最近読んだものの整理がつかず、あるいは文章が伸びなかったものの複数覚書である。


行動傾向分析で磨く 個性を活かすリーダーのコミュニケーション
余語まりあ
同文館出版

「聞き手側が会話の主導権を握っている」というこの一文を得たことが最大の収穫だった。会議や1on1でやたらに話す人がいるが、その場の主導権をとっているようで実はとられやすいふるまいなのである。1on1指南本やリーダーシップ本では「傾聴」が薦められているが、ただ話を聴いているだけではなくて実は相手に話させながら全体の誘導はこちらがコントロールするのだ、となった瞬間に権謀術数本になる。「鬼谷子」とかそうだな。


社会という「戦場」では意識低い系が生き残る
ぱやぱやくん
朝日新聞出版

本書のテイストは、大学を卒業して社会に出たらいろいろ面食らったり疲れちゃったりした20代むけか、といったところだが「社会で起こるたいていのことは「茶番」である」という指摘は本当にそうだと思う。会社の上司や役員、取引先からカスタマーまで言っていることのほとんどはポジショントークなのであって、その閉ざされたコミュニティの中でだけで通用する理屈でしかない。こういう本の出版元が朝日新聞出版というのがちょっと面白い。


クララとお日さま(ネタバレ)
カズオ・イシグロ
早川書房

もはやAIの進展はチューリングテストを突破しそうな勢いであるが、真の意味でAIに人間への共感がプログラムされるとどうなるだろうか。この小説のAIアンドロイドであるクララは、HAL9000なんかと違って自分の生存よりクライアントである人間の生存を常に優先する。では人間にとってそういう安心なAIが仲間になったとき、果たして人間は何をどう考えるか。この思考実験も本書のテーマの一つだろう。人間とAIの友情ものというにはあまりにも切ない結末。この虚無感はベイマックスも及ばない。同じ読後感のものがあるとすればシェル・シルヴァスタインの絵本「大きな木」だろうか。


うちの父が運転をやめません
垣谷美雨
角川文庫

作者はいろいろな社会課題をユーモラスに小説にしているが、本書は高齢者の危険運転。物語自体は、なんとなく途中で先が読めるというかオチがわかってしまうほどの一直線だが、テーマであるところの高齢者による危険運転(と認知症の増大)は予定されている未来としてあまりにも深刻だ。これの根っこにあるのは地方での急激な少子高齢化と人口減少による社会基盤の弱体化であって、ユーモラスどころかかなりホラーな未来が待っているといってよい。公共交通機関は経営難で鉄道もバスも廃止になるし、スーパーマーケットや金融機関は利用者減で閉店するし、病院まで閉院する始末。移動力のある人はそこから逃げてなんとかなったが、高齢者や経済弱者は地方から離れられなかった。しかも都市部では行政も経済もサブスクリプションにキャッシュレスにモバイルオーダーにEコマースにAIにチャットポットに投資をシフトさせている有様で、これについてこれない地域や人間は加速度的に遅れをとる一方である。今思うとコロナ禍のロックダウンからすべてははじまったような気がする。


マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻
山本貴光
本の雑誌社

マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻 」の続編。マルジナリアの技法と考察を開陳した前書に比べると、2のほうはエッセイ色強めか。このシリーズを読んで以来、僕も本に書き込むことにためらいがなくなった。しかし、今度は読書の際にペンが欠かせなくなってしまった。これまで風呂につかりながら本を読むこともあったのだが、風呂でペンは扱いにくい。なによりも電子書籍が遠のいてしまった。最新のkindleにはメモ機能がついているけれどやはりちょっと違うんだよな。本の書き込みは、書き込みの位置や文字の大きさ、文字列の角度まで自由自在で、図解もイラストもOKで、几帳面な字から殴り書きまで、つまり「なんでもアリ」ゆえにそのときに生じた脳みそのスパークをもっともそれらしい形で定着させられるのがミソなのだと思う。


