![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/a2/042008e5de96ea49079a691ffb009351.jpg)
印象派の画家たちは、自然を見えるとおりに描きたいと思いました。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/onpu.gif)
だから、サロンの絵を見て黒くて嫌だと思い、自然はもっと光が満ちていて美しいのだから、その本当の光を描きたいと試みたのです。
しかし、見えるとおりに描くということは、どういうことでしょう?
これは、厳密に考えてみると、難しいのですよ。
ーーーーーーーーーーーーー
実は、印象派の試みはとても大切なことでしたが、それは失敗に終わったと言われています。考えて試みた狙いは目的からすれば、失敗でしたが、しかし、その試みがあのような素晴らしい絵を生み出しました。
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では、見えるとおりに描くということを少し考えてみます。
私たちは、絵を描くときに、誰もが、見えるとおりに描くことから始めます。
見えるものを見えるとおりに描くという姿勢に何の疑問も持ちません。
絵とは、そういうものだと思っているのです。
しかし、誰に教わったのでしょうね。その考え方です。
ピカソの絵について、書いた時にお話ししましたが、見える通りとは、厳密に言うと、「ある時点での、ある一点から見えるとおり」ということなのです。
これは、当たり前だと思っていますが、それでは、そんなことが絵で描けるでしょうか。
それは、不可能です。
なぜなら、絵を描くには時間がかかるのです。
時間が過ぎてしまうのに、ある時点(その瞬間)の見える通りを描く??
だとするなら、それ以降の制作しているときに見ているものは、もう姿が変わっているということになります。
分かりやすい例を上げれば、雲です。
あの雲の形がいいなあと思って、描き始めますが、描き終わらないうちに雲はどこかへ行ってしまいます。そうすると、後はどうするか、あのときの雲の形が良かったなあと思いだして描くのです。
「思い出して、描くこと」が正確に見えるとおりに描いたと言えるでしょうか。こんな曖昧なことはありません。だから、不可能なのです。
それを考えたモネは、30分毎にキャンバスを取り換えて描いたと言われています。それも、雲のような動いてしまうものではだめなので、教会の建物を描くことにしました。そして、あるキャンバスは何時から何時と決めて、しかも同じような天気の日を選んで、光の状態がほとんど同じになるような時を選んで描いたようです。そうしない限り、ある時点での見える通りを実現できないと考えたのです。
それが、ルーアンの大聖堂の連作でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/39/caeaca25a692556cd57a86d2c4853723.jpg)
朝の光、昼の光、午後の光、夕方の光、それぞれ全く印象が違います。
太陽が動くのですから、当たり前です。午前は正面から光が当たっても、夕方は逆光になりますよね。それを厳密に言えば、1分1秒でも変化しているのですから、正確な表現とは、一瞬を捕まえて、一瞬のうちに描かなければだめなのです。
モネは、自分で感じる限界を30分としたのでしょうか。30分毎にキャンバスを取り換えたと聞いています。
ーーーーーーーーーー
余談ですが、
最近は、写真という便利な物がありますから、印象派の画家たちより、やりやすいですが、そうはいっても、その時の新鮮な印象は、写真では感じられないことが多いです。写真は嘘つきだなあと思います。
明るい空の写真を撮ると、地面が真っ黒に写ります。地面に合わせると、空が真っ白に写ります。これはなぜなのでしょうか。人間の目には、どちらもよく見えているのですよ。だれか、教えてください。私のカメラの性能のせいですか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/75/896ea5932ec3811129decd18b46dafd6.jpg)
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とにかく、見えるとおりそっくりに描くということが、理屈の上からも不可能であるということが、おわかりいただけたと思います。
そうなると、じゃあ、絵はどうかけばいいの??
という問題になってきます。
そこから、絵とはなにかを考えていくと、さまざまな考え方が出てくると、思います。
その話は、すこし、みなさんに考えてもらってからにしたいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/onpu.gif)
だから、サロンの絵を見て黒くて嫌だと思い、自然はもっと光が満ちていて美しいのだから、その本当の光を描きたいと試みたのです。
しかし、見えるとおりに描くということは、どういうことでしょう?
これは、厳密に考えてみると、難しいのですよ。
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実は、印象派の試みはとても大切なことでしたが、それは失敗に終わったと言われています。考えて試みた狙いは目的からすれば、失敗でしたが、しかし、その試みがあのような素晴らしい絵を生み出しました。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ichigo.gif)
私たちは、絵を描くときに、誰もが、見えるとおりに描くことから始めます。
見えるものを見えるとおりに描くという姿勢に何の疑問も持ちません。
絵とは、そういうものだと思っているのです。
しかし、誰に教わったのでしょうね。その考え方です。
ピカソの絵について、書いた時にお話ししましたが、見える通りとは、厳密に言うと、「ある時点での、ある一点から見えるとおり」ということなのです。
これは、当たり前だと思っていますが、それでは、そんなことが絵で描けるでしょうか。
それは、不可能です。
なぜなら、絵を描くには時間がかかるのです。
時間が過ぎてしまうのに、ある時点(その瞬間)の見える通りを描く??
だとするなら、それ以降の制作しているときに見ているものは、もう姿が変わっているということになります。
分かりやすい例を上げれば、雲です。
あの雲の形がいいなあと思って、描き始めますが、描き終わらないうちに雲はどこかへ行ってしまいます。そうすると、後はどうするか、あのときの雲の形が良かったなあと思いだして描くのです。
「思い出して、描くこと」が正確に見えるとおりに描いたと言えるでしょうか。こんな曖昧なことはありません。だから、不可能なのです。
それを考えたモネは、30分毎にキャンバスを取り換えて描いたと言われています。それも、雲のような動いてしまうものではだめなので、教会の建物を描くことにしました。そして、あるキャンバスは何時から何時と決めて、しかも同じような天気の日を選んで、光の状態がほとんど同じになるような時を選んで描いたようです。そうしない限り、ある時点での見える通りを実現できないと考えたのです。
それが、ルーアンの大聖堂の連作でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/39/caeaca25a692556cd57a86d2c4853723.jpg)
朝の光、昼の光、午後の光、夕方の光、それぞれ全く印象が違います。
太陽が動くのですから、当たり前です。午前は正面から光が当たっても、夕方は逆光になりますよね。それを厳密に言えば、1分1秒でも変化しているのですから、正確な表現とは、一瞬を捕まえて、一瞬のうちに描かなければだめなのです。
モネは、自分で感じる限界を30分としたのでしょうか。30分毎にキャンバスを取り換えたと聞いています。
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余談ですが、
最近は、写真という便利な物がありますから、印象派の画家たちより、やりやすいですが、そうはいっても、その時の新鮮な印象は、写真では感じられないことが多いです。写真は嘘つきだなあと思います。
明るい空の写真を撮ると、地面が真っ黒に写ります。地面に合わせると、空が真っ白に写ります。これはなぜなのでしょうか。人間の目には、どちらもよく見えているのですよ。だれか、教えてください。私のカメラの性能のせいですか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/11/665a256bfc3cd47ec0614a3cc6556d57.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/75/896ea5932ec3811129decd18b46dafd6.jpg)
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とにかく、見えるとおりそっくりに描くということが、理屈の上からも不可能であるということが、おわかりいただけたと思います。
そうなると、じゃあ、絵はどうかけばいいの??
という問題になってきます。
そこから、絵とはなにかを考えていくと、さまざまな考え方が出てくると、思います。
その話は、すこし、みなさんに考えてもらってからにしたいです。
問答の私の部分は、本文で書きますね。