『フランダースの犬を知らないベルギー人。ガリバーの日本旅行記を知らない日本人』
日本人なら誰でも知っているテレビアニメ『フランダースの犬』ですが舞台となるベルギーでは知名度はゼロに近く、日本人観光客に言われてからアントワープに記念碑の類を建設したらしい。少年ネロと愛犬のパトラッシュが最後に死ぬ話が暗いだけでは無く、例え19世紀の話でも内容的に動物虐待とか児童労働やら触れたくない内容なのです。しかも作者が自国人ではなくてイギリス人だった。
似た話ではアイルランド系イギリス人のジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記は誰でもが知っているが、その中で唯一実在の旅行地が我が日本国だった。ところが日本人では知名度がゼロに近いベルギーのフランダースの犬状態なのです。
ガリバー旅行記に描かれている18世紀の欧州での日本のイメージですが、ある種の文明国としの理想郷として描かれているのですから、余計に今の日本で流行らない原因が分からない。
日本を最大限ヨイショしている『ガリバーの日本旅行記』ですが、本来なら(他国は無視しても)日本だけでも大ベストセラーになる筈なのである。
薩長の新政府ですが、未開野蛮な江戸時代が明治(新政府)の文明開花で突然発展したとの神話を教科書で教えていたので小栗上野介や横須賀造船所を歴史教科書から抹殺するが、この歴史の書き換えの延長線上で政府の新しい神話と矛盾する『十分に文明的だった江戸時代』とのガリバー旅行記の記述が気に入らない。ベルギー人が嫌うフランダースの犬の様な話なのでしょう。
ちなみにガリバー旅行記の出版は1726年で18世紀当時には大人も子供も大評判になっているので1853年に日本に来航したアメリカ東インド艦隊のペリー提督も多分『ガリバーの日本旅行記』を間違いなく読んでいると思われる。
『明治の産業革命と何のかかわりもない松下村塾がユネスコの世界遺産に』
NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』では吉田松陰を英雄視するし、日本政府の申請による松下村塾はユネスコの近代化産業遺産のひとつとして取り上げられている。
吉田松陰の一番の特徴ですが、その考えのぶれ幅が大きくて少しも一貫性が無い。基本的に無茶苦茶であり、到底偉人などと呼べる人材ではない。
最初はペリー提督の黒船で外国に密航を企てて捕まり投獄されるほど、並外れて西洋列強に憧れていたのである。
ところが、その後一転して180度逆の攘夷(外国排斥)の急先鋒になり開国した幕府要人の暗殺を計画する始末。今風に言えば水戸学の右翼行動派と同じ思想を持つ幕末の尊王テロリストである。(あるいは恥ずかしい悪事を自分でネットに投稿する今流行の単なる目立ちたがり屋か)
テロ計画の悪事が露見して処刑された過激派テロリスト吉田松陰の開いた松下村塾は開設期間も短く講義録もないし塾生名簿の類も無い。、居住スペースの母屋部分を除けば狭苦しい3畳程度の小屋であると撮影前に現地を視察したNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロインの女優が語っている。
明治の産業革命と何のかかわりもない松下村塾が今回明治以降の産業革命の世界遺産になるが、これは安倍晋三首相の地盤首相の山口県(長州)のエコヒイキによる『こじ付け』で、これは集団的自衛権で平和法制を作るというのと同じ逆立ちした発想である。
『日本の近代化では最も大事な横須賀造船所を完璧に隠した歴史修正主義(歴史の書き換え)』
明治の産業革命とは無関係というか、逆に江戸幕府が進めていた産業革命を妨害した吉田松陰の方は入っているのに、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門の反射炉以上の意味が有る、横須賀造船所が入っていない。(そもそも江川は幕府の代官であり明治政府とは無関係)
日本の近代化のエポック-メーキングとして、横須賀造船所の意味は計り知れないし、何と今でも一部は横須賀の米海軍軍基地内のドッグとして利用されているらしいのです。
横須賀造船所の建設では功績が大きい勘定奉行や外国 奉行などを歴任した幕府方の大物が小栗上野介(忠順)ですが、何故か江戸無血開城後に、裁判抜きで官軍により処刑されているのです。
ところが、戊辰戦争での敵方でも会津戦争の松平容保や函館戦争の榎本武揚など官軍に武力で抵抗したもので死刑になったものはほとんど居ない。榎本武揚などは死刑どころとか、逆に能力を買われて新政府の高官として登用されているのです
処刑されたのは新撰組の近藤勇程度ですが、もちろんちゃんとした裁判(取調べ)が行われた後の話。
問答無用で殺したのは小栗上野介ぐらいなのです。しかも歴史教科書からも完全に小栗の名前が消されている。今回のユネスコの世界遺産からも横須賀造船所を排除する徹底振り。
この理由ですが、小栗の名前を残すと明治の新政府が文明開化した(野蛮未開な江戸時代)との伝説(神話)が崩壊することを心配したのかもしれない。
『日本人として初めて世界一周をした小栗忠順(上野介)』
日本で最初の株式会社の創設は坂本龍馬では無くて、使節団の一員として直接米国を詳しく視察している小栗上野介だった。
費用をかけて造船所を造っても成功する時分に、幕府はどうなっているかわからない。『船が必要なら外国から買えばよい』との批判に対して、小栗上野介は『幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない』『売り家に土蔵をつける』と日本の工業全般の基礎となる横須賀造船所を建設する。
作家の司馬遼太郎は小栗上野介のことを日本近代化の基礎をつくった『明治の父』と評しているが、東郷平八郎はわざわざ小栗上野介の遺族を自宅で歓待し『先頃の日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を完全に破ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです』と礼を言い揮毫までしている事実を指しているのだろう。
今でも造船所のドックは横須賀アメリカ海軍基地に存在する。また、このときオランダから輸入し据えつけられた「すべての機械の元になる機械」スチームハンマー(別名マザーマシーン)は、平成の時代まで約130年間も稼動していた。
小栗上野介は130年先まで考えていたことになる。しかも、徳川幕府の終りをすでに予感しながら、あえて横須賀造船所を造った小栗上野介は、徳川幕府のためにではなく日本のためにそれを造ったとされる。
誰よりも日本の行く末や幕府の運命を正確に予想していた小栗忠順(上野介)だったが、唯一自分の運命が見えなかったしい。
