じつは一週間早まり、明日の金曜日に今度引っ越す新アパートの鍵を貰い受けることになった。
何せ、引っ越すと言っても未だアパートの室内を実際に見ていないのだから、我々夫婦はもうだいぶ前から興奮気味であった。
『あ〜ぁ、いよいよ30年近く住んだこのアパートや地区とお別れか・・・』と思いながら近所を歩いていた時、何故か子供の頃まで
想いが馳せて、母とそれこそ毎日、毎日通った銭湯・・・のことを思い出し、なぜ銭湯は私を癒やすのだろうか?と、ふと思った時
銭湯のあの独特の空間ゆえに響き渡る風呂桶の音や湯を流す音・・・それらに私は癒やしを覚えるのだと思った。
湯に浸るだけであれば、スイスの自宅でも湯船に浸れるが、あの独特の銭湯の『響き』だけはここでは再現不可能なのだ…。
育ての母には赤ん坊の時から世話になっていたが、その母はだんだん盲目になり、小学校5,6年まで私は母の手を引いて毎夕方銭湯に通った。
その母は学校に行ったことがなく文盲でもあり、私に文字を教えたりすることは出来なかったが、
言葉による躾と盲人ゆえ、気配から事態を察する力を私に伝えたのだと思う。
いちいち言葉にしなくても何をすべきか、すべきではないか・・・子供の頃、毎日通った銭湯の『銭湯道』にはそういった教えが、癒やしとともに私を培っていた。
私が独り立ちした後、義理の姉の息子が私の役をして、母の手を引いて銭湯に通った。(写真は約40年前のもの)
『 風呂桶の 響きや耳に 故郷の 母と通った 銭湯の日々 ・・・』 一撮
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