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手段からの解放 シリーズ哲学講話

2025年02月22日 | 哲学・宗教・思想
手段からの解放 シリーズ哲学講話

國分功一郎
新潮新書


 前書「目的への抵抗」よりも難解度はぐっと増している。カントの「判断力批判」の紐解きがベースになっている。

 著者によるとカントの「判断力批判」には、人間の「快(die lust)」の四分類の話が出てくるそうである(僕は大学生時代に授業のレポートで「判断力批判」を読まされたのだがもうまったく内容を覚えていない)。
 この四分類というのは「美(das shuhöne)・善(das gute)・崇高(das erhabene)・快適(das angenehme)」と訳されているのだが、カントによるこの定義をビジネスコンサルティングのように縦軸横軸の四象限にすると、きれいに分配はせずに空白の象限がひとつできるそうだ(この手法は「暇と退屈の倫理学」でもやっていたから著者の得意技なのだろう)。
 この空白地帯をカントは「病的なもの(pathologisch)」と記述しているが、実はこの空白地帯こそがいま現代生活にはびこっているというのが本書「手段からの解放」の指摘である。


 難解ではあるけれど、なにしろ僕は前書「目的への抵抗」が直観的にわかってしまったので、自動的にこちらもほぼ見えてしまった。本書のタイトルが「手段からの解放」というのも極めて示唆的である。

 これは「なぜ働いていると本が読めなくなるのか 」を哲学的に紐解いているのである。

 カントの分類において、人間が本来もっていたであろう「快」の中で特殊解のように存在する「病的なもの」の正体は、僕なりに述べると“手段が目的化していることに気づかず、そこにどっぷりはまってドーパミンが出ている状態”なのである。

 「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」で著者の三宅香帆氏は、現代社会は日々の仕事(家事でも学業でも)に全身全霊で入れ込むことを要求し過ぎており、その結果われわれ現代人は、半ば洗脳のように脳みそ回路が改変されてしまい、純粋な読書のための読書、意味がありそうとか何かの役にたちそうとかそういう捕らわれから解放された単に楽しむための読書ができなくなっている、と説いている。

 三宅香帆氏のは仕事と読書の関係においてそこを指摘したわけだが、本書「手段からの解放」は、それを現代社会一般と現代人の生き方そのものに敷衍させたものなのだ。
 前書「目的への抵抗」において著者は、今日の社会は実は盤石性のあやしい目的設定が横行し、その目的達成ためのありとあらゆる手段で埋め尽くされていると看破した。しかし、それがあまりにも当たり前になってしまい、われわれ現代人はその手段をひたすらこなせられていることに対して疑問もわかず、むしろモチベーションとかフロー状態とか言って脳が快楽を味わうようになっちゃっている、というのが本書「手段からの解放」の指摘なのだ。
 ただし、それでは人間の脳みそはどこかで限界を超えてしまうから、として著者はガス抜きとしての「快適」が用意されていて、それがアルコール(ストロング系)とかカフェインであったりする。この脳みその解放の手段について「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」では、スマホとゲーム(パズドラならできる)を指摘している。

 というわけで、「手段からの解放」というのは、何かに入れ込んでいるときは「これは何かのためにやっている」のではなく「やりたいからやっている」ものであり、その「やりたい理由」は外部からの洗脳やお膳立てや水路付けによってできあがったものではなく、「なんだかよくわからないけど自分の中から沸き上がったもの」であれ、という話なのだ。
 もっとも著者は、目的と手段の逆転と手段の流布について現代社会はあまりにも狡猾であり、我々はよほど意識しないとその渦に巻き込まれると悲観的である。三宅香帆氏が「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を上梓したのも、元朝日新聞記者の稲垣えみ子氏の退社劇も同じ感覚だろう。