日本でもファンを多いレベッカなどゴシック小説のデュ・モーリアはフランス革命で国外逃亡した貴族の家系のエミグレであり、日本人以外はこのような革命の動乱時には必ず安全のために国境を越えて国外に亡命する。(ナチス政権崩壊、ドイツ敗北時には将官だけでは無く佐官クラスでも遠くパラグアイなどの南米に逃亡している)
薩長の攘夷と王政復古のクーデター(明治維新の名称は後から付けられた)成功後に、幕府高官だった小栗は領地の群馬県の田舎にひっそりと逼塞していたところを捕らえられ殺されているが、外国人(世界基準)とは大違いで、日本人ではそもそも『安全のため国外に亡命する』との発想自体が最初から『どこにも無い』のである。
『歴史の切っ先を 全速力で駆け抜けた山本五十六』
150年前の小栗上野介とその75年後の山本五十六の共通点とは、日本の将来(歴史の動き)が、事前に見えていたことであろう。そして『日本の未来を知っている』だけでは無くて自分でも積極的に歴史の歯車を動かしているのですから驚きだ。
私の父親の実話なのですが、小数の親しい人だけの会合だったので油断し、つい『日本が負ける』と口に出し、これを通報されて特高に取り調べを受けるが、この時に、『日本が負ける』は話を聞いたほうの勘違いで『一言も「日本が負ける」とは言っていない。』それは山本五十六元帥の『独ソ戦に関する論文』の中に、『最後にドイツが負ける』との記述があり、これを論じただけであると言い抜けて危機一髪で難を逃れている。山本五十六元帥ですが、その論文には泣く子も黙る特高といえども文句が言えない。
日本の警察(内務省)は軍隊(陸海軍省)には頭が上がらない構造なのと、開戦当時は日本軍が勝っていたのでまだまだ余裕があった。ボロ負けで殺気立っていた敗戦時なら、弁明を聞く耳を持たず間違いなく殺されていただろうと言っていました。
未来が見える山本五十六ですが、独ソ戦の将来(これから起きる未来の歴史)をほぼ正確に予測していたのである。
ところが、ここで重大な疑問が湧いて来る。
そもそも山本五十六の日本海軍連合艦隊がハワイの真珠湾のアメリカ軍太平洋艦隊を奇襲攻撃したのは(日本単独ではなくて、集団自衛権の日独伊三国同盟を基本として)『ドイツ軍が勝つ』との予測のもとでドイツという『勝ち馬に乗る』作戦の筈だったのである。
(当時のドイツはイギリスを除くヨーロッパ全土を占領しソ連の首都モスクワは包囲され陥落寸前に追い込まれていた)
『運命の1941年(昭和十六年)12月8日』
最初の武力行使は日本陸軍のイギリス領マレー半島への敵前上陸の奇襲作戦だった。
その開戦してから2時間半も後の作戦が、いわゆる真珠湾奇襲攻撃である。(電波は地球上を瞬時に伝わるのですから、到底2時間半も遅れては奇襲とは呼べない)
日付変更線の向こう側の東太平洋にあるハワイは1日遅い12月7日(日曜日)の早朝だった。
公式には、
『日本海軍機動部隊の総力をあげた六隻の空母から発進した三百四十機の大編隊が、真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を襲撃した。爆撃が始まるまで気づかれない奇襲により、八隻の戦艦のうちの四隻を撃沈、残る四隻も中小破させて戦闘不能にする大戦果をあげた。』ことになっている。
大本営発表では『西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』と発表したが、最初から明らかな嘘が混じっている。
西太平洋に日付変更線の向こう側にあるハワイは入らない。マレー半島のある南シナ海はもっと西太平洋に入らない。(西太平洋が戦場になるのは半年後のミッドウエー海戦以後の話)
大本営発表では『米英軍』と一括りに表現しているが日本海軍の攻撃した米軍と、日本陸軍が奇襲した英軍とは5000キロ以上離れていて軍事作戦としてまったく無関係だった。
しかも一番の不思議は歴史教科書やマスコミでは2時間半も遅れた海軍の(対米戦争)真珠湾空爆だけを大きく喧伝する一方で、対照的に本物の奇襲攻撃だった陸軍のマレー半島上陸(対英戦争)を何故か隠したことであろう。
明治の近代化遺産で日本政府が無関係な吉田松陰の松下村塾を入れる一方で、小栗上野介の横須賀造船所を抜いて隠した、同じ種類の歴史修正主義のように思われる。
『矢張りここでも、ブーメランのように最初の疑問に返って来る』
当時は平時では無く第二次世界大戦の真っ最中だった。
しかもドイツと戦う英仏両国のうちで、フランスが降服した直後に集団自衛権の日独伊三国同盟を結んだ日本政府ですが、相手が降服しているので宣戦布告無しに(何の労もなしに)、仏領インドシナを手に入れる。
同じ論法でいけば、陸軍のイギリス領マレー半島上陸は当然な成り行きです。
石油が有るオランダ領のインドネシアはもっと当然だった。(ドイツ軍に本国を占領されているオランダが日本に反撃することは無い)
日本にとって、山本五十六の連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃だけが、明らかに余分な戦争なのです。
ドイツに降服したオランダや降服寸前に追い込まれて余裕が無いイギリスの、遠いアジアの植民地を手に入れる目的での三国同盟締結だったはずなのです。
当時の日本の戦略は孫崎 享の『日米開戦の正体』によれば、『民主主義国家米国は戦争継続できない、2年頑張れば勝つ』だったらしいが、もしも、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃が無ければ、ルーズベルト大統領が無理やり対日開戦しても、このアメリカの戦争の大義には重大な疑義がある。
日本側の開戦前の予測だった、『民主主義国家米国は戦争継続できない。アメリカ国内の反戦世論が高まり、日本が2年頑張れば勝つ』が現実化する可能性は十分あった。
日清戦争も日露戦争も同じで、真珠湾と同じ日本軍の奇襲攻撃で戦端が開かれている。
同じことがそれ以外のノモンハンとか満洲事変や上海事変でも張作霖の爆殺でも共通する。
『余りにも幼稚な意味不明の日本海軍の作戦の立て方』
連戦連勝の日本軍ですが、相手が油断している隙を付いて、汚く勝っていたのが真実では有るが、矢張り真珠湾だけが異質な作戦で、意味不明。
まるで、やり方が幼稚な小学生の悪戯のピンポン・ダッシュと同じなのです。
他の奇襲作戦は、例外なく必ず占領が伴っているのですね。陸軍の行ったマレー半島奇襲作戦はまさにそれ。
要衝を占領するために奇襲攻撃を行っている。
対照的なのが日本海軍のハワイのオアフ島奇襲であり、『占領する』どころか米軍の基地設備を破壊することを躊躇するしまつ。
この奇襲作戦ですが、単にアメリカのルーズベルト大統領が喉から手が出るほど欲しかった第二次世界大戦への参戦の『大義名分』を与えるだけに終わっているのです。(ルーズベルトは反戦のスローガンで選挙で当選しているし、WW1から20年ほどしか経過していないので米国市民の反戦世論は強固だった)
