逝きし世の面影

政治、経済、社会、宗教などを脈絡無く語る

探検家のフランクリンと冒険家植村直己、戦場ジャーナリスト橋田信介

2014年09月18日 | 社会・歴史

(169年ぶりに海底で発見された「北西航路」フランクリン探検隊の船の画像。カナダ政府機関「パークス・カナダ」のHPより))
 
この沈没船は1845年にカナダ北極圏の北西航路の探索に出たまま行方不明になったフランクリン探検隊(乗組員129人)の2艘のうちの1艘で、カナダ北部のキングウィリアム島沖のビクトリア海峡の海底に原形をとどめた状態で横たわっていた。調査にあたっていたカナダ政府のハーパー首相が9月9日、『カナダの歴史にとっても、重要な発見だ。フランクリンの遠征によって、我々が北極圏での主権を築く基盤となったのだから』と歴史的発見を強調した。
(カナダ政府は北西航路の大部分を占めるカナダ領の島々の海峡部分を、カナダの領海に当たる『内水』としているが、多くの国はこれらの海峡を自由な国際航行の可能な国際海峡であるとして対立している)
今回のフランクリン隊の170年ぶりの発見とか、日本でも長崎県鷹島沖の740年前の元寇の沈没船発見など注目を集める水中考古学は1960年代頃から半世紀程度と歴史が浅いが、無酸素の水中では材木など有機物がそのままの状態で残っており数々の有益な発見が行われると予想される。

『幻だった北西航路』

ヨーロッパ(大西洋)から北極圏を東回りにアジア(太平洋のベーリング海峡)に最短距離で到達するのが北極航路(北東航路)で、スウェーデン系フィンランド人のノルデンショルドは蒸気船ヴェガ号で1878年ストックホルムからユーラシア大陸北方(ロシア・シベリア沖)の北極海を通って1879年に横浜に入港、横断に成功している。1932年夏ソ連のシュミット隊は砕氷船シビリャコフで史上初めて越冬せずに一夏で北極海を横断する。現在北極航路(北東航路)は年間で夏期の2ヶ月だけ航路として開通するようになった。
対して、フランクリン隊が探していたのはカナダ側の北極圏を逆回り(西回り)でベーリング海峡に到達するルートである。
17世紀以降アジアへの最短ルートである『北西航路発見』の探検隊の歴史は長いが、この『北西航路』はイギリス海軍のフランクリン隊の全滅から半世紀後の1903年から1906年に、ノルウェーの探検家アムンゼンが3年もの歳月をかけて横断に成功したことで知られる。
アジアとヨーロッパを最短で結ぶ『夢の北西航路』はやっぱり幻であり、砕氷船がない19世紀当時では、結局どこにも存在しなかったのである。

『南極点のスコット隊と、北西航路(北極)のフランクリン隊の全滅』

100年以上前の1911年12月14日にアムンゼンのノルウェー隊(隊員5名)は人類として初めて南極点に到達した。アムンゼンの栄光だけが残った南極点到達ですが、長年にわたって準備を重ねてきたのはイギリスのスコット隊であった。
ところが、突然参入してきたノルウェー隊との『南極点到達レース』に敗れただけではなく南極点からの傷心の帰り道に5人全員が遭難して、スコット隊は全滅している。
当初アムンゼン隊は人類最初の極点到達(北極点の初到達)を目標として準備していた。ところが1909年4月にアメリカのピアリー隊の成功のニュースに接し、急遽北極点から南極点に目標を切り替えて成功している。(人類最初の極地到達の偉業のピアリーの名前は何故か今の歴史から消えている。擬装の疑いが出たのでアメリカの関心が薄れたことが大きく影響する)
ノルウェー隊の南極点到達と全員生還の偉業には、それ以前のアムンゼンの北極圏の北西航路の横断成功の経験が大きく影響していたと言われている。
アムンゼンのノルウェー隊は犬ぞりなどの極北に生きるイヌイット(エスキモー)の文化やサバイバル技術を取り入れた結果、極地探検を成功させているのである。
アムンゼン隊の成功とは逆に、南極点の『スコット隊』の全滅とか、その半世紀前の北西航路(北極)の『フランクリン隊』の全滅原因とは、大英帝国の威信(帝国主義の思い上がり)が影響している。
極寒の極地においてはイギリスの最先端の科学力よりも、エスキモー文化の優位性は明らかだった。
ところが、覇権国家である英国人が野蛮人と見下しているエスキモー(イヌイット)の文化など、認めることは決してなかったのである。
しかも栄光の大英帝国軍人として退却(敗北)を認めることが出来なかった悲劇が重なった。彼等が自らの敗北を認めることさえ出来れば、なんとか生還することも可能だったかも知れないのである。
特に問題なのはフランクリン隊で、南極とは違い北極の沿岸部には先住民族のエスキモーが生活していた。彼等が人種差別とか見栄を捨ててエスキモー(イヌイット)に救助を求めれば命が助かっていた。(共食いまでしたイギリス人よりも、エスキモーの方が文化的にも道徳的にも勝っていた)
当時世界最高だと思っていたイギリス人(近代文明)の科学力よりも、極寒の極地ではエスキモーの知識や経験の方が遥かに優れていた。