 脳がバグる前に、三宅香帆氏は「全身全霊ではなく半身で」、稲垣えみ子氏は「会社依存度を下げよ」と説いていたが、「手段からの解放」という観点からみると、フレディみかこの「他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ 」は生き方のヒントになる気がした。この本はたいへんな名著だと僕は思っているのだが、フレディみかこの主張こそは現代社会で生きていくために「目的に抵抗」して「手段から解放」する方法論であった。他者を理解して共感する「エンパシー」でいま自分が何をするべきかの目的を見極める審美眼を持ちながら、でも他者にほだされて闇落ちしない、つまり誰かの手段に成り下がらないアナーキーさを死守せよ、と説いている。


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散歩哲学 よく歩き、よく考える

2025年02月17日 | エッセイ・随筆・コラム
散歩哲学 よく歩き、よく考える

島田雅彦
早川書房


 本書の全体的印象としては、著者による散歩の効能論と実践記録を主観と客観の境目もあいまいに無秩序に無軌道に繰り延べられたエッセイで(たぶん散歩の妙を再現しているのだと思われる)、ちょいとばっかし自慢と傲慢さも感じちゃったりしたのだが、「はじめに」と「おわりに」がなかなか味わい深かった。このブログのひとつ前の投稿である國分功一郎の「目的への抵抗 シリーズ哲学講話」とシンクロする内容だったのである(巻末の参考文献一覧にしっかりと「目的への抵抗」が含まれていた)。

 本書の「はじめに」と「おわりに」では、散歩とは要するに「移動の自由の権利」の象徴であり、「国破れて山河あり」の幸福を享受できる行為なのであるということを宣言している。


 「移動の自由の権利」とは、近代社会における人類の権利の最も崇高なものである、というのが本書「散歩哲学」においても「目的への抵抗」においても語られている。「移動の自由」があれば、我々は暴力や圧政から逃れることができる。いじめやDVから身を守るのはもちろん、職業選択の自由や婚姻相手の自由もこの延長上にある。最大の人権侵害は移動を禁止することなのだ。江戸時代の庶民には引っ越しの自由がなかったというし、旧共産圏の国々の多くは、国民の国内旅行を制限していた。現代でも中国は、最新テクノロジーを用いた監視国家であり、防犯カメラや盗聴システムが随所に仕掛けられて作動している。真の意味で移動の自由とは言えない。
 この「移動の自由」が不要不急の名のもとに著しく制限されたのがコロナ禍であった。つい数年前のことなのに、現在の街にあふれるインバウンドや、混み合う都心の地下鉄や飲食店を見るに、あのゴーストタウン化した光景は記憶としてひどく朧気になりつつある。しかし、あれこそが「移動の自由の権利」をはく奪された状態だったのだ。あのとき実際に新天地での進学や転職が許されずに不遇を囲った人々は増えたし、DV問題も顕著化した。

 その「移動の権利」の究極は「不要不急」ではない移動の実践であり、その象徴が「散歩」なのであった。「散歩」こそはそもそも目的地も理由もない。ただ歩きたいから歩くものだ。

 そもそも、移動の自由を制限してくるのは、時の権力であり、行政である。企業も学校もその行政指導の名の元に行われている。我々の日々は行政基盤の上で営まれているのだ。散歩とは、その国の統制からの脱却行為であるともいえる。散歩をしているときはひと時とはいえ我々は我々を束縛するものから自由である。行政だけではない。勤務先や所属先からも自由である。諸々のしがらみと連結しているスマホなんぞは奥底にしまってぷらぷらと歩く散歩こそはアナーキーな行為と言えよう。そんな気分のときに目や耳から入ってくる光景、すべての支配が溶け去ったあとに残った光景、これを愛でるセンスこそが「国破れて山河あり」なのである。理由も意味も目的も捨てて、眼前に現れる大気と自然、街並み、店頭に並ぶ品々、行き交う人々、供される食。これらを虚心坦懐に眺め味わう。これが散歩の醍醐味である。

