読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

「変化を嫌う人」を動かす 魅力的な提案が受け入れられない4つの理由

2024年12月27日 | 経営・組織・企業
「変化を嫌う人」を動かす 魅力的な提案が受け入れられない4つの理由

ロレン・ノードグレン デイヴィッド・ションタル 訳:河崎千歳
草思社

 初版は2023年2月。積ん読していたのだが、来年から仕事において表題のような人を何人も相手にしなければならなそうになり、すがる思いで読むことにした。
 なお、原タイトルはThe Human Element -Overcoming the Resistance That Awaits New Iddeasという。「「変化を嫌う人」を動かす」という邦題はかなり巧みな名訳だと思う。

 本書は、ものぐさで保守的な人間(世界最高峰の経営教室 も参照)に新しいことをさせるにはどうすればいいかを説いた本だ。ありそうでなかった本である。リーダーシップの本では部下やスタッフのモチベーションをいかに持ち上げるかとか、マーケティングの本ではいかにモノやサービスを魅力的して顧客に意識させるか、なんてことが解説されているが、本書ではメリットをとことん強調したりいたずらにハッパをかければかけるほど実は逆効果であると断罪する。「モチベーション」より数倍やっかいなのは「抵抗感」であり、これをどう無効化するのかについて解きほぐしている。
 あらためて日常を考えればまさしくその通りなのであって、セールスマンがいくら弁舌さわやかに新商品の魅力をたっぷり語ってきたところで、語れば語るほど聞き手はドン引きしていくことはよくあることだ。
 本書によると、誰でも人間の習性としてなるべく現状を維持したい」「曖昧模糊な未来に乗り出すのは警戒する」「面倒くさがり」という側面を持っている。年齢が長じるによってそれに拍車がかかることもあるだろうし、特定の分野にそれが生じることだってあるだろう。国がいきなり労働者にリスキリングしろと迫ってそのメリットを強調しようとも、路線変更を強いられることによる抵抗感はバカにできない。

 要するにメリットを語って人を動かすというのは、語る対象が「変化する用意ができている」場合に限るということだ。頼みもしないのに勝手に何かを要求したり推薦してきたりする場合ではこの話法ではダメなのである(本書によるとデメリットによって人を脅すやり方(このままだとあなたこうなるよ)も、たいして持続効果がないそうである)。
 ではどうするのか。本書によるとその秘訣は意外にシンプルだ。
①その「変化」は、もともと身近にあった何かと同じようなものであることを伝える 
②なんとか自分から「宣言」させる
③まず何をすればいいのかの、最初の一歩目のやり方を教える 
 なるほど。①についてはスティーブ・ジョブズが、iPhoneを世界に初めてお披露目したときに「超小型のタブレット端末」とも「タッチパネルのモバイルPC」とも言わずに「電話(phone)」と説明したことを思い出させる。これによってこの前代未聞の小型端末は一気に市民権を持って迎い入れられる素地を持ったのだ。
 ②は昔ながらの方法で、禁煙を誓ったタバコのスモーカーが「禁煙」と紙に手書きみんなの見えるところの壁に貼る、なんてサザエさんでもドラえもんでも見かけたことがある。かの効果は案外にバカにできなくて、捕虜の洗脳なんかに使うこともあるそうだ。

 ぼくが、そうか確かにとうなずいたのは実は③である。四の五の言わずにまず最初に何をすればいいのかを教えてあげれば、けっこう人は動くのではないか。通販番組がことあるごとにここに電話しろと言ってくるとか、ラーメン屋でこのメニューはこのようにして食べろという説明紙がイラスト入りで貼られているのなんかまさにそれだ。「変化を嫌う人」は、茫漠感の中に放り込まれるのを極端に恐れる。迷子になるくらいならばはじめからここから動かない。なんとなくやったほうがいいんじゃないか、くらいの雰囲気さえつくれればあとはメリットをマシンガントークするよりは、じゃあファーストステップとして今から何をすればいいのかの筋道をお膳立てするほうがよいのである。リスキリングの必要性を説くのは程々にして、まずは顎足付きでもなんでもいいから体験教室に連れ出すことが大事なのだ。
 そう考えると、例の山本五十六の名言「「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」というのはかなりの真実を突いていることになる。

