C4Dの車のデータはこんなものだ。
後は3ds Maxのデータが数あるが、それは家に帰らなきゃ変換できない。
あっ、Audiがもう1台あった。
五木寛之は私が若い頃、集中して彼の著書を何冊か読んだ事がある。
好きな作家の一人である。
今思えば、彼が今の私くらいの歳であった。
近年は人生について語る著書が多くなったと思う。
過酷な人生を送ってきたからこそ語れる彼の人生観である。
その中の1冊を読んでみた。
彼は私の父親の歳とさほど変わらない。
彼の今の姿は想像できる。
彼は13歳で終戦を迎える。
遥か彼方の平壌の地で・・・・・・。
ソ連軍の包囲が狭まる中、逃げ帰るように、家族で内地に帰ってきた。
まだ帰ってこれた方が幸いだった。
終戦の1ヶ月後に母を亡くす。
父も彼が東京の大学で学んでいる時に他界する。
2.5畳間のアパートでは、寒さをしのぐ為に新聞紙を身に包み、靴を履いて寝たという。
激動の少年期、青年期を過ごした。
私もそうだが、今の人には考えられない。
1977年、東京のある工員の父親が二人の幼子を抱きかかえて、マンションから飛び降り自殺をする。
父親は妻に蒸発され、真面目に働いていたが、子供の世話で「疲れた」と言っていたという。
父親のズボンのポケットには10円しか入っていなかった。
子供が持っていた手帳には「おかあさん、僕たちが天国からおかあさんのことをうらむ。
おかあさんもじ国(地獄)へ行け」と書いてあった。
「胸を締め付けられた」
私も泣いた。
こんなことがあっていいのだろうか。
子供に罪はない、まだ人生を選べないのである。
その記事からこの著書は始まる。
私にも若い頃は漠然とした人生の目的はあった。
その目的が脆くも崩れ去った今、混沌としているのは事実だ。
彼はこう結論付けている。
人生に決められた目標は無い。
人生の目的は、「自分の人生の目的」を探すことである。
その為には生きなければならない。
生き続けていてこそ、目的も明らかになる。
こんな便利な時代になっても、自殺者は多い。
毎日といっていいほど、列車に飛び込んで自殺する人の記事をツイッターで見かける。
それも若い人が多い。
心の平安がないのだ。
私も自分の死については、毎日といっていいほど考えている。
この著書を読んで、私の心の重しが少しは軽くなったと思う。
昨日嫌なことがあっても、昨日は晴れだと思おう。
今日、朝を迎えることに感謝する。
今日1日を大切に生きればいいのだ。
それしかないのである・・・・。