実はこの『戦争の大義』と言うのは、戦争の勝敗を決定するほど大事な要素で、ましてや民主主義とか国民国家では決定的なカギを握っている。
嘘でもでっち上げでも何でも良いが、必ず『戦争の大義』が無いと、絶対に開戦出来ないのです。
宣戦布告は大統領や首相の権限では無く議会(国民の代表)の専決事項であり、近代国民国家では議会の承認がないと戦争が出来ない仕組みになっている。
イギリスの麻薬の密売が原因だったアヘン戦争開戦でも同じで、『貿易の自由を守る』をスローガン(口実)に小差で英国議会で対中戦争が可決されている。
『集団自衛権』
安倍晋三首相は、日米同盟での集団自衛権を主張する。
それなら、今のアメリカは対テロ戦争の真っ最中なのですから、もしも今の法案が通れば自動的に日本もISIS(イスラム国)対策に自衛隊が駆り出される。
同じことが74年前にも言えて、松岡洋右外務大臣が推進した集団自衛権の日独伊三国同盟の結ばれた時期(1940年9月27日)ですが、1939年からすでにドイツと英仏による第二次世界大戦が始まっていたのである。(しかも三国同盟締結時にはフランスやオランダの降服後なので、残っている敵国はイギリス一国だけだった)
今の歴史解釈の一般論では、
『なにしろアメリカと開戦して南方に進出することが急に決まった』ですが、
確かに『アメリカとの開戦』は急に決まった。
ところが、対象的にイギリスとの戦争(南方への進出)は日本の既定路線だったのである。
相互の軍事的連携を規定した集団自衛権を明記した日独伊三国同盟を結んだ時点で、遅かれ早かれ、日本の第二次世界大戦への参戦(イギリスへの宣戦布告)は避けれない話であった。
いわゆる『米英同盟』ですが何の条約的な義務は無い。歴史上規定する外交条約の類が一切何も無い。(その実体は精神的、宗教的な何かであろうと思われる)
ドイツは英仏との西部戦線を戦うに当たり、不利な二正面作戦を避ける目的で東部戦線対策として独ソ不可侵条約を結ぶ。(独ソ戦のバルバロッサ作戦が開始されるのはナチスによるフランスの全面占領が定着してから)
ところが、
我が大日本帝国の場合には、ドイツとは逆に(南方の資源確保を目的として)オランダやイギリスと戦争するときに、日本海軍は真珠湾奇襲作戦で、わざわざ無関係なアメリカを無理やり戦争に引きずり込むとの、余りにも無謀で軽率な二正面作戦を、自分から始めている。
これでは日本軍が負けて当然でしょう。
もちろん歴史を正しく判断出来る能力が有る山本五十六は当然、日本の行く末を最初から最後まで正しく予想していたのである。
『1941年(昭和16年)の もう一つの日本の選択肢』
海軍の対米奇襲作戦の目的とは何か。
1941年(昭和16年)には『もう一つの日本の選択肢』として石油獲得に目的をしぼった実力の行使が考えられるのである。
アメリカの禁輸を非難し、自尊自衛のために最低限必要な資源を獲得すると宣言して、インドネシアの油田地帯に宣戦布告なしの『事変』を仕掛ける方法である。(日本ですが、それまではずっとこの方式を採用していた)
この場合はイギリスもアメリカも対応に苦慮することになる。
イギリスは本国がドイツ軍とのバトルオブブリテンで大変なときに日本と全面的な戦争をしたくはない。
アメリカ大統領には、海外の戦争には兵を送らない公約がある。
しかし日本軍の行動が目に余れば、ただ傍観しているわけには行かなくなる。アメリカは戦争のきっかけになるような挑発行動に出てくる可能性があった。
日本海軍(山本五十六)は実際に石油獲得作戦を立案してみたのだが、いつどこで戦争状態に入るかの予想ができなかった。
アメリカの作戦で、アメリカの望む形での開戦には不安がつきまとった。
その間にも燃料は消費されて行く。
あと二年間で日本の軍艦は動けなくなるという見通しが、政策決定者にこの上なく強いストレスを与えたであろうことは想像に難くない。太平洋でアメリカと戦って勝てるかと聞かれた山本五十六は、『やれと言われれば半年や一年は暴れ回ってお目にかけるが、二年三年先のことは全然責任が持てません』と答えている。アメリカを相手に完勝が可能と思う者は一人もいなかった。
しかも山本五十六は、『アメリカと戦うからには、ワシントンまで行く覚悟が必要』との偶発的で限定的な日清日露戦争のような局地戦ではなく、アメリカと日本という近代国民国家同士の総力戦の常識を正直に語っている。
国家間の全面戦争とは、敵国の首都を攻略して全土を占領し皇帝(大統領)を捕らえるか殺して、初めて終結するものなのです。
日本には逆立ちしてもアメリカの首都を攻略する実力が無い。
それなら、1945年のハワイの真珠湾奇襲攻撃は、最初から無理筋であり絶対に有り得ない選択肢であったのです。
『日本の唯一の「出口戦略」を事前に潰した海軍(山本五十六)の真珠湾空爆』
日本歴史の公式解釈では、
(A)『それでも開戦に傾いたのは、「このままでは三年後にはジリ貧で滅びる」という恐怖である。』
(B)『負けない場合の唯一の理由づけは、民意に弱いアメリカは、一撃すれば戦争を嫌って和平に応じるだろうという、他人任せの楽観だった。』
の二つであるが、基本的にAとBは論理が相互に矛盾する。
ルーズベルト(アメリカ)が反戦の国民世論を無視して無理やり対日開戦した場合には、『戦争を嫌って和平に応じるだろうという』との日本側の予測は成り立つが、
ところが、真珠湾の『一撃後』にはリメンバー・パールハーバーで、この方程式は絶対に成り立たない。
それで仕方なく、
(1)『アメリカの作戦で、アメリカの望む形での開戦には不安がつきまとった。』→(2)『それよりも自前の作戦で戦いたくなるのが軍人の本能というものである。』
との理屈が考えるが、これは矢張り無理筋である。
『アメリカの作戦で、アメリカの望む形での開戦』であれば、一番最初の日本の前提だった『民主主義国家米国は戦争継続できない、2年頑張れば勝つ』可能性があったのである。
その唯一の日本の出口戦略を完全に潰したのが日本海軍の奇襲作戦の成功だった。出口戦略無き大日本帝国陸海軍の運命は、ただ『滅びるのみ』だったのである。
『ミッドウエーでの大敗北後の山本五十六』
日本人の中でほぼ唯一と言って良いほど世の中が見えていた(歴史の動きを理解していた)山本五十六は、日本には半年程度の継戦能力しか無い厳しい事実を熟知していた。
日米の圧倒的な国力の差も熟知していた。
それなら1941年12月8日の時点で、1945年8月15日の日本の無条件降伏(玉音放送)まで見通していた可能性が有るのである。
ましてや、戦争では二正面作戦が圧倒的に不利であるなどはの初歩の初歩の軍事知識など常識の範囲で知っていた。
ところが、海軍は真珠湾空爆の決行で、軍事常識として一番やってはいけない『最悪の二正面作戦』を、あえて行っている。