 しかも「散歩」は無為かと言えばそうでもない。過去の哲学者も科学者も芸術家もよく散歩をした。カントもベートーヴェンも夏目漱石もアインシュタインも散歩を愛した。その散歩から、文化文明史を変えるあれだけの閃きが生まれてきている。散歩という行為は、脳みそをいい感じに弛緩するようだ。頭の中でぐるぐるまわっていたパズルのピースがはまったり、悩んでいたことが案外そんなたいしたことではないと気付いたり、記憶の底に眠っていたことがよみがえったりする。散歩にそういう効能があることは昔から知られていたし、逆説的に言えば、普段の我々の生活は、いかに脳みそをコチコチにさせる時間を過ごしているのかということでもある。


 というわけで、たかが散歩されど散歩。本書にあてられてしまったかついつい僕も語ってしまった。


 ところで、散歩には大きくわけて2つのスタイルがあるらしい。一方は毎回知らない道や町を歩くスタイル、他方は同じルートをたどるルーチンのスタイルである。もちろん両方を塩梅よくやっているのだろうけど、どちらかが主になっていることが多いんじゃないかという気がする。本書の著者は後者のようだ。馴染みの町とか行きつけの店を滔々と語っているのでルーチン型だろう。

 僕自身は、知らないところを行く2、同じところにいく8くらいの割合だろうか。どうしても勝手知ったる本屋やカフェに偏重してしまい、新たな発掘を怠ってしまっている。実は本書を読んでいちばん気が付いたのはこのことだった。
 ルーチンみたいな散歩でも十分にリラックスして脳みその弛緩に効果的なのは自覚しているのだけれど、せっかくの「移動の自由」の権利を自分で狭めていることに気が付いた。しかも、歳をとるごとにそうなってきている。だんだん知らない道や知らない店が億劫になってきているのだ。これはたいへんよろしくない傾向である。もうすこしランダムに歩いてみようと思う。


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目的への抵抗 シリーズ哲学講話

2025年02月13日 | 哲学・宗教・思想
目的への抵抗 シリーズ哲学講話

國分功一朗
新潮新書


 今回の話は難解かもしれない。自分の頭では明晰なのだが、言語化が追いつかない感じがする。

 まず、タイトルをみて、僕はピンときた。むしろタイトルだけで全部わかっちゃった、くらいの感じである。本書の「はじめに」で著者は、今回のテーマである「目的」の意義を疑うなんてどう考えても意味不明なすごくわかりにくいことだとあらかじめ述べている。しかし、僕はもうタイトルだけでそうだその通りだ、と思ってしまったのである(橋本治の「上司は思いつきでものを言う」のタイトルを見たときに感じた稲妻に匹敵する)。2023年4月に刊行されたというから僕が完全に見落としていたのだ。


 「目的」と「手段」はいとも簡単に逆転するんだよな、というのは僕が社会人になってすぐに気づいたこの世の真実のひとつであった。目的手段逆転の話やボヤキは、このブログでも何度かしている。(「手段と目的」で検索をかけたらいくつも出てきて我ながら呆れた)

 しかし、どうもコトはそう単純ではないなと気付いたのはここ数年だ。「目的」と「手段」は簡単に逆転するけれど、それは浅慮や怠慢という単純な話ではなく、もっとずっと奥が深くて厄介なものなのだ。

 ・よほど強力な意志を持たないと、手段は目的化してしまう抗い難い力学がある
 ・設定された目的そのものが、何かの上位目的のための手段であることがよくある
 ・その目的の概要は、「手段」で説明しなければ輪郭を持ちえないことがよくある
 ・「その手段を使いたい」というのがそもそもの目的であることは、この世の中によくある
 ・当初設定された「目的」そのものが、その後の環境変化で意味を失っているのに開始された「手段」だけが残ることがこの世の中にはよくある