『もう一つの、「銃、病原菌、鉄」 繰り返される悲劇』

日本が勝利した日清戦争(1894年7月25日から1895年11月30日)での日本軍の戦死者は1132人だが、病死者は10倍以上の11894人にも上る。しかも、ほとんどはビタミンB1の欠乏症である『脚気』が死因であった。
日露戦争(1904年2月8日 - 1905年9月5日)でも同じで、病死した27192人のほとんどは矢張りビタミンB1の欠乏症である『脚気』であった。(当時の日本では結核と脚気が助からない『死に病』として人々に恐れられていた)
日清戦争の日本側の動員数は24万人、日清戦争の10年後の日露戦争の動員数は30万人である。
戦死者の10倍以上死んだ日清戦争の脚気の経験から、日本兵の栄養状態が改善されるどころか、なぜか日本軍では脚気による死亡者数の比率は二倍以上に悪化していた。ドイツで医学を学んだ森林太郎(森鴎外)軍医総監の責任が大きいと言われている。日露戦争で25万人が発病した脚気の原因解明の調査会の責任者が森鴎外だった。
しかし、そもそも『白米を食べたら脚気になる』との因果関係は成り立たないのである。
(現在でも日本を含む多くの国々で白米を食べ続けられている。ところが脚気は起きていない)脚気は栄養障害であり、主食の白米以外の副食類の絶対量の不足が原因しているのです。

『脚気は慢性的な栄養失調の一種』

脚気の『白米原因説』や『森鴎外A級戦犯説』ですが、本当は日本陸軍のロジステック(兵站)の失敗が最大の原因であることを隠蔽する姑息な目的が考えられる。
プロイセンの戦略家クラウゼヴィッツの『戦争論』が指摘するように、戦争とは『戦略』(政治的経済的な見通し)と『戦術』(実際の戦闘)と『ロジステック』(兵站、補給)の三つで成り立っている。ところが、日本軍では目先の勝敗(戦術)以外、長期的な戦略もロジステックも疎かにされていた。
ちなみに日清戦争の戦費は、当時の金額で約2億3,000万円(日本のGNPの7割)。日本が初めて経験する近代戦争であった日露戦争では、当時の金額で約18億円と戦費が8倍近くに膨れ上がっている。
ただし日本のGNPが10年間で10倍増近い驚異的な勢いで増えたために、GNP比では逆に日清戦争時の7割から日露戦争時では6割へと1割も縮小しているのですから驚きである。(第二次世界大戦での日本の戦費はGNPの8.5倍であり、戦争の勝敗云々以前に完全に破綻していた)

『船員200万人の命を奪った恐怖の壊血病』

16世紀に南アフリカの喜望峰からインドへ至る航路を発見したバスコ・ダ・ガマのポルトガル船隊では、180人の乗組員のうち100人が壊血病で死亡した。
日本陸軍を悩ましたのが脚気なら七つの海を支配した大英帝国海軍を悩ましたのが壊血病である。
大航海時代から長年船員にとって最も恐ろしいのは海賊でも遭難でも戦争でも無くて、大部分の船員の死因とは何と壊血病であったのです。
3ヶ月以上野菜や果物を食べないとビタミンCが欠乏して壊血病になる。症状は倦怠感、皮膚蒼白、歯茎や粘膜などからの出血などの初期症状から始まり悪化すると死に至る。
ビタミンCの欠乏が壊血病の原因だったと科学的に解明されたのは1932年であり、82年前のことである。(ビタミンB1は鈴木梅太郎が1世紀前の1911年に発見していたが、日本人が脚気の恐怖から解放されるのは半世紀後の敗戦後の食糧危機を乗り越えたあとの1950年代以後の話)
餓死に近い凍死のスコット隊と同じで、飢餓状態のフランクリン隊の乗員の死亡原因の大部分も(目撃者の証言から)壊血病であったと思われている。