しかも開戦から半年後には陸軍は確保した占領地の維持を主張して、それ以上の戦線拡大に慎重な姿勢を見せていた。ようは戦線が余りにも拡大しすぎての日本軍の能力を超えていたのである。
この時に、なんと海軍側は無謀にも積極的な戦線拡大の強攻策を主唱していたばかりか、実際にもハワイ諸島の西側にあるアメリカのミッドウエー諸島の攻略に乗り出した。
世に言う、日本の分水嶺となったミッドウエー海戦である。
この海戦で日本海軍の連合艦隊は壊滅的な損害を出している。
山本五十六がミッドウェイの大敗北後に実際にしたことは、『誰のことも悪く言うな、全部の責任はオレにある』という発言であり、空母喪失の徹底的な隠蔽だった。
本当はアメリカと戦いたくなかった山本五十六は連合艦隊最高司令官なのに、まるで死地を求めている下級将校の如くに一番危険な最前線を飛びまわり視察を繰り返すが、この山本五十六の動きを伝える日本軍の暗号無線を傍受した米軍に搭乗機を撃墜され死亡する。
『英との二正面作戦を戦いたくなかったドイツ(ルドルフ・ヘス)と、わざわざ米との二正面作戦に持ち込んだ日本(山本五十六)の奇行』
イギリスと和平交渉を行うために単身飛行機で渡英したナチスドイツの副総統ルドルフ・ヘスと同じことを、山本五十六も考えていた可能性が有るが、米軍の方は最初から山本殺害を最優先の軍事目的にして周到に準備していたという。
日本近代化の父である小栗上野介と同じで、日本海軍の山本五十六が生きていては色々と都合が悪すぎるので殺されたのだろう。
ヘス副総統がBf110戦闘機でイギリスに向かったのは1941年5月10日。第二次世界大戦での帰趨を決したバルバロッサ作戦(ソビエト連邦奇襲攻撃作戦)は1941年6月22日である。
ナチスドイツが負けだしたから、仕方なくイギリスとの講和を模索したのでは無い。
なんと驚くことに、勝っていたからドイツは和平を考えた。
早期和平を実現するためには、戦争の主導権を握っている側からの提案が有効なのだが、何故かこのときイギリスはドイツの和平案に乗らなかった。
ルドルフ・ヘス副総統が和平交渉のためのイギリス行きは、フランスを降すなど連戦連勝でドイツが一番余裕が有った独ソ戦開始の一月以上前(日本海軍の真珠湾の半年以上前)であった。
ヒトラーは『ソ連は朽ちかけた小屋で一蹴りで倒れる』と地獄の独ソ戦に突入するが、この偽情報をヒトラーに掴ませた張本人はイギリスのチャーチルで有る可能性が一番高いのである。
バトルオブブリテンで苦しむイギリスが助かる唯一の方法とは、ドイツ軍の猛攻の矛先を別に向けることだった。
ヘスの渡英の1ヵ月後の独ソ戦開始(東部戦線)ですが、折角ヘス副総統を派遣した対英和平(西部戦線)の成立の前であり、これでは軍事的に不利な二正面作戦になるが、多分チャーチルはドイツに対して講和条件など何らかの条件提示を行うことでドイツを勘違いさせた可能性が高い。(ヘスはニュールンべルグ裁判で終身刑になり死ぬまで監禁される)
ドイツの誇る暗号エニグマは、イギリスの天才数学者チューリングが開発した機械式コンピュータによって解読されていたのでドイツの機密情報は筒抜け状態だった。独ソ戦の開始が近いことを知ったイギリスは、時間が経てば自分たちが勝つと知っていたのでドイツの和平案を蹴ったのである。
ドイツはフランスに対する電撃作戦開始の前にソ連と不可侵条約を結んで大成功している。
同じように、ドイツは対ソ奇襲作戦(バルバロッサ作戦)の前にイギリスとの和平を行う予定だったが大失敗している。
(Wikipediaによると、ナチスドイツは『我々はもはやヘス氏となんの関わりもない』と声明したが、しかしヘスの写真はドイツ各地で他のナチス幹部と同様に飾られ続け、家族には閣僚としてのヘスの年金が支払われ続けた。 ヘスがヒトラーに宛てた手紙の中では自分が失敗したことを認めている。)
難攻不落だったエニグマよりも遥かに簡単な構造の日本軍の暗号なら、もっと解読は容易だったが、日本は敗戦まで同じ暗号を変更せず使い続けた。
日本人なら誰でも知っているテレビアニメ『フランダースの犬』ですが舞台となるベルギーでは知名度はゼロに近く、日本人観光客に言われてからアントワープに記念碑の類を建設したらしい。少年ネロと愛犬のパトラッシュが最後に死ぬ話が暗いだけでは無く、例え19世紀の話でも内容的に動物虐待とか児童労働やら触れたくない内容なのです。しかも作者が自国人ではなくてイギリス人だった。
似た話ではアイルランド系イギリス人のジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記は誰でもが知っているが、その中で唯一実在の旅行地が我が日本国だった。ところが日本人では知名度がゼロに近いベルギーのフランダースの犬状態なのです。
ガリバー旅行記に描かれている18世紀の欧州での日本のイメージですが、ある種の文明国としの理想郷として描かれているのですから、余計に今の日本で流行らない原因が分からない。
日本を最大限ヨイショしている『ガリバーの日本旅行記』ですが、本来なら(他国は無視しても)日本だけでも大ベストセラーになる筈なのである。
薩長の新政府ですが、未開野蛮な江戸時代が明治(新政府)の文明開花で突然発展したとの神話を教科書で教えていたので小栗上野介や横須賀造船所を歴史教科書から抹殺するが、この歴史の書き換えの延長線上で政府の新しい神話と矛盾する『十分に文明的だった江戸時代』とのガリバー旅行記の記述が気に入らない。ベルギー人が嫌うフランダースの犬の様な話なのでしょう。
ちなみにガリバー旅行記の出版は1726年で18世紀当時には大人も子供も大評判になっているので1853年に日本に来航したアメリカ東インド艦隊のペリー提督も多分『ガリバーの日本旅行記』を間違いなく読んでいると思われる。
『明治の産業革命と何のかかわりもない松下村塾がユネスコの世界遺産に』
NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』では吉田松陰を英雄視するし、日本政府の申請による松下村塾はユネスコの近代化産業遺産のひとつとして取り上げられている。
吉田松陰の一番の特徴ですが、その考えのぶれ幅が大きくて少しも一貫性が無い。基本的に無茶苦茶であり、到底偉人などと呼べる人材ではない。
最初はペリー提督の黒船で外国に密航を企てて捕まり投獄されるほど、並外れて西洋列強に憧れていたのである。
ところが、その後一転して180度逆の攘夷(外国排斥)の急先鋒になり開国した幕府要人の暗殺を計画する始末。今風に言えば水戸学の右翼行動派と同じ思想を持つ幕末の尊王テロリストである。(あるいは恥ずかしい悪事を自分でネットに投稿する今流行の単なる目立ちたがり屋か)
