麓原会の今後を考えています。
最近は、本庄第一高校美術部の出品が減って、全体の出品数が減ってきました。
今年の一般の出品は、約70点でした。
過去(私が顧問をしていた時代)には、本庄第一だけで、70点以上の出品をしたことがあります。部員数74名が全員出品したのですから。
だから、一般の出品数の合計は、150点くらいになっていたことがあります。
ただ、その頃の問題点は、特選をほとんど本庄第一が取ってしまうことでした。
大人の人たちが賞を取れないから、高校生は審査を別にしたらどうだろうという案が出され真剣に話し合われたことがあります。
しかし、それは否決されました。大人の人が高校生に負けなければ良いのだということで。
もし、可決していたらどうなったでしょう。
私は生徒を麓原展に出品させることをやめたでしょう。
そうなったら、麓原展はどんな展覧会になっていたかと思うとぞっとします。
それは、あの立派な展覧会は、本庄第一の生徒たちが盛り上げていたからです。
74名の部員が、一人二点出す子もいたので、80点以上の大作を出品して、あの会場を埋め尽くしていたのです。
大人の人たちは、10号程度の作品を出す人もたくさんいたので、50号以上の作品を大量に出した生徒たちは、大きな役割を果たしていました。
また、麓原展のレベルをアップさせたのも、本庄第一でした。
麓原展の特選は、10人です。それを獲得するには、少なくとも県展入選以上の力がある人でないと取れません。
それは、なぜか?
それは、本庄第一高校の生徒が20名以上県展に入選していたからです。
県展入選経験のある生徒が、全員出品しているわけですから、特選が10人しか取れないところへ挑戦しているので、
その子たちでさえ、取れない子がたくさんいるのです。
必然的に、レベルが高くなりますね。
ただ、そこでの問題は、高校生がたくさん賞を取ってしまうということは、その他の人が取れない。
それは、新しい会友が増えないことも意味していました。
高校生は何度賞を取っても会友になれません。
卒業しても出品して、会友になればよいのですが、みんな卒業すると進学就職など、それぞれの道へ進んで、
地元へ帰ってしまいます。そして自分に合った絵画環境が見つけられず、続けて絵を描いていられません。
また、元が女子高で進学校ではなかったために、美大に行くという生徒もいなかったため、卒業してから続けて絵を描いていくという生徒がいなかったのです。
そのことは、私が批判されることになりました。
せっかくあそこまで高いレベルの絵を教えておいて、その子たちがその後絵を描かない。
これは、顧問の責任だと。
果たしてそうでしょうか。
絵を教えた以上、生徒たちはその後も絵を描かなければならないのでしょうか。
確かに、その意見に耳を傾けるなら、私が反省する必要はあります。
その後も絵を続けて行こうと思うだけの指導ができなかったということです。
また、私のようになりたいと思わせるだけの魅力が、私になかったということですから。
しかし、卒業後は、それぞれが進んだ先で、また絵を描く人たちと出会って、そこでのサークル活動などでやって行けばよいことで、
私の指導範囲ではないという気がします。
ただ、私が感じていることは、どこへ行っても、本庄第一美術部のような環境がないということです。
そのレベルの絵画サークルがありません。
仲間として物足りないのです。
美大へ行った生徒でさえ、仲間のレベルが低くて物足りないと言います。
確かに、県展だけでなく、様々な展覧会で美術の先生になっている人たちにさえ勝ってしまう生徒たちですから、
この子達を満足させてくれるような仲間はなかなかいないでしょう。
ーーー
麓原会の今後を考えるにあたって、麓原会での本庄第一の存在がどうであったかを書いてきましたが、
今は、本庄第一の卒業生が会員会友に7名なっています。
そして、卒業しても出品している生徒も増えてきました。
最初の部員たちも50歳を過ぎたので、子育てが終わって、そろそろ手が空く頃ではないかと思っています。
だから、私は、卒業生に声をかけて、これからまた麓原展に出品させていこうと思っています。
なぜなら、ここで賞を取った生徒が200名くらいはいるからです。
子育てが終わって落ち着く頃の卒業生を段々麓原会に入れていけば、麓原会も人数が増えて充実してくるのではないかと思います。