 もはや「目的」と「手段」を分離するという二元論の設定自体が無理筋なのではないかと思うことさえある。


 しかし、本書で指摘されているように、「目的」を設定することに対しての疑問は、今日の社会においてほぼ無いに等しい。そして、その目的から逆算して今なにをすべきか、すなわち目的から逆算して手段を決める、という思考回路について、今日これに疑問を挟むことはまず無いように思える。エンジニアリングという発想も、料理の段取りも、イシューからはじめることも、KPIもPDCAもムーンショットもみんなそうである。就活も受験対策もそうだ。それどころか人生設計もいまやそれが推奨されている。タイパもコスパもみんな目標達成への合理的物差しである。
 シゴデキな優秀な人とは、目的から手段を逆算できて、ゴールにむかって最短距離を導き出せる人のことである。


 閑話休題。職場でとある中堅女性社員が若手にむかって指導していた。目的をもって逆算だよ、私はずっとそうやってきた、と彼女は話していた。僕は黙って横で聞いていたのだが、一方でこんなことを思っていた。
 「目的をもって逆算する」を成功させるには、2つのことに無謬である必要があるな、と。

 そのふたつの無謬とは以下である。

 ・設定されたその「目的」は本当に適切なものなのか?
 ・その目的が正しいとして、逆算されたその「手段」は本当に適切なものなのか?

 で、さらに踏み込むと、

 あなたはそれを「正しい」と断じきれるほど全知全能なのか?

 ということなのだ。ひょっとしたら自分は間違うかもしれない、と思えるかどうかの能力である。ソクラテスは「無知の無知」「無知の知」という術を我々は生きていく上で知っておかなければならないと述べた。つまり、この中堅女性社員の若手への指導を観察したときに「この人に、その目的は正しいのかとか、逆算して講じたその手段は正しいのか判別できる能力はあるんかな」と僕はおもってしまったのである。


 自分で自分の目的を設定することでさえ脆弱性があるのに、まして示達とか指示とか指導とか、他人様から設定された目的を背負わされるのだとしたらそれはもっと気をつけたほうがいい。繰り返すがその目的設定はかなり脆い根拠の上にあるおそれが高い。ご都合主義で定められた目的にむかってレールを引かされているようなものである。

 なので目的志向というのは賢げに見えて実はリスクが高いというのが僕の結論なのだが、この世は当たり前の顔して目的志向があふれており、その手段なるものがあの手この手の姿で社会を席捲している。


 やはり意識すべきは「目的」と「無目的」は対等の関係であるということだ。世の中がこれだけ「目的」を我々に切迫させてくるのだから、我々は意識して、すなわち抵抗して「無目的」な行動をしなければならない。いや、「無目的」という言い方は「目的」に対して卑している。「目的」と対等にして対立する概念と言い表すならばということで本書は「自由」という言葉を導き出している。「目的」に対等した対立概念は「自由」である。

 というわけで、「目的への抵抗」とはものすごい含蓄が内包されたタイトルなのだ。よくぞ言語化してくれたものだと思う。続編として「手段論」もあるらしいのでこれはもう絶対に読むつもりである。

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イラク水滸伝

2025年02月06日 | 旅行・紀行・探検
イラク水滸伝

高野秀行
文芸春秋


 人類はどうやって狩猟生活から農耕生活に移行していったか?
 ジェームズ・C・スコットの「反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー」によれば、そう簡単にはシフトしなかった。数千年にわたって狩猟と農耕のどっちつかずのグレーゾーンがあったのである。それは半農半猟という割り切れたものではない。農耕は必然的に定住を伴うが、定住というのははなはだリスクが大きかった。天災・感染症・外部からの攻撃や侵略などに晒され、農耕生活は容易に破綻した。農耕を放棄して荒野に離散する人間は多かった。また、農耕を試みたものの結局はうまく定着せずに狩猟を続け、農耕が成功した部族との交易という形で穀物に依存した場合もある。さらには、狩猟者の一部が強制的に奴隷として農耕者になった場合もあるし、その反対もある。定住者からみて、さすらいの狩猟者は「野蛮人」であっただろう、とスコットは述べている。
 そのようなグレーゾーンの時代こそが、人類の文明史の初期であった。そういうことが可能な地は、都市部と狩猟地帯がほどよく接する地帯であり、それはすなわち湿地帯、就中チグリス・ユーフラテス川流域であっただろうと「反穀物の人類史」では述べている。「猟」は陸の動物を狩るに限らず、漁猟や牧畜も含んでのことだった。