テロ計画の悪事が露見して処刑された過激派テロリスト吉田松陰の開いた松下村塾は開設期間も短く講義録もないし塾生名簿の類も無い。、居住スペースの母屋部分を除けば狭苦しい3畳程度の小屋であると撮影前に現地を視察したNHKの大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロインの女優が語っている。
明治の産業革命と何のかかわりもない松下村塾が今回明治以降の産業革命の世界遺産になるが、これは安倍晋三首相の地盤首相の山口県(長州)のエコヒイキによる『こじ付け』で、これは集団的自衛権で平和法制を作るというのと同じ逆立ちした発想である。
『日本の近代化では最も大事な横須賀造船所を完璧に隠した歴史修正主義(歴史の書き換え)』
明治の産業革命とは無関係というか、逆に江戸幕府が進めていた産業革命を妨害した吉田松陰の方は入っているのに、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門の反射炉以上の意味が有る、横須賀造船所が入っていない。(そもそも江川は幕府の代官であり明治政府とは無関係)
日本の近代化のエポック-メーキングとして、横須賀造船所の意味は計り知れないし、何と今でも一部は横須賀の米海軍軍基地内のドッグとして利用されているらしいのです。
横須賀造船所の建設では功績が大きい勘定奉行や外国 奉行などを歴任した幕府方の大物が小栗上野介(忠順)ですが、何故か江戸無血開城後に、裁判抜きで官軍により処刑されているのです。
ところが、戊辰戦争での敵方でも会津戦争の松平容保や函館戦争の榎本武揚など官軍に武力で抵抗したもので死刑になったものはほとんど居ない。榎本武揚などは死刑どころとか、逆に能力を買われて新政府の高官として登用されているのです
処刑されたのは新撰組の近藤勇程度ですが、もちろんちゃんとした裁判(取調べ)が行われた後の話。
問答無用で殺したのは小栗上野介ぐらいなのです。しかも歴史教科書からも完全に小栗の名前が消されている。今回のユネスコの世界遺産からも横須賀造船所を排除する徹底振り。
この理由ですが、小栗の名前を残すと明治の新政府が文明開化した(野蛮未開な江戸時代)との伝説(神話)が崩壊することを心配したのかもしれない。
『日本人として初めて世界一周をした小栗忠順(上野介)』
日本で最初の株式会社の創設は坂本龍馬では無くて、使節団の一員として直接米国を詳しく視察している小栗上野介だった。
費用をかけて造船所を造っても成功する時分に、幕府はどうなっているかわからない。『船が必要なら外国から買えばよい』との批判に対して、小栗上野介は『幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない』『売り家に土蔵をつける』と日本の工業全般の基礎となる横須賀造船所を建設する。
作家の司馬遼太郎は小栗上野介のことを日本近代化の基礎をつくった『明治の父』と評しているが、東郷平八郎はわざわざ小栗上野介の遺族を自宅で歓待し『先頃の日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を完全に破ることができたのは、小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたおかげです』と礼を言い揮毫までしている事実を指しているのだろう。
今でも造船所のドックは横須賀アメリカ海軍基地に存在する。また、このときオランダから輸入し据えつけられた「すべての機械の元になる機械」スチームハンマー(別名マザーマシーン)は、平成の時代まで約130年間も稼動していた。
小栗上野介は130年先まで考えていたことになる。しかも、徳川幕府の終りをすでに予感しながら、あえて横須賀造船所を造った小栗上野介は、徳川幕府のためにではなく日本のためにそれを造ったとされる。
誰よりも日本の行く末や幕府の運命を正確に予想していた小栗忠順(上野介)だったが、唯一自分の運命が見えなかったしい。
日本でもファンを多いレベッカなどゴシック小説のデュ・モーリアはフランス革命で国外逃亡した貴族の家系のエミグレであり、日本人以外はこのような革命の動乱時には必ず安全のために国境を越えて国外に亡命する。(ナチス政権崩壊、ドイツ敗北時には将官だけでは無く佐官クラスでも遠くパラグアイなどの南米に逃亡している)
薩長の攘夷と王政復古のクーデター(明治維新の名称は後から付けられた)成功後に、幕府高官だった小栗は領地の群馬県の田舎にひっそりと逼塞していたところを捕らえられ殺されているが、外国人(世界基準)とは大違いで、日本人ではそもそも『安全のため国外に亡命する』との発想自体が最初から『どこにも無い』のである。
『歴史の切っ先を 全速力で駆け抜けた山本五十六』
150年前の小栗上野介とその75年後の山本五十六の共通点とは、日本の将来(歴史の動き)が、事前に見えていたことであろう。そして『日本の未来を知っている』だけでは無くて自分でも積極的に歴史の歯車を動かしているのですから驚きだ。
私の父親の実話なのですが、小数の親しい人だけの会合だったので油断し、つい『日本が負ける』と口に出し、これを通報されて特高に取り調べを受けるが、この時に、『日本が負ける』は話を聞いたほうの勘違いで『一言も「日本が負ける」とは言っていない。』それは山本五十六元帥の『独ソ戦に関する論文』の中に、『最後にドイツが負ける』との記述があり、これを論じただけであると言い抜けて危機一髪で難を逃れている。山本五十六元帥ですが、その論文には泣く子も黙る特高といえども文句が言えない。
日本の警察(内務省)は軍隊(陸海軍省)には頭が上がらない構造なのと、開戦当時は日本軍が勝っていたのでまだまだ余裕があった。ボロ負けで殺気立っていた敗戦時なら、弁明を聞く耳を持たず間違いなく殺されていただろうと言っていました。
未来が見える山本五十六ですが、独ソ戦の将来(これから起きる未来の歴史)をほぼ正確に予測していたのである。
ところが、ここで重大な疑問が湧いて来る。
そもそも山本五十六の日本海軍連合艦隊がハワイの真珠湾のアメリカ軍太平洋艦隊を奇襲攻撃したのは(日本単独ではなくて、集団自衛権の日独伊三国同盟を基本として)『ドイツ軍が勝つ』との予測のもとでドイツという『勝ち馬に乗る』作戦の筈だったのである。
(当時のドイツはイギリスを除くヨーロッパ全土を占領しソ連の首都モスクワは包囲され陥落寸前に追い込まれていた)
『運命の1941年(昭和十六年)12月8日』
最初の武力行使は日本陸軍のイギリス領マレー半島への敵前上陸の奇襲作戦だった。
その開戦してから2時間半も後の作戦が、いわゆる真珠湾奇襲攻撃である。(電波は地球上を瞬時に伝わるのですから、到底2時間半も遅れては奇襲とは呼べない)
日付変更線の向こう側の東太平洋にあるハワイは1日遅い12月7日(日曜日)の早朝だった。