 というわけで、来年からの僕の仕事の多少のヒントにはなったが、なにをかくそう僕自身がだいぶ「変化を嫌う人」になっている自覚がある。誰か僕に最初の一歩を教えてほしい。
 

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まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書

2024年12月23日 | 実用
まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書

阿部幸大
光文社


 年の瀬も迫った頃にようやく読んだのだが、評判にたがわずめちゃめちゃ面白かった。今年読んだ本のベストワンかもしれない。
 刊行時から話題を呼んでいたものの、さすがにこちとら企業勤めのサラリーマン、もちろん論文など書くことなどなく、いまさら「アカデミック・ライティング」でもないなとスルーしていたのだが、信頼のおける後輩から「いやあれ、めちゃ面白いっすよ!」と酒の場で勧められ、しからばと購入したところ大当たりだった。

 なるほど。本書は大学生や研究者を対象にした論文の書き方指南書ではあるに違いない。
 だけれど、読みようによっては本書は広くこの世に働く者、世に真価を問いたい者に敷衍できる内容をもっているのではないか。少なくとも、最近疲れ気味の停滞気味の僕にとってはバッドで殴られたかのような衝撃を受けたのだった。毎日なくもながなの提案書や報告書を生産しているホワイトカラーの僕にとって本書は間違いなく、襟を正せるものだった。

 本書は、世の中にあまたある「論文の書き方」本であるけれど、本書の白眉は、冒頭の第1編【原理編】と、最後の【発展編】にあるのではないか。いや、この二編こそが本書をして生半可のビジネス本を形無しにしてしまう名ビジネス本とまで呼べそうな域に押し上げていると断言してしまおう。


 第1編 【原理編】では「アーギュメント」とは何か、ということを取り扱っている。「アーギュメント」とは「主張」のことだ。
 本書では、良いアーギュメントは「AがBをVする」という文章で言い切れる主張である、と喝破している。すなわち「要は何が言いたいの?」である。
 何かを報告するなり提案するなりの場面で相手からこのように突っ込まれてしどろもどろした経験があるビジネスマンは多いはずだ。もちろん僕も何度も食らわされていてイヤな思い出だ。ビジネス界ではこのような「要は何が言いたいの?」を端的に言い切る短めの報告のことをエレベータープレゼンとかエレベーターピッチと呼ぶ。キーマンとたまたまエレベーターで乗り合わせたときに目的階に着くまでに売り込むことができるか否かからこの名がついた。キーマンが食いつかない「主張」は提案としてダメなのである。
 ここで「AはBをVする」というSVO構文みたいな英語他動詞構文をもじっているのも本書によればちゃんと理由がある。この構文でずばっと言い切る(多少な躊躇を覚えるくらいの勇み足で)ことができるのがよくできた「アーギュメント」なのだ。論文しかり、ビジネス提案しかりである。

 さらには、その際にキーマン(アカデミック論文で言えば査読者)が心動くアーギュメントは、これまでの通説を否定してくるもの、というのが特に人文学系研究では大事というのが本書の指摘である。つまり「常識を覆す」ものということなのだが、もちろん、それはちゃんと論証しなければならない。

 つまり、誰かが言っていることを二番煎じで繰り返したり、調べればすぐにその証拠が出てくるようなものでは「アーギュメント」にならないのだ。また、前提を誰もが知らないようなことをとつぜん持ち出しても「アーギュメント」にはならない。

