感覚
2013-03-18 | 美術
感覚と理論ということが言われる。
「絵は感覚だから、理屈じゃない」と言う人がいる。
私はそれに対して、すぐにうなづくことができない。
その感覚には、理屈がある気がする。
人はなぜそう感じるのか?という部分である。
その法則を見つけ出すことが、美学だろうか。
この文章は、あることがきっかけになって、書きだした。
それは、今回の麓原会春季展の絵の配置である。
展覧会で難しいのは、この絵の配置である。
麓原会では、その作業は入りたての会員には任せられない。
かなりのベテランでも、心配な気がする。それで、いつも審査員をしている4名が中心になって行う。
その中に私もいる。
4人が集まって始める時、「菅野君、頼むよ」と、二人の先生から言われた。
私が中心になってやってほしいということである。
私は、「いえいえいえいえ」と遠慮をする。「私はサブでご協力をさせていただきます」という立場をとる。3人とも大先輩なので、私が一番下っ端なのである。
しかし、始めてみると黙っていられない。それはこの並びでは良くないと思われるからである。ここで考えることは、私には嫌だなと思われる感覚があるのである。それを自分勝手にやるわけにはいかない。4人の合意でやるのだから。
だから、どうするかというと、私は一々説明をする。理由を述べて同意を求めるのである。静物と静物が隣り合わない方が良い。赤い絵ばかりが固まらない方がいい。山の風景が隣り合わない方がいい。額の重さもバランスを考えた方がいい。水彩の白マットを使った絵が並ばない方が良い。縦絵と横絵のバランス。大きい絵の位置の問題。
ハイレベルの絵を壁面の中央に置きたい。抽象画や現代感覚の絵画をある程度まとめたらどうか。会の長老は、まとめてみようか。
いろいろな理屈を考える。その理屈の総合で、位置が決まっていく。
だから、感覚で判断しているが、それぞれ理屈があるのである。
ーーーーーー
実は、このことは絵の構図についても同様なのである。
感覚がいい、センスがいいと言われる。
何を描くか、どのような構図で描くか。これは、感覚の問題であると言うだろうか。
まあ、テーマが悪く、構図が悪いのは、絵がわかってないなあと思ってしまうが、絵にするということを考えるとき、そこに目をつけた感覚、それをそのような構図で捕えた感覚といえば、感覚である。
ただ、私はそれを理論化できると思う。
いま、私が指導している方たちの絵は、みんなでモデル組を研究することがある。
それは、感覚を育てる研究である。
そのときに、よく言うのは、バランスとリズムである。
バランスと言う時、安定させるには、左右対称に置くことである。
しかし、バランスが良すぎてつまらない。
アンバランスだと動きがあって良いが不安定で落ち着かない。
そうすると、アンバランスで動きがあるけれど、ある程度安心できる程度の辺りに良いバランスがありそうだ。
リズムも、飛び跳ねすぎていれば、落ち着かない。
落ち着き過ぎていると、変化がなくてつまらない。
そうすると、その間に答えがありそうだ。
黄金分割というのも、そういう所から丁度良い位置ということで出てきたのだろうと想像する。
セオリーという言葉で、私は語る。ただ、気を付けたいのは、きちんとしたセオリーができたとしたら、その周りに答えがあると思いたい。なぜなら、その厳密なポジションの決め方は、周りとの関係で決まるからである。
芸術は、セオリーを破ることで、近代の発展をみた。
しかし、人間の本質に関わる部分は、美に対する普遍性があるように思う。
他の生き物には、感じられない、美という感覚が。
それをできるだけ、理屈で求めてみたい気がする。
そして、芸術家の活動は、それを定石にしつつ、それを基にして、それからいかにはみ出すか?また、それにいかに対抗するかという戦いのような気がする。その点は、将棋に似ている。
将棋のプロが自分の研究を本に書くように、画家も自分の研究を本に書いたら良いと思う。
