一夜明けて、続きに入ります。
どこまで行ったかな?
大津を出て後・・でしたね。
その頃、161はバイパスは一部しかなく(たぶん)旧国道で帰りました。
自分でも昼食後、合歓かがでているのは自覚していました。
姉が大津で降りて、話し相手がいなくなったこと(問題③)。
一人で睡魔と格闘せねばならない状況になりました。
バックミラーを見ると、後の4人は朝も早かったのでゆっくりご休息中。
大津から堅田近辺までは道を走っていた記憶があります。
堅田の駅前あたりの信号で、信号待ちの間、ウトッとして青になっているのに気づかないときがありました。
「そんな眠かったら、どこかで休めよ!」という話でしょ。
わかっていたんですがね・・・。
後部座席の一人さんが「昼から用事があるので、早く帰りたい」と仰ったので
人の良い私は、つい無理をしてしまったのです。(問題④)
堅田を越えたあたりから、目を開けて前を見ているんでしょうけれども記憶が飛んでいました。
時々、所々景色が流れていったような気もします。
その日は日曜日、午後ですから大津方面へ向かう車は長蛇の列。
けっこう渋滞していました。
向こうからフラフラしてくるワゴンを見たら、対向車線の運転手さんもちょっと怖かったのではと思います。
たぶん繋がっているのであまり前から来る車については視認できないかも知れませんが、
左方向に突っ込んでいく姿は一部の方には目撃できたと思います。
ビックリされたでしょうね。
状況はこうでした。
志賀町の大物というところまでは、なんとか到着できました。
このあたりがピークだったと思います。
その前のカーブを曲がっているところは意識にありました。
次に気がついたのは、後ろに乗っていた一人の人が「あー!!」と大声で叫んだ声を聞いたときでした。
気づけば、車は左へ傾きそのまま走っている。
右へ戻そうと頑張ってハンドルを切るが、車はまったく反応しない。
たぶんブレーキも踏んでいると思うけれども減速している気がしない。
動転しながらも、まだ半分寝ているような状態なのでなにをやっているのかもわからない。
突然、非常に大きな衝撃が二回。
車は大きく跳ね上がる。
すると、前から電信柱が飛んできた。
避けなければ!!
と焦るもハンドルは言うことを聞かず・・。
見る見る電信柱が近づいて来る。
ドッシャーン、という音とともに先ほど以上の衝撃!!
車は電信柱に当たった弾みでまた車道へ飛び出して停止。
フロントガラスがすっ飛んでいくのが見える。
右車線の車がみんな一斉にこちらを見ている。
「大丈夫ですか?」と乗員の安全確認が第一声。
(あたりまえだけど、これは立派であった、と自分でも思う。)
自分の体を確認する!
うん、足は動く、手も大丈夫。特に痛みも出血もない。
ホッとする。
同時に車の状態を見ると・・・・悲惨!!
でも後で落ち着いて考えると、これ左へ流れたから良かった。
右へ行っていたら、渋滞中の車の列に接触して、けが人や破損が続出したかも知れない。
保険金もただ事ではない。
そう思うと、不幸中の幸い。
(しかし、その時はそれを感じる余裕はなかった。あくまでも後での思った話)
詳しい状況は・・。
車道の横に少しばかりの路側帯(歩道?)があり、その左には側溝が設置されていた。
たまたま、その側溝に一部だけかけてあるグレーチング(鉄の網目の蓋)を通過して田んぼへ車輪が落ち込んだ。
後で見るとほんの1メーター足らずのところを上手に渡ったみたい。
国道の横の田んぼなのでコンクリートで擁壁が作ってあり、それにタイヤが引っかかっていた。
いくらハンドルを切っても直進しかしなかった訳です。
そのうち、擁壁の途中にコンクリートで作った四角い排水口が出っ張っている。
これにタイヤが乗り上げて一度目の衝撃。
前のタイヤは完全に敗れ、ホイールも曲がっていました。
はまってからあたるまで20メーターくらい、その間ほとんど減速していなかったみたい。
大きく揺れてなお、車は直進。
前から飛んできた(ほんとは車が当たりに行っている)電信柱に激突。
電信柱は田んぼの少し内側に立っていました。
(これが大きく結果を左右しました)
コンクリートの擁壁沿いに走った車のほぼ左端に電信柱の右半分がかかる状況でぶつかったのでした。
もう少し電信柱が車の内側だったら、けが人や死人が出た可能性も大ありです。
こすりつけられたような状態で、車は右方向へ飛び出す形になりました。
前から来たワゴンが、いきなりふらついて田んぼに落ち込み、排水口で大きく2度バウンドして
電信柱にまっしぐら。
ぶつかったと思ったら、勢いよく田んぼから飛び出してきて車道に止まる!