 自分の仕事を顧みても、採用されなかったり黙殺されるレポートや提案書は、やっぱり「アーギュメント」がなかったな、と思い至る。時間がなくてやっつけ仕事だったり、気乗りがしなくてなあなあで済ませてしまったものだけでなく、新しい手法を試してみたくてやったものとか、斬新さにこだわりすぎてしまったものなんかでポシャってしまったものを顧みてみると、確かに手法が先に立ちすぎて結局何が言いたかったのかを「AはBをVする」という形で説明しようとするとバシッと決められないのだ。反対に、逆境をものともせずにモノにした仕事や、競合相手から競り勝った仕事は「アーギュメント」があったように思う。あらためて「AはBをVする」という構文でセンテンスをつくろうとするとちゃんとできることに気が付く。

 そして冷静に見渡されれば、僕や僕の部下たちによって日々量産されるレポートや提案書の多くがアーギュメントを喪失している。ビジネス上のルールや会社の有形無形なお作法には準じていて外形的なつじつまはとれているものの、中身はスカスカで、したがって不採用に終わったり、なんとなく採用されてもけっきょくいつの間にか立ち消えしたりそんなものだらけだ。copilotやchatGPTのような生成AIの助けを借りるとますます外形の確からしさと中身の薄さの温度差が助長されていく気がする。

 というわけで年末にいい感じに気合が入る本を読んだ気分だ。人文学の論文の書き方指南書に背中を押されるとは思ってもいなかった


 なお【発展編】は、論文の書き方を通り越して「なぜ他ならぬあなたがこの研究をするのか」という問いに向き合ったもので、この章もカロリーが高い。ネットのレビューなどを見ると、この【発展編】で心を動かされた人が多いようだ。ここでの語りは研究者に限らず、「なぜ他ならぬあなたがこの『仕事』をするのか」とさらにレイヤーを上にあげたときにデヴィッド・クレーバーの「ブルシット・ジョブ論」やマックス・ウェーバーの「プロ倫」にまで肉薄しているものではないかと感じた次第である。


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イシューからはじめよ【改訂版】

2024年12月15日 | ビジネス本
イシューからはじめよ【改訂版】

安宅和人
英治出版


 「イシューからはじめよ」はえらく売れたビジネス書だそうだ。刊行時に書店で平積みされているのを見たときはなんか鼻について敬遠したのだが、このたび「改訂版」が出たということなので読んでみることにした。

 本書の主張は、仕事でも何でも、なにか取り組むときには見通しがたたないまま着手するんじゃなくて、まずは要となるところを見定めてそこから逆算するように全体の進行設計をたてろ、ということである。つまり最短距離をまずは見つけてからそれから走れ、ということだ。
 これだけ書くと当たり前のように思うのだが、この世の中には当たり前でないこいことをしてしまうことはざらである。なんだかよくわからないからとにかく手をつけてみるとか、しょせん人が見通せるこの先なんてのは限界があるとか。よって、最終ゴールにたどり着くまではしなくてもよかった余計な仕事や回り道をしてしまう。昨今ビジネス界で盛んに言われる「生産性の高い」とはこの余計分が少ない人ということでもある。
 この「要となるところ」を本書はイシューと読んでいる。イシューとはissueのことだ。本書が確信犯的に「イシュー」と書いているように、どうもここにしっくりくる日本語がない。僕も「要となるところ」となんとなくぼやかしてしまったが、どういうものが「要」になるのかをぴしっと言いきれないでいる。
 イシューを日本語で訳すと、英和辞典では「課題」とか「問題」とか「争点」とか出てくる。「課題」も「問題」も「争点」も微妙にニュアンスが異なる。
 ・課題⇒結論が出ていないこと
 ・問題⇒解答があるはずのいまだ未解決のこと
 ・争点⇒合意がとれていない未解決のこと
 といったところだろうか。ここらへんをまとめて「イシュー」という。
 本書における「イシュー」の定義は著者によれば
 ①2つ以上の集団の間で決着のついていない問題
 ②根本に関わる、もしくは白黒がはっきりしていない問題
 の両方の条件を満たすもの、としている。
 ①に従うならば、無人島に一人でいる場合は「イシュー」は起こらないことになる。また②に従うならば、どうすればいいかわかって後はとりくむだけのものも「イシュー」とは言わないことになる。
 つまり、「相手がいて見解の統一がまだできてなくてでもこの部分がスッキリすれば万事うまくいくんだけどなあ」というところが「イシュー」になる。「イシューからはじめよ」とは、そういうところをまず見つけてそこから段取りを逆算しなさいよ、ということである。