「絵は感覚だから、理屈じゃない」と言う人がいる。
私はそれに対して、すぐにうなづくことができない。
その感覚には、理屈がある気がする。
人はなぜそう感じるのか?という部分である。
その法則を見つけ出すことが、美学だろうか。
この文章は、あることがきっかけになって、書きだした。
それは、今回の麓原会春季展の絵の配置である。
展覧会で難しいのは、この絵の配置である。
麓原会では、その作業は入りたての会員には任せられない。
かなりのベテランでも、心配な気がする。それで、いつも審査員をしている4名が中心になって行う。
その中に私もいる。
4人が集まって始める時、「菅野君、頼むよ」と、二人の先生から言われた。
私が中心になってやってほしいということである。
私は、「いえいえいえいえ」と遠慮をする。「私はサブでご協力をさせていただきます」という立場をとる。3人とも大先輩なので、私が一番下っ端なのである。
しかし、始めてみると黙っていられない。それはこの並びでは良くないと思われるからである。ここで考えることは、私には嫌だなと思われる感覚があるのである。それを自分勝手にやるわけにはいかない。4人の合意でやるのだから。
だから、どうするかというと、私は一々説明をする。理由を述べて同意を求めるのである。静物と静物が隣り合わない方が良い。赤い絵ばかりが固まらない方がいい。山の風景が隣り合わない方がいい。額の重さもバランスを考えた方がいい。水彩の白マットを使った絵が並ばない方が良い。縦絵と横絵のバランス。大きい絵の位置の問題。
ハイレベルの絵を壁面の中央に置きたい。抽象画や現代感覚の絵画をある程度まとめたらどうか。会の長老は、まとめてみようか。
いろいろな理屈を考える。その理屈の総合で、位置が決まっていく。
だから、感覚で判断しているが、それぞれ理屈があるのである。
ーーーーーー
実は、このことは絵の構図についても同様なのである。
感覚がいい、センスがいいと言われる。
何を描くか、どのような構図で描くか。これは、感覚の問題であると言うだろうか。
まあ、テーマが悪く、構図が悪いのは、絵がわかってないなあと思ってしまうが、絵にするということを考えるとき、そこに目をつけた感覚、それをそのような構図で捕えた感覚といえば、感覚である。
ただ、私はそれを理論化できると思う。
いま、私が指導している方たちの絵は、みんなでモデル組を研究することがある。
それは、感覚を育てる研究である。
そのときに、よく言うのは、バランスとリズムである。
バランスと言う時、安定させるには、左右対称に置くことである。
しかし、バランスが良すぎてつまらない。
アンバランスだと動きがあって良いが不安定で落ち着かない。
そうすると、アンバランスで動きがあるけれど、ある程度安心できる程度の辺りに良いバランスがありそうだ。
リズムも、飛び跳ねすぎていれば、落ち着かない。
落ち着き過ぎていると、変化がなくてつまらない。
そうすると、その間に答えがありそうだ。
黄金分割というのも、そういう所から丁度良い位置ということで出てきたのだろうと想像する。
セオリーという言葉で、私は語る。ただ、気を付けたいのは、きちんとしたセオリーができたとしたら、その周りに答えがあると思いたい。なぜなら、その厳密なポジションの決め方は、周りとの関係で決まるからである。
芸術は、セオリーを破ることで、近代の発展をみた。
しかし、人間の本質に関わる部分は、美に対する普遍性があるように思う。
他の生き物には、感じられない、美という感覚が。
それをできるだけ、理屈で求めてみたい気がする。
そして、芸術家の活動は、それを定石にしつつ、それを基にして、それからいかにはみ出すか?また、それにいかに対抗するかという戦いのような気がする。その点は、将棋に似ている。
将棋のプロが自分の研究を本に書くように、画家も自分の研究を本に書いたら良いと思う。
どうしてあなたは絵を描くんですか?