 「反穀物の人類史」は豊富な文献と先行研究をもとにした大胆な仮説であったが、いずれにせよ紀元前9000年も過去の時代に思いを馳せた内容であった。


 しかし、チグリス・ユーフラテス川流域はいまでも広大な湿地帯がある。そして、そこにいまだに10000年前から地続きの湿地生活をしている民族や部族がいる。湿地の資源で住居をつくり、食材を確保し、船で移動する。マンダ教という古いグノーシス主義の宗教もそこでは現存している。
 この湿地民の情報はそう多くない。なにしろ、かの地は現在、あのイラクの国内にある。


 「反穀物の人類史」が10000年前のチグリス・ユーフラテス川流域に住んだであろう民を思索によって論考したものならば、こちら「イラク水滸伝」は現在のチグリス・ユーフラテス川流域の民を直接その巨大湿地帯である「アフワール」に乗り込んで見聞したものだ。ぶっとんでいるといったらない。著者は辺境の探検家として有名で、アフリカの奥地やアジアの密林に入り込んで現地の住民と現地語でコミュニケーションをとる強者だが、フセイン政権崩壊後のイラクに何度も乗り込み、湿地帯を探る。本書は確信犯的な分厚さでその内容も多彩だが、そこには本書が単なる旅行見聞記ではなく、イラクという国家および巨大湿地帯という2重のバリゲードに囲まれて謎に包まれていた湿地民の生態を少しでも記録して共有する文化人類学的使命感も大いにあったものと察する。

 最終的な狙いは、この地に古代から存在した木船「タラーデ」を地元の船大工を探してつくってもらい、湿地帯を探検するというものであってその顛末は本書に譲るとして、ここで紹介されるイラク国民の生き様は本当に面白い。彼らがどのような衣食住をしているかの観察もたいへんに興味深いのだが、やはり人間関係のつくりかた、つまり社会のつくりかたが本当に独特なのだ。

 それは簡単に言うと、friendとenemyの区別がしっかりしていて、その中間体であるanother manが存在しない、ということである。部族や血族のつながりがとにかく強い。
 したがって、知らない人に会うとき、知らない人が誰かに紹介されるときは、まずはfriendになることを重視する。食事のおもてなしをするのだ。おもてなしをされる側もそれに徹底的につきあう。著者の一行は行く先々で食事攻めにあう。しかしこれは単なる歓待のセレモニーではなく、仲間になるための儀式なのである。裏を返すと、これをやらない限り彼らとはenemyの関係になってしまう。

 この、friendとenemyの区別をしっかりさせるということは、まだ理解しようと思えば理解できるが、another manが存在しない、というのは想像を超える。日本で生活する我々の普段の経済生活はanother man同士であって、そこに契約とか交換経済とかが発生する。簡単にいうと雇用と被雇用の関係が発生する。しかし、このアフワールの地では「金で人を動かせない」。何かを便宜してもらうににしても、作業をお願いするにしても、お金で依頼することができないのである。彼らが便宜をはかるのはその人がfriendだからだ。

 したがって、誰かにものを頼むときはまず、その人と仲良くなってfriendの関係にならなくてはならない。そこでようやくものを頼める(もちろん無料である)。
 そういうわけだから、現地のガイドに湿地や部落の案内を頼んでも、そのガイドが普段からつながりの強い場所やよく知った人のところにしか行けない。行ってもさっと観光しておしまいというわけにはいかず、行く先々で食事をし延々と世間話を続ける。また、ガイドなしで第三者がその地に入るときは、自分は誰々の友人である、ということを常にアピールしなければならない(さもないと銃で撃たれるリスクまである)。