 閑話休題。
 「ハンス・フォン・ゼークトの4象限」という有名な組織論がある。
 組織に所属する人を、「有能か無能か」「やる気があるかやる気がないか」で4象限に分類するやり方だ。「有能×やる気あり」がいちばん優秀かというとそうでもない。「無能×やる気がない」がいちばん使い物にならないかというとそうでもない、というのがこの象限の面白いところだ。どの象限に属する人も、組織の中でそれぞれ有益なポジションがある。ただし例外は「無能×やる気あり」だ。これはまわりに害を与えるおそれがあるので始末したほうがよい、とされる。
 僕は会社の中の立場ではいちおう管理職というものであり、したがって部下がいる。このゼークトの組織論はなかなか頑強で、ぼくも部下を見てこいつは「やる気のない有能タイプだな」なんてことを心の中で値踏みしている。僕自身が他人からどう分類されているかはこの際無視する。
 そこで、確かに手を焼くのは「やる気のある無能タイプ」なのである。ひとりで明後日の方向を追いかけて締め切り間際に見当違いのアウトプットを持ってきたり、意味のない作業を後輩にさせてしまったりする。

 さて、本書「イシューから始めよ」に話を戻すと、このイシューから始めるタイプを、直観的にできてしまう人は「やる気のない有能タイプ」に多いように思う。さっさと仕事を終わらせてしまいたいから、あとくされない最短距離を見つけるセンスに長けてくるのだろう。こういう人はいまさら本書は必要ない。
 で、そう考えると「イシューから始めよ」というメソッドは、最短で及第点を突破するための方法、と言えなくもない。つまりそのテストの合格ラインが80点ならば100点ではなくて80点越えをすればいいのである。とことんビジョンを追求するアーティストの思考法を述べた「東京藝大美術学部 究極の思考 」の逆とでも言おうか。安打を量産することと逆転ホームランを打つこととどちらが大事かは時と場合によるが、本書はやたらにトレーニングに精をだしているのに凡打しか出せない人に対しての啓発本ということになる。要するに「やる気のある無能タイプ」にむけてのものなのだ。
 こんど彼に読ませてみようか。


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セールスにはびこるムダな努力・根拠なき指導を一掃する 営業の科学

2024年12月07日 | ビジネス本
セールスにはびこるムダな努力・根拠なき指導を一掃する 営業の科学

高橋浩一
かんき出版

 いまの僕は管理職、それも内勤なので、自分でセールスに関わるような提案書を書いてクライアントのところに行ってプレゼンするような機会がほぼなくなってしまった。先日、久しぶりに自分がそれをやらなければならない機会があって、久々なので勘所を忘れてしまっていた。提案書にはどんなことを書けばいいんだっけ?

 この「どんなことを書けばいいんだっけ?」というのは、マーケティングとかソリューションのことを指すのではない。「どういう書き方をすればクライアントはその提案をお買い上げをしてくださるか」である。いってみれば、提案書そのものがクライアントという世界におけるマーケティングに裏打ちされているものでなければならない。正論を正面から書いてもクライアントが素直に採用するとは限らない。むしろそうではないことの方が多い。世の中は生き馬の目を抜く本音と建前の生存競争であり、競争相手だっているし、予算のことだってあるし、クライアント自身の思惑や保身やプライドもある。提案を通すというのは、提案の中身も大事だが、そういったクライアントのコンディションをめぐるファクターもまた重要なのである。