続く
最近は、本庄第一高校美術部の出品が減って、全体の出品数が減ってきました。
今年の一般の出品は、約70点でした。
過去(私が顧問をしていた時代)には、本庄第一だけで、70点以上の出品をしたことがあります。部員数74名が全員出品したのですから。
だから、一般の出品数の合計は、150点くらいになっていたことがあります。
ただ、その頃の問題点は、特選をほとんど本庄第一が取ってしまうことでした。
大人の人たちが賞を取れないから、高校生は審査を別にしたらどうだろうという案が出され真剣に話し合われたことがあります。
しかし、それは否決されました。大人の人が高校生に負けなければ良いのだということで。
もし、可決していたらどうなったでしょう。
私は生徒を麓原展に出品させることをやめたでしょう。
そうなったら、麓原展はどんな展覧会になっていたかと思うとぞっとします。
それは、あの立派な展覧会は、本庄第一の生徒たちが盛り上げていたからです。
74名の部員が、一人二点出す子もいたので、80点以上の大作を出品して、あの会場を埋め尽くしていたのです。
大人の人たちは、10号程度の作品を出す人もたくさんいたので、50号以上の作品を大量に出した生徒たちは、大きな役割を果たしていました。
また、麓原展のレベルをアップさせたのも、本庄第一でした。
麓原展の特選は、10人です。それを獲得するには、少なくとも県展入選以上の力がある人でないと取れません。
それは、なぜか?
それは、本庄第一高校の生徒が20名以上県展に入選していたからです。
県展入選経験のある生徒が、全員出品しているわけですから、特選が10人しか取れないところへ挑戦しているので、
その子たちでさえ、取れない子がたくさんいるのです。
必然的に、レベルが高くなりますね。
ただ、そこでの問題は、高校生がたくさん賞を取ってしまうということは、その他の人が取れない。
それは、新しい会友が増えないことも意味していました。
高校生は何度賞を取っても会友になれません。
卒業しても出品して、会友になればよいのですが、みんな卒業すると進学就職など、それぞれの道へ進んで、
地元へ帰ってしまいます。そして自分に合った絵画環境が見つけられず、続けて絵を描いていられません。
また、元が女子高で進学校ではなかったために、美大に行くという生徒もいなかったため、卒業してから続けて絵を描いていくという生徒がいなかったのです。
そのことは、私が批判されることになりました。
せっかくあそこまで高いレベルの絵を教えておいて、その子たちがその後絵を描かない。
これは、顧問の責任だと。
果たしてそうでしょうか。
絵を教えた以上、生徒たちはその後も絵を描かなければならないのでしょうか。
確かに、その意見に耳を傾けるなら、私が反省する必要はあります。
その後も絵を続けて行こうと思うだけの指導ができなかったということです。
また、私のようになりたいと思わせるだけの魅力が、私になかったということですから。
しかし、卒業後は、それぞれが進んだ先で、また絵を描く人たちと出会って、そこでのサークル活動などでやって行けばよいことで、
私の指導範囲ではないという気がします。
ただ、私が感じていることは、どこへ行っても、本庄第一美術部のような環境がないということです。
そのレベルの絵画サークルがありません。
仲間として物足りないのです。
美大へ行った生徒でさえ、仲間のレベルが低くて物足りないと言います。
確かに、県展だけでなく、様々な展覧会で美術の先生になっている人たちにさえ勝ってしまう生徒たちですから、
この子達を満足させてくれるような仲間はなかなかいないでしょう。
ーーー
麓原会の今後を考えるにあたって、麓原会での本庄第一の存在がどうであったかを書いてきましたが、
今は、本庄第一の卒業生が会員会友に7名なっています。
そして、卒業しても出品している生徒も増えてきました。
最初の部員たちも50歳を過ぎたので、子育てが終わって、そろそろ手が空く頃ではないかと思っています。
だから、私は、卒業生に声をかけて、これからまた麓原展に出品させていこうと思っています。
なぜなら、ここで賞を取った生徒が200名くらいはいるからです。
子育てが終わって落ち着く頃の卒業生を段々麓原会に入れていけば、麓原会も人数が増えて充実してくるのではないかと思います。
続く