 効率性より関係性を重視しているから、何か作業するときも役割分担なんかするのではなく、みんなで一緒にわーわー言いながらやる。段取りとスケジュールなのではなく、みんなが集まってその気になったらやる。

 こういうのは何かと非効率に思うのは自分が現代日本に住むからだろうか。しかし、その人間の信頼性と関係性の強度だけでほぼ形成される社会というのは、たしかに10000年前そうだったのだろうなと想像させるに充分だ。「昨日までの世界」がここにはある。


 ところで、本書ではしばしば湿地民のブリコラージュ性が言及されている。著者はブリコラージュとエンジニアリングを対比させる。結果から逆算して最適かつ最短のプロセスをたどるエンジニアリングが幅を利かせる今日だが、たしかにこれは近代合理化の申し子的な発想なのだろう。しかし、いま集まっている人やモノで何ができるか考えるブリコラージュ的な生活が、10000年近い風雪に耐えてきたのもまた事実なのである。

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世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学

2025年02月03日 | 哲学・宗教・思想
世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学

近内悠太
NewsPicksパブリッシング


 コロナ騒ぎが起こった頃に刊行された本なのでもう5年前になるのか。

 文体としては読みやすいし、タイトルもズバリだし、腰巻には有名人の推奨コピーが並んで、Amazonにもいっぱい星が付いているけれど、実はけっこう難解な本だと感じた。

 一般的に、この手のもので「贈与」という場合は「贈与経済」のことを指す。モースの贈与論や、ボールティングの贈与経済学は、「贈与」という行為すなわちモノやサービスを無償で人に与えるという行為は、実はそこに見えない取引が潜んでいるというものだ。それは「自分を優遇してもらうこと」だったり「二人の間の人間関係の維持」だったり「自分の地位を誇示して認めてもらうこと」だったりする。また、時間軸的にも「いま現在のバランス関係をキープさせる目的」の贈与だったり「遠い後先を見据えた保険的な目的」の贈与だったりする。
 で、この人間社会は貨幣経済や唯物的交換経済ではなく、贈与経済で古今東西成立してきたのだ、という論説は、人文学の世界ではメジャーなものであると言ってよい。

 しかし、本書で言うところの「贈与」はそれではない。ピュアに、見返りが期待されていない一方通行の贈与だ。この世界は「ピュアな」贈与でできている、のである。

 じゃあ本書は!実はこの世界は「ピュアな贈与」でできているのだということを証明しているのかというとそういうわけでもない。あえて言えば「そんな考え方が持てたら素敵じゃない?」といったところか。


 本書にはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や、トマス・クーンの「パラダイム・シフト」や、小松左京のSF論などが次々と、それも脱線に継ぐ脱線のように出てくる。伏線になっているような回収できているようなごまかされたようなという気がしながら、僕も傍線をひいたり、余白にメモったり、見取り図をつくってみたりしていったいこの本は何が言いたいのかを一生懸命追いかけてみる。


 本書の読解で個人的に手がかりにしたのは、トマス・クーンの「逸脱的思考」「求心的思考」だ。

 「逸脱的思考」とは、要は「常識を疑う能力」である。「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」でも、人文学の価値は常識をひっくり返すことにある、と指摘されていたように、常識とは、偏見や不当な因襲や既得権益が張り付いていることが多いものだ。クーンの「パラダイムシフト」とは、恒常的常態、すなわちすっかり空気のような常識としか思っていなかった世の中のシステムやレジームが不連続変化することであった。

 「常識を覆す」のは爽快だしカッコいいがそう簡単なことではない。その常識が社会に根付いていれば根付いてるものであるほど、それが「覆す余地のある常識」であることは感知しにくい。相応の力量が問われる。