 というわけで本書は「営業の科学」。営業とは足と熱意と度胸だよ、というのは昔の話、パフォーマンスが優れている営業とそうではない営業をアンケート結果から比較してそのココロをひも解いた本だ。正直言うと僕はアンケート結果というものをあんまり信用していない。「人は自身の本当のところをアンケートで答えることはできない」とさえ思っている。国勢調査のように事実関係をYESかNOかみたいなもので尋ねるタイプならばズレもないが、「あのときあなたは何を思いましたか」とか「どうしてあなたはそうしたのですか」みたいな意識めいたものを問う質問は、言語化以前の脳味噌の判断も多いにあるし、様々なシナプスの連鎖反応の結果でもあるし、肌感の直観のときだってあるだろう。質問作成者が作る質問や選択肢の文章が、回答者が普段あやつっている言語感覚と合致したもであるかどうかもあやしいし、この中から選べと提示されている選択肢の区分が適切かどうかもあやしい。

 だから、本書のアンケート結果そのものはそんなに注目はしなかったけれど、著者が導き出すロジックそのものはけっこう勉強になった。というか、そうだそうだたしかにそうだ、と忘れていた感触を思い出した具合である。その大前提は「お客様は本音を話さない」というところである。

 じゃあ、どうすれば本音を話してくれるのか、といえば、ここで出てくる決まり文句が「信頼関係」だ。いかにクライアントと「信頼関係」をつくるか。そこにごまんと回答がある。トップセールスをほこる保険や自動車のセールスマンは何が違うのか? 飛び込み営業の名人は何が優れているのか? とはいえ、こういうレジェンド級営業による信頼関係の作り方はやはり常人離れしていて、凡夫たる我々が即とりいれられるものでもない。

 では、本書はどうか? 本書はかなり分厚いのだが言っていることはシンプルで、実に「本音の引き出し方」と「決裁のさせ方」である。「本音の引き出し方」は、「あなたの個人的主観でいいから・・」という枕詞をつけて回答しやすくさせろとか、あえて「困ってないんじゃないですか?」という角度で質問することで相手の課題を口に出させろとか、急に見積依頼がきたときは見積だけでなくてお役立ち情報も渡して「話が早くて頼りになるやつ」というポジションをまずつかめとか、なんかビジネスマンマンガなんかで指南されそうなことが次々と出てくる。「信頼関係」という言葉で投げ出さないところがミソだ。こういうのは耳学問じゃなくて体が会得しなければならないものだけれど、こういった勘所も最近の自分は忘れかけていたなと思う。

 これくらいならWEB記事とかにも出てきそうだが、「決裁のさせ方」の中に目を見張るものがあった。決裁の権限を持つ者は独断専行かというと多くの場合はそうではなく、何を基準にそれを選んでいいかわからなかったりする。そこで「決裁のさせ方」、これさえ押さえていれば、決裁者は安心して決裁する。ここにそれを書いてしまうと営業妨害になるような気もするので適当にはしょるが、営業トークだけでなく、提案書を書くときとかも肝要である。それは

 ・課題の把握
 ・解決策の希少性
 ・費用対効果

 が抑えられているということだ。本書にはもう少し詳しくそれぞれのことが書いてあるのだが、この話をきいて僕は、提案を通すには「3つのi」が大事なんだよ、という会社の先輩の話を思い出した。それは   
 ・issue (課題)
 ・insight(課題解決の根拠)
 ・idea  (独創的な企画)
 というやつだ。わりとよくできているので、先輩も何かの受け売りだったのではないかと思っているのだが、これとよく似ている。どちらも「課題」で始まっている。

 この最初の「課題は何か」をとらえ損なうと、間違った方向に踏み出してしまう。いくら斬新なソリューションがあっても、費用対効果があってもお門違いになる。したがって「課題は何か」はとても重要な第一歩なのだが、厄介なことに「自分はいま何が課題なのか」は案外にクライアントもわかっていないものである、

