昨日、Asahi Shinbun Globeというサイトで見つけた記事の見出し
『末期がんになって気づいたことがある、『余命1ヶ月』の男性が残した言葉』
「余命1カ月」。今夏、そう医師から宣告を受けた千葉県船橋市の男性がいる。
「残された日々とどう向きあえばいいのか知りたい」。しかし、がんを克服した人の話は多々あれど、死を覚悟した人が必要とする情報がほとんどない。
「治らないがんもあるのに」。やせ細った体から言葉を絞り出して話す男性が、自身の命をかけて取材に応じ、死と向きあう心のうちを明かした。(山本大輔)
この見出しに続いて詳細な記事があり、この男性の写真が掲載されている。
その写真の下に
『息を引き取る4日前、立つのもやっとの状態の中『訴えたいことがある』といってインタビューに答えた○○さん(46歳)の笑顔がわすれられない。』とあって
記事と合わせて、改めて彼の笑顔の表情を見ると・・・じつに立派な笑顔で、普段『悟り…』とかのたまりながらも限りなく臆病者の私は、この壮年男性の気丈な
態度に尊敬の念をいだき、心のなかで合掌をした。
彼が言った『治らない人のための情報がない…』・・・という言葉を読んだ時、私は確かに、確かに・・・とうなずいたものだが、後に冷静に考えてみると
死に直面した人々の対応・・・についての情報というのは、少なくて当然な気もする。一旦「死」ぬ覚悟を決めた『癌患者の手記』などが時折あって感心するが
それは覚悟を決めることが出来た人々の手記で、覚悟も中途半端の人の場合、手記など残さずに死んでしまうだろう。
など、考えているうち、自分がやって来た『禅修行』というのは、こういう時に備える意味もあった・・・ことを思い出した。
禅道場の入り口に掛かっている木板には『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』と書かれているのだ。
禅といえば、まず『悟り』とか頭に浮かぶが、根本は『生死事大』が本命なのだ。
そういえば、「生をあきらめ、死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」・・・とは道元禅師の言葉で、『生と死』を分けているのが不可解で
であったが、こ男性の提言のおかげで私は改めて『禅』の根本である『生死』に眼がいった。
私自身は訳がわからない状態で『禅修行』の道に分け入ったが、心のどこかでは私の直感を促す『生死事大』への思いがあったのだろう。
このブログを書くために、この記事を再確認すると、2019年9月2日の記事であった…。
それにしても、死の間際とは思えない彼の屈託のない笑顔・・・私には出来そうにもなく、『更に参ぜよ、三十年』の禅悟が頭にこだまする。
内容がほとんど思い出せません・・。
また読んでみたいなと思いました。
私たちは皆、自国の風土の影響を受けているところがあるのだと思います。
キリスト教も、「日本なりの」教えになっているのだと聞いたことがありますし、
日本仏教も、日本化されていると苫米地氏の本で読みました。
なので遠藤氏の描写にも仏心がにじんでいたことはあり得ると思います。
「さっさと踏まんかい!」ときっと私も思うでしょうが、それはキリスト教を信仰していない立場だからだと思ったりもします。
人にはどうしても汚されたくない神域、
というものがあると思いませんか・・?
最近「完落ち」というルポ本を読みまして、
数々の殺人犯の自白を成功させた警視庁トップ刑事のインタビュー本なのですが、
オウム真理教の首脳陣の一人の、
信仰を(わざと)嘲ったところ、
何も知らない、ではなく
「お前には何も話さん!」と激昂して
自分が何か知っていることを暴露してしまった、
という話がありました。
私自身も最近、どうしても譲れないことを
笑われて、長年黙ってきた相手に
貴女は自分が思うほど超越していない、根拠はこれだ、と言いました。
なので、拷問は耐え難いし、私もキチジロウになるのでしょうが、体の生のために、大事なものを売り渡してしまった苦痛もまた、耐え難いほど激しいものだと思ったりします。
そういう、人々の行為の奥にある、
知らずしらずに受けている
社会的・文化的・本質的な、見えない影響に、
ぜひ多くの人に目を向けてもらいたいなと思っています。
そういうものを度外視したままで、悟りとは言えないのではないかと思うのです。
なぜなら自分を縛っているものに気がついていないからです。
知的な貴方の仏道追求に実りがあり、
世界に光が増えますように。
あなたのコメントを読んで、映画『沈黙』を思い出しました。踏み絵を踏まなければ拷問が待っているシーンで『さっさと、踏まんかい!』と、いかなる拷問にも耐えられそうもない私は念じていました。生きながらえたキチジロ〜こそは私そのもので、彼を生かしたのが仏心の働きそのものであるとみてました。遠藤周作はキリスト教を描くつもりで、仏心を描いてしまったように観えます。
「エンド・オブ・ライフ」(著:佐々涼子 出版:集英社インターナショナル)
という本はご存知ですか?ノンフィクションです。
200人以上の終末患者を看取ってきた、在宅看護師が、自分がガンになり、自らの死をどう受け入れたか、のレポです。
書いた人はその看護師の知り合いの、ジャーナリストで、・・看護師さん自身はお亡くなりになっています。
だから、本当にほんとうの、
死にゆく人の覚悟の言葉の、本です。
これを読んだからといって、
何か気づきを得られたかというと、
私には無理でした。
死はやはり、遠すぎて実感が難しいです。
私は虐待経験者です。
人間の「本当」、本当の教えを知りたいと思い、
いろいろ本を読んだり、考えたりしてきました。
10数年かけて思うのは、
宗教やスピリチュアル系で、何か悟ったようなことを言っている人たちや、宗教指導者たちは
本当に自分が拷問にあったり、今死ぬ、というような状況を考えているのか、という疑念です。
そうではなく、この、法治国家で裕福な日本で
信者の金と、説教する立場に守られた上で、
ぬくぬく、昔の人の言葉をひねくり回して
教団や自分の立場を守っているだけではないか、
と見えることが大変、多いです。
通りすがりの者から、いきなりこんなことを言われて、お困りにさせているかもしれませんが、
宗教などの人間の本質に関心のある、
心ある人たちに、一人でも多く
自分が口にしてる言葉は
拷問や死レベルに追い込まれた「自分」にも
本当に響くのか?
という視点をもっていただきたいとお伝えしたいのです。
(私はいかなる団体にも所属してませんし、勧誘する先もありません 笑)
いきなりの長文、本当に失礼いたしました。
こちらの記事を読み、本質にいたる気概のある方とお見受けしましたので、
ぜひその思考を発展させていただきたく
コメントを寄せました。
私も何か分かっているわけではなく、
だから、そこまで考えられる人が一人でも増えてほしいなぁ、と思っています。
今後の記事も楽しみにしております。
大変失礼いたしました。