絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

体育の日

2009-10-12 | いろいろ
体育の日は、10月10日だった。
今は、連休にするために月曜日になった。

私の感覚では、10月10日でないと、ぴんと来ない。
それは、東京オリンピックの開会式の日だったから、10月10日なのだと頭が定着しているためである。

ラジオに、坂井義則君が出ていた。名前の漢字が違うかもしれない。
もう64歳になるという。当時は19歳。

なぜ、彼が最後の聖火ランナーに選ばれたのかと考えたことがなかった。
彼は、400メートルの選手でオリンピックを目指していたが、予選で負けたのだという。本当の理由は、わからないが、彼は昭和20年8月6日に広島県で生まれたのだと知った。原爆投下の日である。それが選ばれた理由だろうか?

それは、後からつけた理由ではないかと本人は言っていた。

しかし、当時はそのことは放送されなかったようである。ただ、終戦の年に生まれたということは言われただろう。戦後19年の日本の奇跡的復興を象徴する姿だったかもしれない。

2020年のオリンピック開催の候補地として、広島が立候補するかもしれないという噂が流れている。世界から核兵器を無くそうという運動の象徴になるには、広島はその意味ではうってつけである。今年はオバマ大統領がノーベル平和賞を獲得した。それは、プラハでの核兵器を無くそうという演説だと聞く。世界の期待が寄せられている。

ーーーーー
別の番組に、マラソンの寺沢選手が出ていた。
東京オリンピックのマラソン代表として、寺沢、君原、円谷が出た。
一番期待されていたのは、寺沢だったそうだ。

マラソンでは、アベベを抜くのは寺沢だと言われていた。なぜなら、オリンピック前に世界最高を出していたのだという。日本の期待を一身に背負った寺沢だった。
しかし、15位で終わった。円谷は、ご承知の通り、銅メダル。

三人は、同じ部屋だったという。終わってからの取材陣は円谷にばかり、スポットを当てて騒ぐ。同部屋だったから、寺沢と君原は布団を被って寝ていたという。

その後、脚光を浴びた円谷は怪我などで苦しみ、最後はプレッシャーのために自殺をしてしまった。
君原は、その次のメキシコオリンッピックで、銀メダルを取るが、それまでの話を聞くと、本当に大変だったという。
がんばれ!という声が、恐怖だったというのだ。こんなに頑張っているのに、これ以上どう頑張れというのかと怒りたくなる気持ちだったと言っていた。

応援する方は、その調子でこの先も頑張って!という意味で言っていても、選手には、今よりもっと頑張れと聞こえるのだという。

日の丸を背負うという感覚が大きかったのだろう。

寺沢選手は、オリンピックの後、一ヶ月半後のマラソンで、2時間14分台の記録を出して優勝した。結果だけ見れば、オリンピックの時だけ、力が出せなかったのである。

私は、寺沢選手の白い手袋が印象に残っている。その白い手袋が顔の前まで来て右左と入れ替わるのを見ていて、かっこいいと思い、その後のマラソンでそれを意識して走ったことを思い出す。
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2 コメント

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Unknown (皐月)
2009-10-13 05:46:22
S39年は 思い出多い年でした。
長女の出産・・もう45歳ですね~
月日も飛んで行きますね。早いものです。
オリンピックは”リオ”でよかったと思います。
2020年の広島・長崎立候補は 応援します。
でも生きてるかな~
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皐月さま (pikaso)
2009-10-13 11:25:37
大丈夫ですよ。
皐月さんの今のお元気な状態なら、100歳までも行けそうですよ。
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