『フランクリン隊の遭難と人肉食』

1845年にエレバス(積載量378トン)とテラー(331トン)の2隻の木造蒸気船でイングランドを出航したジョン・フランクリン海軍大佐(出航当時は59歳)の遠征隊はカナダ北極諸島を通ってヨーロッパとアジアを結ぶ北西航路発見が目的だったが129名全員が消息を絶つ。
英国海軍本部は1848年、行方不明となっていたフランクリン隊捜索を2万ポンド(現在の価値なら100倍)の報奨金まで用意して開始。1850年時点ではイギリス船11隻、アメリカ船2隻が関わっていた。フランクリン隊の捜査活動は1852年にはイギリス海軍の遠征隊5艦の内4艦が二重遭難して艦を放棄するなど難航した。
それでも最初の越冬地であるビーチー島の東海岸の乗組員3人の墓や、キングウィリアム島南東の海岸近くを調査ではフランクリン隊が飢え死にして人肉食までが起きたとの目撃証言や、船を放棄したフランクリン遠征隊の隊員のメモが発見され遭難の経緯は明らかになっていたが、船自体は未発見だった。

『フランクリン探検隊の顕彰と、「例外」としての探検家植村直己』

19世紀のビクトリア朝当時のイギリスではフランクリン隊の遭難を国を挙げての英雄話に摩り替えたが、同じような不思議な例が実は日本国の植村直己である。
何か政治的な理由でもあるのか負けたものを叩く『山の掟』に反してマッキンレーで遭難死した植村直己を例外扱いして持ち上げる。遭難死した1984年には国民栄誉賞まで受賞。
何が『世界初の五大陸最高峰登頂者』ですか。チョモランマ以外は観光客気分の富士山と同じ程度。犬ぞりでの北極点など冒険では無く、草鞋を履いて時代劇風の衣装を着て歩く『お伊勢参り』と同じ種類の話。
お伊勢参りだけが目的なら歩くより自転車の方が早いし電車ならもっと便利で速い。
(もしも本気で『冒険だ』と勘違いしたならアナクロニズムの極み、時代錯誤の愚かしい勘違い。現地に住んでいるエスキモーに対して失礼である)
アムンゼンや日本の南極探検での犬ぞり使用は、それが『最善だったから』以外の理由は無い。(彼等は現在のようにヘリや雪上車が使えなかったから、仕方なく犬ぞりを選択している)
植村直己はマッキンレーでは高所登山靴では無く、アイゼンの装着が難しい平坦な平地用のエアーシューズで遭難するなどの御粗末な失敗を繰り返していた。(最終ビバーク地の雪洞にアイゼンを放置)
植村直己はマッキンレー登山後に引退すると決めていて43歳の最後の登山が文字通り最後になって仕舞う。(体力や気力の低下でスポーツの現役引退は必然で、植村自身過去に35歳での引退を明言していた)
辞めるときは即座に止めないと一番危険な死亡事故の元になる。マッキンレー冬季登山はアウトドアスクールなど引退後の最期の箔付け。『これを最期に止める』は余りにも縁起が悪い。
イラク入りする前に戦場ジャーナリストの橋田信介は『これで最期にする』と不吉な言葉何度も口にしていた。
『これを最期に』ではなく即座に引退するべきだ。緊張感は一度緩むと元の状態には戻らない。致命的な大事故は大概はこの様な状態の時に起こる。