公式には、
『日本海軍機動部隊の総力をあげた六隻の空母から発進した三百四十機の大編隊が、真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊を襲撃した。爆撃が始まるまで気づかれない奇襲により、八隻の戦艦のうちの四隻を撃沈、残る四隻も中小破させて戦闘不能にする大戦果をあげた。』ことになっている。
大本営発表では『西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり』と発表したが、最初から明らかな嘘が混じっている。
西太平洋に日付変更線の向こう側にあるハワイは入らない。マレー半島のある南シナ海はもっと西太平洋に入らない。(西太平洋が戦場になるのは半年後のミッドウエー海戦以後の話)
大本営発表では『米英軍』と一括りに表現しているが日本海軍の攻撃した米軍と、日本陸軍が奇襲した英軍とは5000キロ以上離れていて軍事作戦としてまったく無関係だった。
しかも一番の不思議は歴史教科書やマスコミでは2時間半も遅れた海軍の(対米戦争)真珠湾空爆だけを大きく喧伝する一方で、対照的に本物の奇襲攻撃だった陸軍のマレー半島上陸(対英戦争)を何故か隠したことであろう。
明治の近代化遺産で日本政府が無関係な吉田松陰の松下村塾を入れる一方で、小栗上野介の横須賀造船所を抜いて隠した、同じ種類の歴史修正主義のように思われる。
『矢張りここでも、ブーメランのように最初の疑問に返って来る』
当時は平時では無く第二次世界大戦の真っ最中だった。
しかもドイツと戦う英仏両国のうちで、フランスが降服した直後に集団自衛権の日独伊三国同盟を結んだ日本政府ですが、相手が降服しているので宣戦布告無しに(何の労もなしに)、仏領インドシナを手に入れる。
同じ論法でいけば、陸軍のイギリス領マレー半島上陸は当然な成り行きです。
石油が有るオランダ領のインドネシアはもっと当然だった。(ドイツ軍に本国を占領されているオランダが日本に反撃することは無い)
日本にとって、山本五十六の連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃だけが、明らかに余分な戦争なのです。
ドイツに降服したオランダや降服寸前に追い込まれて余裕が無いイギリスの、遠いアジアの植民地を手に入れる目的での三国同盟締結だったはずなのです。
当時の日本の戦略は孫崎 享の『日米開戦の正体』によれば、『民主主義国家米国は戦争継続できない、2年頑張れば勝つ』だったらしいが、もしも、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃が無ければ、ルーズベルト大統領が無理やり対日開戦しても、このアメリカの戦争の大義には重大な疑義がある。
日本側の開戦前の予測だった、『民主主義国家米国は戦争継続できない。アメリカ国内の反戦世論が高まり、日本が2年頑張れば勝つ』が現実化する可能性は十分あった。
日清戦争も日露戦争も同じで、真珠湾と同じ日本軍の奇襲攻撃で戦端が開かれている。
同じことがそれ以外のノモンハンとか満洲事変や上海事変でも張作霖の爆殺でも共通する。
『余りにも幼稚な意味不明の日本海軍の作戦の立て方』
連戦連勝の日本軍ですが、相手が油断している隙を付いて、汚く勝っていたのが真実では有るが、矢張り真珠湾だけが異質な作戦で、意味不明。
まるで、やり方が幼稚な小学生の悪戯のピンポン・ダッシュと同じなのです。
他の奇襲作戦は、例外なく必ず占領が伴っているのですね。陸軍の行ったマレー半島奇襲作戦はまさにそれ。
要衝を占領するために奇襲攻撃を行っている。
対照的なのが日本海軍のハワイのオアフ島奇襲であり、『占領する』どころか米軍の基地設備を破壊することを躊躇するしまつ。
この奇襲作戦ですが、単にアメリカのルーズベルト大統領が喉から手が出るほど欲しかった第二次世界大戦への参戦の『大義名分』を与えるだけに終わっているのです。(ルーズベルトは反戦のスローガンで選挙で当選しているし、WW1から20年ほどしか経過していないので米国市民の反戦世論は強固だった)
実はこの『戦争の大義』と言うのは、戦争の勝敗を決定するほど大事な要素で、ましてや民主主義とか国民国家では決定的なカギを握っている。
嘘でもでっち上げでも何でも良いが、必ず『戦争の大義』が無いと、絶対に開戦出来ないのです。
宣戦布告は大統領や首相の権限では無く議会(国民の代表)の専決事項であり、近代国民国家では議会の承認がないと戦争が出来ない仕組みになっている。
イギリスの麻薬の密売が原因だったアヘン戦争開戦でも同じで、『貿易の自由を守る』をスローガン(口実)に小差で英国議会で対中戦争が可決されている。
『集団自衛権』
安倍晋三首相は、日米同盟での集団自衛権を主張する。
それなら、今のアメリカは対テロ戦争の真っ最中なのですから、もしも今の法案が通れば自動的に日本もISIS(イスラム国)対策に自衛隊が駆り出される。
同じことが74年前にも言えて、松岡洋右外務大臣が推進した集団自衛権の日独伊三国同盟の結ばれた時期(1940年9月27日)ですが、1939年からすでにドイツと英仏による第二次世界大戦が始まっていたのである。(しかも三国同盟締結時にはフランスやオランダの降服後なので、残っている敵国はイギリス一国だけだった)
今の歴史解釈の一般論では、
『なにしろアメリカと開戦して南方に進出することが急に決まった』ですが、
確かに『アメリカとの開戦』は急に決まった。
ところが、対象的にイギリスとの戦争(南方への進出)は日本の既定路線だったのである。
相互の軍事的連携を規定した集団自衛権を明記した日独伊三国同盟を結んだ時点で、遅かれ早かれ、日本の第二次世界大戦への参戦(イギリスへの宣戦布告)は避けれない話であった。
いわゆる『米英同盟』ですが何の条約的な義務は無い。歴史上規定する外交条約の類が一切何も無い。(その実体は精神的、宗教的な何かであろうと思われる)
ドイツは英仏との西部戦線を戦うに当たり、不利な二正面作戦を避ける目的で東部戦線対策として独ソ不可侵条約を結ぶ。(独ソ戦のバルバロッサ作戦が開始されるのはナチスによるフランスの全面占領が定着してから)
ところが、
我が大日本帝国の場合には、ドイツとは逆に(南方の資源確保を目的として)オランダやイギリスと戦争するときに、日本海軍は真珠湾奇襲作戦で、わざわざ無関係なアメリカを無理やり戦争に引きずり込むとの、余りにも無謀で軽率な二正面作戦を、自分から始めている。
これでは日本軍が負けて当然でしょう。
もちろん歴史を正しく判断出来る能力が有る山本五十六は当然、日本の行く末を最初から最後まで正しく予想していたのである。
『1941年(昭和16年)の もう一つの日本の選択肢』
海軍の対米奇襲作戦の目的とは何か。