 しかも、この提示する「課題」が求められるスイートスポット範囲というのはわりと絶妙なのだ。「そんなの言われなくてもわかっているよ」では関心を持ってもらえないし、「それ、本当に本当なの?」という新奇性が強すぎても疑われたり、相手の脳にうまく入ったりしない。
 じゃあ、クライアントが納得する最適な課題の把握とは何か。それは僕の経験では「言われてみりゃ確かにそうだな」という読後感を得るものである。

 「そうそう言われてみりゃ確かにそうなんだよ」と課題を言い当てられたら、回答は半分出たも同然なのだ。根拠が少々怪しかったり、課題の分解がMICEになっていなくても、クライアントが「言われてみりゃ確かにそうだな」と反応すれば、それは好感触である。反対に、いくらデータが出そろっていてもロジックが完璧でも、クライアントに「言われてみりゃ確かにそうだな」がなければ、その提案はどこかで自然消滅する。

 ところで。もともと僕は「どういう書き方をすればクライアントはその提案をお買い上げをしてくださるか」の勘所を忘れてしまって本書をひも解いたのだった。行き着いたのは「言われてみりゃ確かにそうだな」とクライアントがつぶやきそうな「課題」を提示することだった。
 でも、このスイートスポットを探り当てるにはどうすればいいのだろう? これはもはや「営業」ではなくて、「マーケティング」とか「コンサルティング」とかの世界になってくる。これもかつてはなんかうまく探し当てられたような気がしたのだが、これこそは日ごろの世の中の観察とか、日常のちょっとした違和感を見つけるアンテナが大事だ。内勤の管理職なんかやっているとこういうのからどんどん離れていく。書を捨てよ街へ出よとか、事件は会議室で起きているんじゃない、とか、そういう世界だ。これだけこたつ記事があふれている今日、ポイ活目当てのモニター登録者が答えるアンケート結果からみられる分析なんかに「言われてみりゃ確かにそうだな」は見つからない。まさかマーケティングのほうが足と熱意と度胸の世界になるとは。

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刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機

2024年12月03日 | 歴史・考古学

刀伊の入寇 平安時代、最大の対外危機
 
関幸彦
中公新書
 
 
 刀伊の入寇キター!
 
  最近の日本史をテーマにした新書は「観応の擾乱」とか「中先代の乱」とか渋いところをついたものが多くて興味深かったが、まさか「刀伊の入寇」が一冊の新書になってやってくるとは。
 
 「刀伊の入寇」は僕にとって謎に満ちていた事件だ。なにしろほとんど言及されたものを見たことがないのである。高校生のときに学校で使っていた山川の教科書でも欄外に注釈みたいな一文が書かれていただけで、情報量としてはほぼゼロであった。
 なので「刀伊の入寇」でまるまる新書一冊というのは僕にとってタイトルしか知らされてなかった謎の事件の全容をいよいよ知るということなのである。
 
 それにしても「刀伊の入寇」が、元寇のように語り継がれていないのははぜだろうか。本書を読むまでは史料がそれほど残ってないからかとも思っていたが、どうやらそれなりに記録は残っていたようである。むしろ日本があっさりと迎撃してしまい、元寇ほど歴史的インパクトを残さなかったことが理由としては大きいのかもしれない。
 たしかに元寇はその後の日本の歴史に作用した。北条政権すなわち鎌倉時代を追い詰める一因になったし、日蓮宗という新仏教の隆盛とも因果をつくった。元寇という事件は歴史の流れに影響を与えるものだったと言える。
 だけど「刀伊の入寇」が平安時代の流れに何がしかの影響を与えたかというとどうもそこまでは言えないようである。刀伊軍が対馬の地を襲撃してから最終的に朝鮮半島のほうに敗走するまでの期間はわずか半月程度で、全体的にみれば日本の完勝であった。海の反対側から女真族が攻めてくるという平安時代最大の対外危機でありながら歴史の教科書で軽視されてしまうのはこのあたりが背景だろう。
 