『不可抗力でも想定外でもなく、起きるべくして起きた(十分避けれた)遭難事故』

植村直己は冬季のマッキンレーには不適当な湿雪用のゴアテックスの装備を用意しながら、低温対策として登山靴ではなくコリアンブーツ(通称バニーシューズ)を準備無し、ぶっつけ本番で履いていく。理論や態度の一貫性が無いだけではなく、不真面目この上ない。
この靴は朝鮮戦争時にアメリカが軍事用に開発したゴムで出来た冬季用エアーシューズで保温力はあるがアイゼンを使用する本格的な登山には不向き。初心者でも犯さない大失敗を平気で行ったのですから、これでは幾ら命があっても足らない。
マッキンレーの植村直己の遭難の経緯とよく似ているのが、170年前の北極海の『北西航路』探検のフランクリンの遭難である。
フランクリン隊は3年分の十分な燃料や食料を積んでいたが、何故か船が氷海に閉じ込められた非常時用の橇やスキー、靴など陸上装備の類を一切積んでいなかった。
フランクリンは遭難死する以前にイギリス海軍軍人として3回の北極海航海の経験があり19世紀当時では極地探検の第一人者であると周りの全員から思われていたし、多分本人もそう思っていた。
しかし前回の北極海遠征から20年もの長すぎるブランクが存在していて、探検家として当の昔に盛りが過ぎていたのである。(時間的な長すぎたブランクは、植村直己にも言えてグランドジョラス北壁など精鋭的な登山歴もあるが、その後は意識的に危険な登山は控えていた。すっかり盛りは過ぎていたのである)
高齢者が大活躍する今の日本とは大違いで、19世紀当時のイギリスで59歳のフランクリンは予定どうり無事航海を終えたら61歳で、とっくに引退年齢に達していた。
マッキンレーで遭難した植村直己と同じで、北西航路で遭難したフランクリンも間違いなく『これを最期に冒険を止める』心算だったのである。


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日本(人)の伝統なのか? (海坊主)
2014-09-19 06:58:23
興味深い記事を有り難うございます。最近コメントする機会が減っておりますが、いつも拝読させて頂いております。勉強させていただいてます。

日本の軍隊が兵站を軽視するのは伝統なのか、と思わざるを得ません。第二次大戦における日本の食糧事情はリジー・コリンガム「戦争と飢餓」に詳しいですが、現地調達という発想で戦争を計画する、というよりも兵站を軽視して立案するという発想は第二次大戦以前にもあったのですね。そうなると、もっと遡れるのではないでしょうか。
私は戦国時代を想起したのですが、凶作が続き自力で平和を維持出来ない、すなわち他者から収奪しないと生存出来ないような時代と同じ発想ではないか、と思うのです。「乱取り」のようなもので、武士や貴族の発想ではなく、貧者、貧民の発想ですね。
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人命軽視と人権無視は、破壊的カルトの靖国神社(長州神社)の影響 (宗純)
2014-09-20 15:18:28
海坊主さん、コメント有難うございあます。

近頃は200万を超えているgooブログの50位前後にアクセス数が増えているのですが、何故かコメント数が増えていない。
たまにくるのはて低脳のネットウョとか、次々とNHを変えて別人を装って落書きをする小悪人程度。この阿呆連中ですが、基本的に記事を読んでいないのですよ。
アホの麻生太郎と同じで見出ししか読まないのですね。
この『逝きし世の面影』ですが、長いし中身が重いので読むのに知性だけでは無くて体力が必要なのです。
何でも結構ですから気がついたことがあれば些細なことでもコメント下さい。
読者のコメントですが『なるほど。そのようにも読めるのか』と、新しい視点が開けるので、実にありがたいのです。

戦国時代最強といわれた武田の騎馬隊ですが、武田信玄の棒道のように補給など兵站整備が強さの秘密だった。天下統一の秀吉も同じで、鳥取城の飢え殺しとか小田原攻めなど相手の補給路を絶つと言うロジスティク重視の戦法で連戦連勝していたいのですから、日本人の伝統との説は正しくない。
日本軍ですが長州の大村益次郎が元祖なのです。それならロジスティクの軽視は、『日本の』では無くて、この悪弊が『長州の』と考えた方が良いでしょう。
私の父親は第一次世界大戦直後の対ソ干渉戦争でシベリアに出兵しているのですが、一番恐ろしかったのは連日続く新兵に対する死ぬほどの暴力でも恐ろしい神出鬼没の白色パルチザンの攻撃でも、想像を絶するシベリアの極寒でも無くて、何と、耐え難い飢餓だったのですよ。
対ソ干渉戦争(シベリア出兵)と有志連合
2008年03月11日 | 社会・歴史
http://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/3d21ef45ca6484553ddadbec007abb9a
兵士には1日5・5合の米の支給があるのですが、途中でネコババして現場の兵士は飢えに苦しんでいたのです。軍隊と言うよりも大盗っ人小盗っ人の集まりだった。このシベリア出兵では日本は国家予算の3年分もの膨大な経費を注ぎ込んでいたのですから、計算の通りなら本来兵隊が飢える筈がないのです。