なんて誰が想像したでしょう。
たくさんのギャラリーが渋滞の車中から目撃しているはずです。
たぶん、20年経った今でも「昔な、こんなことあってな、車がこんなんでな・・・」と話をされている方が
どこかにおられるかもしれません。
北から来る車は皆さん窓を開けて事故の状況を眺めて行かれました。(当然ですね)
車の横に立っているのが辛かったです。
幸い、飛び出した車は路側帯を少しはみ出たくらいで止まったので後ろから来る方の通行の妨げにはなりませんでした。
しかし、頭はクラクラ、一体何が何だか状況を掴みきりなにをするのか理解するのに時間が必要でしたね。
車会社に電話をしても、混んでいるために車載車が到着するのがずいぶん遅くなるとのこと。
その間に田んぼの持ち主さんがすぐ近くだったのでお詫びに行ったり、電信柱の傷みを見てもらうために連絡したり・・・。
その時、今でも忘れられないことがひとつ。
事故を起こした直後に、知り合いのY君が車で通りがかりました。
彼は直接関わったことはなかったですが、仕事の関係で顔見知りでした。
ちょうどあの頃は、まだ携帯電話も普及しきっておらず私もまだ持っていませんでした。
若い彼はいち早く購入し携帯していました。
通りがかった彼はわざわざ遠くに車を止めて、様子を見に来てくれ連絡用にと電話を貸してくれました。
こともあろうに、夕方遅くになったのに最後まで付き合ってくれ、結果的に高島まで車で送ってくれました。
まるで、神様のような人です。
(本当に良い人なんです、彼は・・)
今、立命館守山で教鞭を執っていますがテニスの得意な体育の先生です。
私は、今でも足を向けて寝ていません。(でもどっちに住んでおられるのかわからないので・・・)
暑い夏の夕刻、夕立があってむっとした国道端に立ち尽くしていると、思わずぶっ倒れそうになったのを覚えています。
車はシャーシが歪んで修理に新しい車を買うほどかかるとか(車屋さんの話ですが・・)・・。
結局廃車に。
残ったのは車を買うために借りた借金が200万。(つい先日まで返していました)
それと極端な絶望感だけ。
今でこそ笑ってられますが、悲惨でした。
でも救われたのは家族みんなが「車つぶれても、お父さんが死ぬよりましや」と言ってくれたことです。
車がつぶれなかったら、もっと良かったのですが・・・。
後で車の運転席の乗ろうとしたら、降りるときは気が動転してわからなかったけれど
本当に足のすぐ近くまで車がひしゃげて来ていました。
足下にお守りが吊ってあったのですが、ちょうどそのあたりまでがつぶれていました。
ひょっとしてこのお守りが救ってくれたか!!
助手席の姉が乗ったままだったら、彼女の膝下はなくなっていたかも知れません。
(ただ、乗っていたら、事故は起きなかったかも知れない。そういうものでしょうね)
さて、長くなりましたがまだ続きがあります。
今日はこのくらいにしておいてやろうか!!
ではまた、次回、お楽しみに・・・。
(関西人はどうしてこう自分の失態を笑って書いてられるのだろう?)
どこまで行ったかな?
大津を出て後・・でしたね。
その頃、161はバイパスは一部しかなく(たぶん)旧国道で帰りました。
自分でも昼食後、合歓かがでているのは自覚していました。
姉が大津で降りて、話し相手がいなくなったこと(問題③)。
一人で睡魔と格闘せねばならない状況になりました。
バックミラーを見ると、後の4人は朝も早かったのでゆっくりご休息中。
大津から堅田近辺までは道を走っていた記憶があります。
堅田の駅前あたりの信号で、信号待ちの間、ウトッとして青になっているのに気づかないときがありました。
「そんな眠かったら、どこかで休めよ!」という話でしょ。
わかっていたんですがね・・・。
後部座席の一人さんが「昼から用事があるので、早く帰りたい」と仰ったので
人の良い私は、つい無理をしてしまったのです。(問題④)
堅田を越えたあたりから、目を開けて前を見ているんでしょうけれども記憶が飛んでいました。
時々、所々景色が流れていったような気もします。
その日は日曜日、午後ですから大津方面へ向かう車は長蛇の列。
けっこう渋滞していました。
向こうからフラフラしてくるワゴンを見たら、対向車線の運転手さんもちょっと怖かったのではと思います。
たぶん繋がっているのであまり前から来る車については視認できないかも知れませんが、
左方向に突っ込んでいく姿は一部の方には目撃できたと思います。
ビックリされたでしょうね。
状況はこうでした。
志賀町の大物というところまでは、なんとか到着できました。
このあたりがピークだったと思います。
その前のカーブを曲がっているところは意識にありました。
次に気がついたのは、後ろに乗っていた一人の人が「あー!!」と大声で叫んだ声を聞いたときでした。
気づけば、車は左へ傾きそのまま走っている。
右へ戻そうと頑張ってハンドルを切るが、車はまったく反応しない。
たぶんブレーキも踏んでいると思うけれども減速している気がしない。
動転しながらも、まだ半分寝ているような状態なのでなにをやっているのかもわからない。
突然、非常に大きな衝撃が二回。
車は大きく跳ね上がる。
すると、前から電信柱が飛んできた。
避けなければ!!