1941年(昭和16年)には『もう一つの日本の選択肢』として石油獲得に目的をしぼった実力の行使が考えられるのである。
アメリカの禁輸を非難し、自尊自衛のために最低限必要な資源を獲得すると宣言して、インドネシアの油田地帯に宣戦布告なしの『事変』を仕掛ける方法である。(日本ですが、それまではずっとこの方式を採用していた)
この場合はイギリスもアメリカも対応に苦慮することになる。
イギリスは本国がドイツ軍とのバトルオブブリテンで大変なときに日本と全面的な戦争をしたくはない。
アメリカ大統領には、海外の戦争には兵を送らない公約がある。
しかし日本軍の行動が目に余れば、ただ傍観しているわけには行かなくなる。アメリカは戦争のきっかけになるような挑発行動に出てくる可能性があった。
日本海軍(山本五十六)は実際に石油獲得作戦を立案してみたのだが、いつどこで戦争状態に入るかの予想ができなかった。
アメリカの作戦で、アメリカの望む形での開戦には不安がつきまとった。
その間にも燃料は消費されて行く。
あと二年間で日本の軍艦は動けなくなるという見通しが、政策決定者にこの上なく強いストレスを与えたであろうことは想像に難くない。太平洋でアメリカと戦って勝てるかと聞かれた山本五十六は、『やれと言われれば半年や一年は暴れ回ってお目にかけるが、二年三年先のことは全然責任が持てません』と答えている。アメリカを相手に完勝が可能と思う者は一人もいなかった。
しかも山本五十六は、『アメリカと戦うからには、ワシントンまで行く覚悟が必要』との偶発的で限定的な日清日露戦争のような局地戦ではなく、アメリカと日本という近代国民国家同士の総力戦の常識を正直に語っている。
国家間の全面戦争とは、敵国の首都を攻略して全土を占領し皇帝(大統領)を捕らえるか殺して、初めて終結するものなのです。
日本には逆立ちしてもアメリカの首都を攻略する実力が無い。
それなら、1945年のハワイの真珠湾奇襲攻撃は、最初から無理筋であり絶対に有り得ない選択肢であったのです。
『日本の唯一の「出口戦略」を事前に潰した海軍(山本五十六)の真珠湾空爆』
日本歴史の公式解釈では、
(A)『それでも開戦に傾いたのは、「このままでは三年後にはジリ貧で滅びる」という恐怖である。』
(B)『負けない場合の唯一の理由づけは、民意に弱いアメリカは、一撃すれば戦争を嫌って和平に応じるだろうという、他人任せの楽観だった。』
の二つであるが、基本的にAとBは論理が相互に矛盾する。
ルーズベルト(アメリカ)が反戦の国民世論を無視して無理やり対日開戦した場合には、『戦争を嫌って和平に応じるだろうという』との日本側の予測は成り立つが、
ところが、真珠湾の『一撃後』にはリメンバー・パールハーバーで、この方程式は絶対に成り立たない。
それで仕方なく、
(1)『アメリカの作戦で、アメリカの望む形での開戦には不安がつきまとった。』→(2)『それよりも自前の作戦で戦いたくなるのが軍人の本能というものである。』
との理屈が考えるが、これは矢張り無理筋である。
『アメリカの作戦で、アメリカの望む形での開戦』であれば、一番最初の日本の前提だった『民主主義国家米国は戦争継続できない、2年頑張れば勝つ』可能性があったのである。
その唯一の日本の出口戦略を完全に潰したのが日本海軍の奇襲作戦の成功だった。出口戦略無き大日本帝国陸海軍の運命は、ただ『滅びるのみ』だったのである。
『ミッドウエーでの大敗北後の山本五十六』
日本人の中でほぼ唯一と言って良いほど世の中が見えていた(歴史の動きを理解していた)山本五十六は、日本には半年程度の継戦能力しか無い厳しい事実を熟知していた。
日米の圧倒的な国力の差も熟知していた。
それなら1941年12月8日の時点で、1945年8月15日の日本の無条件降伏(玉音放送)まで見通していた可能性が有るのである。
ましてや、戦争では二正面作戦が圧倒的に不利であるなどはの初歩の初歩の軍事知識など常識の範囲で知っていた。
ところが、海軍は真珠湾空爆の決行で、軍事常識として一番やってはいけない『最悪の二正面作戦』を、あえて行っている。
しかも開戦から半年後には陸軍は確保した占領地の維持を主張して、それ以上の戦線拡大に慎重な姿勢を見せていた。ようは戦線が余りにも拡大しすぎての日本軍の能力を超えていたのである。
この時に、なんと海軍側は無謀にも積極的な戦線拡大の強攻策を主唱していたばかりか、実際にもハワイ諸島の西側にあるアメリカのミッドウエー諸島の攻略に乗り出した。
世に言う、日本の分水嶺となったミッドウエー海戦である。
この海戦で日本海軍の連合艦隊は壊滅的な損害を出している。
山本五十六がミッドウェイの大敗北後に実際にしたことは、『誰のことも悪く言うな、全部の責任はオレにある』という発言であり、空母喪失の徹底的な隠蔽だった。
本当はアメリカと戦いたくなかった山本五十六は連合艦隊最高司令官なのに、まるで死地を求めている下級将校の如くに一番危険な最前線を飛びまわり視察を繰り返すが、この山本五十六の動きを伝える日本軍の暗号無線を傍受した米軍に搭乗機を撃墜され死亡する。
『英との二正面作戦を戦いたくなかったドイツ(ルドルフ・ヘス)と、わざわざ米との二正面作戦に持ち込んだ日本(山本五十六)の奇行』
イギリスと和平交渉を行うために単身飛行機で渡英したナチスドイツの副総統ルドルフ・ヘスと同じことを、山本五十六も考えていた可能性が有るが、米軍の方は最初から山本殺害を最優先の軍事目的にして周到に準備していたという。
日本近代化の父である小栗上野介と同じで、日本海軍の山本五十六が生きていては色々と都合が悪すぎるので殺されたのだろう。
ヘス副総統がBf110戦闘機でイギリスに向かったのは1941年5月10日。第二次世界大戦での帰趨を決したバルバロッサ作戦(ソビエト連邦奇襲攻撃作戦)は1941年6月22日である。
ナチスドイツが負けだしたから、仕方なくイギリスとの講和を模索したのでは無い。
なんと驚くことに、勝っていたからドイツは和平を考えた。
早期和平を実現するためには、戦争の主導権を握っている側からの提案が有効なのだが、何故かこのときイギリスはドイツの和平案に乗らなかった。
ルドルフ・ヘス副総統が和平交渉のためのイギリス行きは、フランスを降すなど連戦連勝でドイツが一番余裕が有った独ソ戦開始の一月以上前(日本海軍の真珠湾の半年以上前)であった。
ヒトラーは『ソ連は朽ちかけた小屋で一蹴りで倒れる』と地獄の独ソ戦に突入するが、この偽情報をヒトラーに掴ませた張本人はイギリスのチャーチルで有る可能性が一番高いのである。
バトルオブブリテンで苦しむイギリスが助かる唯一の方法とは、ドイツ軍の猛攻の矛先を別に向けることだった。
ヘスの渡英の1ヵ月後の独ソ戦開始(東部戦線)ですが、折角ヘス副総統を派遣した対英和平(西部戦線)の成立の前であり、これでは軍事的に不利な二正面作戦になるが、多分チャーチルはドイツに対して講和条件など何らかの条件提示を行うことでドイツを勘違いさせた可能性が高い。(ヘスはニュールンべルグ裁判で終身刑になり死ぬまで監禁される)