 では常識を覆す能力すなわち「逸脱的思考」はどのようにして身に付けられるのだろうか。クーンによればそれは「求心的思考」能力を磨かなければならないということになる。「求心的思考」とは、伝統の尊重と継続を意識する思考である。つまり常識を否定的態度ではなく、あるべきものとして考える思考だ。え? どういうこと? と一瞬混乱するが、この「求心的思考」とは保守的態度をとる、という意味ではなく、このような常識があるということはそれを常識足らしめようとする仕組み、意識、価値が存在するのだ、ということを探求する態度である。だから、否定的態度ではなくて批判的態度を持つ必要がある。批判的態度とは「否定しようとする態度」ということではなく「本質を見極めようとする態度」のことである(哲学者カント)。

 要するに、「求心的思考」ができなければ、どこが「逸脱的思考」になりえるかのポイントを発見できない、ということなのだ。そのことの実例を本書は小松左京のSFや、まんが「テルマエ・ロマエ」を用いて説明している。

 この「求心的思考」「逸脱的思考」は、本書の著者というよりはトマス・クーンの思想だが、ここを足掛かりにこの世の中を改めて「求心的思考」で見渡すと、我々の世界は「言語ゲーム」によって成立している、と本書は説く。今度はヴィトゲンシュタインである。
 ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論は簡単に要約できないものだ。乱暴に片付けると「この世には絶対的正解というものはなく、関係者間で『このようなことにしておこう』という納得解ですべて占められている」という世の中の見立てとでも言えばよいだろうか。

 つまり、「常識」とは正解ではなく、関係者間における「納得解」でしかない。

 だから関係者でない人の目からみれば、その「常識」は「非常識」になる。「●●の常識は××の非常識」というのはよく見かけるフォーマットだ。会社内組織とかローカル社会の中の話であれば「関係者でない自分」を想像するのは難しくない。


 ところが日本人としての「常識」、人間としての「常識」、まして地球生命体としての「常識」などのスケールになると、「関係者でない自分」を想像するのは相当に脳みそを必要とする。本書が小松左京のSFや、ヤマザキ・マリのタイムスリップお風呂まんが「テルマエ・ロマエ」を引用しているのはまさにそこに迫っているわけだが、「言語ゲーム」に支配されたこの社会の常識がいかに不自然(アノマニー)に満ちているかに気付くためには「求心的思考」「逸脱的思考」を持たなければならないとしているのが本書なのだ。地球の常識を批判的に求心的思考し、そこから逸脱的思考によって常識をひっくり返す。その思考能力を持て、と本書は主張しているのである。


 なんで、そこまでの思考能力を持ったほうがよいのか。

 そうすれば、我々は誰かからの「ピュアな贈与」の存在に気づくことができるからである。交換経済に支配されているようなこの脆弱な世の中において、実は私は誰かからのピュアな贈与に助けられ、私は気づかぬ間に誰かにピュアな贈与をしてその人を助けていたのだ。そして気付くのだ。世界は贈与でできていた、と。

 これは、目の前の地平が逆転するような全く新しい世界像を手に入れることに等しい。「求心的思考」「逸脱的思考」を鍛える理由は、世界のありようを学びなおすためなのだ。


 しかし、この世の中を「逸脱的思考」するためには、この世の中そのものの「求心的思考」をしなければならない。つまり、この世の中がどういう仕組みで成立しているのかを批判的に勉強しなおさなければならない。そうすることで人の気遣い(贈与)に気づき、自分も人に気遣うことができる人間になれるのである。なんと本書は大人になっても勉強するって大事ということが書いてあった難解本なのだ(文部科学省の指導要綱に従った学校の勉強だけではそれはなかなかわからないのだ)。

 これを言うためにクーンやヴィトゲンシュタインや小松左京まで引っ張り出したというよりも、クーンとヴィトゲンシュタインと小松左京の三題噺をやってみたら「贈与」になったというべきだろうか。一応僕なりに本書を一生懸命「求心的思考」で追いかけてみたつもりである。 ふう。


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