ロジスティックの無視だけでは無くて、日本軍は捕虜の虐待では悪名がとどろいているのですが、これも『長州の』と考えた方が正しいでしょう。
江戸時代の、ロシア海軍の士官ゴローニンの捕虜記では、日本側の扱いが人道的だったし日本人が実に礼儀正しく知的であったとの記録があるのです。
明治維新後でも日露戦争のロシア兵の捕虜とか第一次世界大戦のドイツ兵の捕虜の扱いは模範となるほどの人道的だったが、この時点ではまだ江戸時代の教育を受けた世代が軍の上部に座っていたのです。
日本軍が致命的に狂ってくるのは、江戸時代の教育では無くて吉田松陰や高杉晋作などの破壊的カルト宗教の長州のテロリストの教育観が蔓延した後のことだったのです。
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飢餓の輸出だった戦争 (海坊主)
2014-09-21 09:25:26
宗純様、ありがとうございます。

食糧・資源に乏しい国が生存するために他国との共栄の道、帝国の道のどちらを選ぶでしょうか。尊皇派のクーデター後の日本は強兵富国の道、つまり帝国の道を選んだ訳ですがその実態は飢餓を周辺国に輸出して富・資源を国内の支配者層に集中させることでした。
確かに日本の支配者層は裕福になりましたが、同じ国の民であっても民衆の生活は決して良くならず、都市部に貧困を地方には困窮を蔓延させました。国内での収奪と支配の構図は江戸時代に完成されていて、それを周辺国に輸出する準備が整ったのが明治初期であり、日本が帝国の道を選択したのは当然の帰結だったと私は思います。明治維新がクーデターでなくて革命だったら、こうはいかなかったでしょう。
戦争は相手があってのことですが国内の諸問題の解決手段として利用されてきたのではないでしょうか。

ロシア兵やドイツ兵に対する扱いが人道的であったのは国際舞台での名誉ある地位を当時の日本が求めていたからで、国連を脱退して米英中心の世界秩序に挑戦する頃には名誉ある地位を暴力で強奪することを選択したのだから、他者の目を気にすることをしなくなった、という見方も出来るのではないでしょうか。
勝てば官軍ですが、国内問題の一挙解決をも目論んだその戦争は最初から国力を越えたものでしたから、勝つ事は無理でした。
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何故か歴史に埋もれたゴローニン事件と高田屋嘉兵衛の偉業 (宗純)
2014-09-21 14:54:21
海坊主さん、コメント有難う御座います。

ゴローニン事件が起きたのはペリー来航とか明治維新よりもずっと前の、江戸幕府の話なのです。
18世紀には度々ロシア船が通商を求めて蝦夷地に出没するようになり、松前藩の支配を排して、北海道を全体を幕府の直轄地にしてしまう。

1811年(文化八年)に千島列島近海を測量する途中で補給の為に、国後島に立ち寄ったロシア艦隊ディアナ号の艦長ゴローニンら8名を捕らえて、松前へ護送する。
翌年、艦長を奪われたディアナ号は副長リコルドが指揮して、国後島の沖合いで高田屋嘉兵衛をとらえてカムチャッカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行する。高田屋嘉兵衛は択捉島との国後水道の開拓者なのです。
当時の北海道ですが、本州の東北地方北部の南部藩とか津軽藩の兵士が沿岸警備に狩り出されていたのですが、
北西航路のイギリス海軍のフランクリン隊の悲劇と同じで、越冬途中で沢山の藩兵が壊血病で死亡するなどの今では考えられない事件が続発する。
1813年(文化十年)、ゴローニンと高田屋嘉兵衛の釈放交換がおこなわれ、日露両国の国境紛争を武力では無くて話し合いで平和的に解決することに成功している。
2年3ヶ月間の捕虜生活を経験したゴローニンはロシアに帰国して書いた『日本幽囚記』は、ヨーロッパ各国で大評判になっている。
講談社版の日本俘虜実記とか岩波文庫の日本幽囚記 などがあるが、古本でしか手に入らない。この本ですが中身は驚きの連続です。歴史とは今大問題となっている吉田証言のように、幾つもまったく違ったものが存在しているのですから面白いですね。
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