ドイツの誇る暗号エニグマは、イギリスの天才数学者チューリングが開発した機械式コンピュータによって解読されていたのでドイツの機密情報は筒抜け状態だった。独ソ戦の開始が近いことを知ったイギリスは、時間が経てば自分たちが勝つと知っていたのでドイツの和平案を蹴ったのである。
ドイツはフランスに対する電撃作戦開始の前にソ連と不可侵条約を結んで大成功している。
同じように、ドイツは対ソ奇襲作戦(バルバロッサ作戦)の前にイギリスとの和平を行う予定だったが大失敗している。
(Wikipediaによると、ナチスドイツは『我々はもはやヘス氏となんの関わりもない』と声明したが、しかしヘスの写真はドイツ各地で他のナチス幹部と同様に飾られ続け、家族には閣僚としてのヘスの年金が支払われ続けた。 ヘスがヒトラーに宛てた手紙の中では自分が失敗したことを認めている。)
難攻不落だったエニグマよりも遥かに簡単な構造の日本軍の暗号なら、もっと解読は容易だったが、日本は敗戦まで同じ暗号を変更せず使い続けた。
文久2年12月12日(1863年1月31日) 高杉晋作ら長州藩士10名、英国公使館焼き討ち事件を起こしているのですが、
その10日後の文久2年12月22日には伊藤博文が塙保己一の4男の塙次郎を暗殺していう。
伊藤博文は尊王に反することを研究しているそうだと勘違いして仲間と二人で殺すが。あとであれは誤解だった判明するが、
自分たちの明治政府だから『あの時は仕方がなかった』と有耶無耶に。
幕末の長崎にいた著名な医師シーボルトの長男アレクサンダー・フォン・シーボルトの日記では、
シーボルトは、伊藤博文が語った文久二年(一八六二)一二月二一日夜の国学者塙次郎忠宝〈ハナワ・ジロウ・タダトミ〉暗殺の一部始終を記している。
酒に酔った伊藤が自分の若い頃の軽はずみな行動をシーボルトの息子に告白した。
国会図書館からこの日記の原書によれば
塙忠宝暗殺事件からほぼ二十年目にあたる一八八二(明治一五)年三月二一日(土曜日)の日記で、その場に秘書の伊東巳代治〈ミヨジ〉も居合わせたとシーボルトは記していた。
場所はベルリンのヒラーなる酒楼である。
伊藤がシーボルトに話したのはその週の火曜日か月曜日であったらしい。
伊藤博文の話が余りにも衝撃的で、聞いてすぐには日記に記せなかったのかもしれない。
伊藤のこの夜の告白が、シーボルトには伊藤博文の本心からの懺悔だと思えた。彼はこれを綴った日の日記の最後の言葉を「美しき魂の告白!(Gestaendnisse einer schönen Seele!)」と結んでいる。
なお、アレクサンダー・シーボルトは子供のころから父・フランツ・フォン・シーボルトにつ、日本語に堪能で、日本外務省の通訳をつとめていた。
伊藤博文は塙次郎(忠宝)を「国賊」と呼びかけ殺害。
文久2年(1862)12月21日、麹町三番町付近で和歌の会から帰宅途中の国学者・塙次郎(盲目の国学者塙保己一の四男)と加藤甲次郎の2名を山尾庸三とともに斬殺する。(塙次郎は翌日の22日死亡)
1921年には渋沢栄一が暗殺の犯人が伊藤と山尾の2名だと明かしている。
伊藤らが塙次郎を暗殺した理由は、廃帝にする方法を調べているという噂を聞きつけたから。
伊藤は血まみれになりながらも、人目に触れることなくうまく逃げおおせる。
明治の元勲の中では一番見識の有る伊藤博文でもこの始末。
幕末の吉田松陰の松下村塾の役割ですが、間違いなく今のISISと同じテロリストの養成所ですね。
今の安倍晋三首相の安全保障の発想ですが、今の世界で一番強いのはアメリカであり、
それなら日米安保を強化さえすれば、一番良いとの考えなのでしょうが、
これ、日本がアメリカの属州になればもっと良いとの結論になりますよ。
日本の文科省ですが、大学にまで日の丸や君が代を押し付ける一方で、明治の先人たちが苦労して守ってきた日本語を粗末にしている。
中国朝鮮などとは大違いで、我が日本国は自国語のみでも高等教育が可能なすステムが出来上がっているので、そもそものモチベーションが低い。英語などごく一部の特殊な人以外には、余り必要性が無いのですが、小学生にまで必修化するし中学生には全国一律のテストを行う方針らしい。もっと驚いたのは大學の教養課程の半分を英語で講義するとのとんでもない売国路線も計画しているのです。
安倍晋三ら日本の右翼連中は、独立を放棄して日本をアメリカの属州にする心算のようですよ。
ところがそのアメリカが今おかしくなっている。
一去年はISISを支援する目的で毒ガスを口実にしてシリア空爆を企画して、寸前でロシアのプーチンに止められたが、
今年は一応ISISの方を米軍は空爆しているのですが、やる気の無さは明らか。8ヶ月間で500回以上空爆したとされるが、一向に弱体化する様子が無い。
それは当然で、イスラエル軍がガザを空爆したときの規模と比べれば、全部合わせても2~3日分に過ぎない。
ISISが弱体化しない程度に、細々と空爆していお茶を濁しているのが実情なのです。
何故アメリカ軍はISISに遠慮しているかの理由は極簡単で、実はイスラエルの情報部が積極的にISISを支援しているので、米軍としてはやりたくても空爆を本格化出来ないのです。
ISのの戦闘員をイスラエルが色々と支援していたのは今までも噂されていたのですが、今では毎日新聞などでも報道しているほど有名になっている。
日本ではアメリカの信用度は抜群なので、『アメリカと同じなら安心』と考えるが、
中東では逆で、アメリカの信用度はゼロで、一般民衆の段階では憎まれている。
日本が『アメリカと同じ』だと看做されれば間違いなく危険が想像以上に高まることは間違いないでしょう。
毀誉褒貶、いろいろありますが有名な割に実績が伴わないのが松陰です。
軍事知識もあやふやで、帝国主義者以外に何があるのでしょう。テレビも見てないのでよく知りませんが、幕府側の人物の方がはるかに優秀ですね。
なお、榎本武揚は自らの死罪を前提に兵を罪に問わないという条件で官軍に降ったのですが、彼の有能さを知っている黒田清隆が頭を剃って薩長政権に助命・登用を懇願したことは有名です。
初期の日本帝国はイギリス帝国と日英同盟を組み、ロシアを倒し台頭しました。
そして脅威国のロシア帝国を滅ぼすために、
明石元二郎を使いロシア社会主義革命を強力に補佐しました。
(レーニン政権は日本帝国に感謝していた。)
日本帝国は共産主義を国内では弾圧したが、
ユーラシア大陸においては共産主義を支援していました。
太平洋戦争ですが結局は連合国の国益に成った戦争でした。
日本海軍の内部では実は敵側との密約でもあったんじゃないかと疑います。
ISISを米軍が事実上支援しているように事実は小説より奇なのかもしれません。