 むしろ平安時代というあの世に、刀伊軍をあっさり潰走させるだけの兵力をもった日本軍がいたという事実のほうが考察に値する。
 
 つまり、「刀伊の入寇(1019年)」の理解とは、平将門や藤原純友の反乱である「天慶の大乱(939年)」と、源頼義・義家親子の東北遠征である「前九年の役(1051年〜)」というミッシングリンクをつなぐことなのである。
 
 「天慶の大乱」と「前九年の役」という武士が関わる二つの争乱の間には藤原摂関政治の頂点時代がすっぽりとはまる。「刀伊の入寇」があったときの京都はあの藤原道長の時代なのだ。どうもこの時代の印象は王朝文学とか国風文化であったり朝廷内の内ゲバ的な権力争いだったりして、なんとなく生ぬるい平和な印象がある。一方で浄土思想なんかも芽生えていて決して煌びやかなだけではないけれど、その前後の時代に比べるとどうも緊張感がないなというのが僕のイメージであった。本書によると朝廷や京の貴族たちは海外情勢もよくわかっていなかったようである。
 
 だけど中央部がふやけているということは、地方への行政指導力が弱まったということでもあり、地方はそのぶん自治が強まっていった。税制としての班田制が廃れて荘園制が台頭し、治安を確保するための警察力として武士(兵)なるものが育っていくのである。教科書では武士についての記述は「天慶の大乱」の後は「前九年の役」まですっとばされてしまってこの間のことがわからなくなってしまっているが、刀伊の入寇があったとき九州北部には兵団と兵力があったのだ。中世への序章はすでに始まっていたのである。
 
 この地方におけるガバナンスのあり方は100年近く時間をかけて完成されていったようだ。律令制が緩み、由緒ある出自の国司崩れや在庁官人(桓武平氏、清和源氏、藤原傍流など)と地元の有力豪族の虚々実々なバーターがあって利害の一致と協力関係の仕組みとして整えられた。「天慶の大乱」は監視が緩やかな地方において貴族のボンボンが調子こいて火遊びしちゃったような面が無きにしも非ずですぐに鎮圧されてしまったが、「前九年の役」では蝦夷サイドの安倍氏がなかなか強く、朝廷が派遣した源頼義も手を焼いた。結局、源頼義が勝利したのは安倍氏と同じ俘囚の清原氏(後の奥州藤原氏)が源氏側に加担したことが大きい。それでも安倍氏を討ち破るまでには11年を要することになった。「刀伊の入寇」はこの両者の過渡期に起こっているのだ。
 
 刀伊が入寇してきたときの日本側の総司令官的立場にあったのが藤原隆家だ。この人は藤原道長の甥に当たり、前半生は宮廷内で権力争いをしていた。有名な花山法王誤射事件なんかにも関わっていて、藤原伊周と一緒に左遷させられたりしている。道長にとってかなり煙たい存在であったようだ。いろいろあっての太宰府への赴任は隆家本人の希望であったとされるが、道長は九州勢力と結託するのを恐れて妨害しようともしたらしい。
 しかし、結果的には隆家が太宰府にいたことは刀伊の入寇において日本側の僥倖と言えるだろう。彼はなかなか気骨ある貴族だったようである(もともと荒っぽい性格だったようだ。枕草子にも登場する)。地元の豪族もよく管掌していた。刀伊との戦闘においては戦略戦術ともによく機能し、刀伊軍を蹴散らしたのは彼の統帥が優れていたからでもある。太宰府は国防上の要所だからそれなりの人物を配すことにしていたのだろう。もしも紀貫之のような人間がこの時の太宰府権帥だったら目も当てられなかっただろう。
 
 
 ところで善戦したとはいっても刀伊軍の経由地であった対馬・壱岐の犠牲は甚だしい。元寇のときもそうだが、この二つの島は地政学上の宿命として悲惨な歴史を負っている。日本人はもう少しこの二つの島に関心を持ってよいのではないかと思う。

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