初めに
観音寺市大野原町田野々地区は、H18年に国の重要文化財に指定された豊稔池堰堤(ほうねんいけ・えんてい)から更に奥まった田野々盆地にある。江戸期には、讃岐国豊田郡・中姫大庄屋(現・大野原町)からは山間部に位置し交通が不便なこともあり、その支配は、山道を下ってより近かった〝豊田郡・和田(豊浜町)庄屋・預かり〟となっていたと聞く。過去にこのような地縁的なつながりがあったことも影響したのか、安政5年(1858)に造られた豊浜町関谷(せきや)地区の〝ちょうさ(太鼓台)〟を、後年、田野々地区が購入することになったのかも知れない。現在の「田野々ちょうさ」は、私が最初に見た関谷から伝えられた太鼓台からすると、三代目の太鼓台となる。ここで紹介するのは、安政5年(1858)に豊浜町関谷地区で造られ、後に田野々地区氏神・鎌倉神社の祭礼に担ぎ出されていた年代物の初代の太鼓台が主となる。また規模比較の対象として、この初代・田野々太鼓台に近い時代に活躍したと思われる近郷・他地域の同時代の太鼓台も、数例紹介したい。その過程で、現在最も発達した西讃・東予地方の幕末から明治・大正時代の規模や蒲団部構造が、百数十年後の現在、どのようであったかが理解できるものと考えている。
昭和60年(1985)当時、私は田野々地区の農協倉庫に眠っていた田野々初代と思われる安政5年製の旧・関谷太鼓台の貴重な〝遺産〟を確認している。旧・関谷太鼓台(倉庫の片隅で半ば放置されていた太鼓台)で使われていた蒲団〆が、田野々・二代目太鼓台に使われていたのを確認している。そして既に使われなくなった〝安政5年製の太鼓台関係の品々〟が、廃棄されるのを待つように、倉庫の片隅に放置されていた。それらの中で注目したのは、当時の二代目太鼓台の掛蒲団に改修されて使われていた幅の狭い龍の蒲団〆、放置されていた唐木部分、同じく使われなくなった竹籠製の蒲団枠、古い道具箱等であった。コンクリート敷きの土間的倉庫ではあったが、放置されていた品々は雨風で朽ちる心配はなかった。
上述のように、豊浜町関谷地区から太鼓台と一緒に伝えられていた古い道具箱類も何点かあったが、道具箱記載の年代とその中身が必ずしも一致していないとみるのが伝統文化探求に携わる私たちの〝常識〟である。即ち、太鼓台伝承地区では〝古い先代の道具箱を、新しい太鼓台の道具箱として再利用〟する場合がよくある。他地域が絡む中古太鼓台の〝転売・購入〟の場合にはそのような事例がよくあり、必ずしも〝道具箱記載の年代イコール中身〟と直に結びつけることはできない。従って田野々・初代太鼓台の場合、道具箱の中身が、関谷地区太鼓台の安政5年のものではなく、安政5年より後の時代のものである可能性や、関谷地区以外のものであった可能性が疑われる。ただ、田野々初代・太鼓台の場合には、地元の長老からの聞き取りや、制作年代が客観的に確定できている近郷他地区の太鼓台との比較を重視して時代的な検証を重ねた。その結果、当時倉庫で保管されていた品々をよく観察すると、130年以上経過した面影を随所に感じることができたので、唐木・蒲団枠・龍の蒲団〆は、いずれもが旧・関谷太鼓台の安政5年のものであると判断した。
◎初代・田野々太鼓台の規模等(とんぼ飾りを除く)
◆太鼓台の全高≒335cm(蒲団部高≒95cm、蒲団部下部~乗り子座部≒130cm、座部~地面≒110cm)※とんぼ飾りは除く。‥現在では高さ4mを超えるものが殆ど。
◆蒲団枠の大きさ(最上部の一辺≒157cm、最下段の一辺≒137cm ※いずれも外⇔外の長さ、蒲団枠の厚み≒13.5cm)
◆閂(カンヌキ)位置は中央に1か所(現今の太鼓台では2か所が普通)
◆四本柱の間隔≒72cm(柱の芯⇔芯、内径≒64cm。現今の太鼓台と比べるとかなり狭い)
◆高欄部の一辺≒131cm (欄干で囲まれた太鼓叩きの乗り子が座る部分。欄干より少しはみ出た座板の幅)
◆台幅(台足の外側~台足の外側)≒97cm
◆台足の横側に設けられた舁き棒を通す金具の穴サイズ≒内径17cm(舁棒を支える舁棒受を通す穴であったとしても、かなり細い舁き棒が使われていたか)
◆以上から、この地方の現在の太鼓台と比べると、重量的には半分程度の1㌧内外であったと推定される。(現在では、2.5トン内外~3トンを超えている)
下記にて、田野々地区の太鼓台と、同時代に活躍したと思われる他地域の太鼓台との比較を紹介する。
左から、脇町の勇み屋台(2枚)、箱浦屋台(唐木部分と初代の蒲団〆は明治8年製)、下麻太鼓台、殿町太鼓台(2枚)
※参考:明治初期の基準太鼓台「荘内半島・箱浦屋台について」‥以下は、『塩飽海域の太鼓台・緊急調査報告書』所収のもの。
(終)
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