と焦るもハンドルは言うことを聞かず・・。
見る見る電信柱が近づいて来る。
ドッシャーン、という音とともに先ほど以上の衝撃!!
車は電信柱に当たった弾みでまた車道へ飛び出して停止。
フロントガラスがすっ飛んでいくのが見える。
右車線の車がみんな一斉にこちらを見ている。
「大丈夫ですか?」と乗員の安全確認が第一声。
(あたりまえだけど、これは立派であった、と自分でも思う。)
自分の体を確認する!
うん、足は動く、手も大丈夫。特に痛みも出血もない。
ホッとする。
同時に車の状態を見ると・・・・悲惨!!
でも後で落ち着いて考えると、これ左へ流れたから良かった。
右へ行っていたら、渋滞中の車の列に接触して、けが人や破損が続出したかも知れない。
保険金もただ事ではない。
そう思うと、不幸中の幸い。
(しかし、その時はそれを感じる余裕はなかった。あくまでも後での思った話)
詳しい状況は・・。
車道の横に少しばかりの路側帯(歩道?)があり、その左には側溝が設置されていた。
たまたま、その側溝に一部だけかけてあるグレーチング(鉄の網目の蓋)を通過して田んぼへ車輪が落ち込んだ。
後で見るとほんの1メーター足らずのところを上手に渡ったみたい。
国道の横の田んぼなのでコンクリートで擁壁が作ってあり、それにタイヤが引っかかっていた。
いくらハンドルを切っても直進しかしなかった訳です。
そのうち、擁壁の途中にコンクリートで作った四角い排水口が出っ張っている。
これにタイヤが乗り上げて一度目の衝撃。
前のタイヤは完全に敗れ、ホイールも曲がっていました。
はまってからあたるまで20メーターくらい、その間ほとんど減速していなかったみたい。
大きく揺れてなお、車は直進。
前から飛んできた(ほんとは車が当たりに行っている)電信柱に激突。
電信柱は田んぼの少し内側に立っていました。
(これが大きく結果を左右しました)
コンクリートの擁壁沿いに走った車のほぼ左端に電信柱の右半分がかかる状況でぶつかったのでした。
もう少し電信柱が車の内側だったら、けが人や死人が出た可能性も大ありです。
こすりつけられたような状態で、車は右方向へ飛び出す形になりました。
前から来たワゴンが、いきなりふらついて田んぼに落ち込み、排水口で大きく2度バウンドして
電信柱にまっしぐら。
ぶつかったと思ったら、勢いよく田んぼから飛び出してきて車道に止まる!
なんて誰が想像したでしょう。
たくさんのギャラリーが渋滞の車中から目撃しているはずです。
たぶん、20年経った今でも「昔な、こんなことあってな、車がこんなんでな・・・」と話をされている方が
どこかにおられるかもしれません。
北から来る車は皆さん窓を開けて事故の状況を眺めて行かれました。(当然ですね)
車の横に立っているのが辛かったです。
幸い、飛び出した車は路側帯を少しはみ出たくらいで止まったので後ろから来る方の通行の妨げにはなりませんでした。
しかし、頭はクラクラ、一体何が何だか状況を掴みきりなにをするのか理解するのに時間が必要でしたね。
車会社に電話をしても、混んでいるために車載車が到着するのがずいぶん遅くなるとのこと。
その間に田んぼの持ち主さんがすぐ近くだったのでお詫びに行ったり、電信柱の傷みを見てもらうために連絡したり・・・。
その時、今でも忘れられないことがひとつ。
事故を起こした直後に、知り合いのY君が車で通りがかりました。
彼は直接関わったことはなかったですが、仕事の関係で顔見知りでした。
ちょうどあの頃は、まだ携帯電話も普及しきっておらず私もまだ持っていませんでした。
若い彼はいち早く購入し携帯していました。
通りがかった彼はわざわざ遠くに車を止めて、様子を見に来てくれ連絡用にと電話を貸してくれました。
こともあろうに、夕方遅くになったのに最後まで付き合ってくれ、結果的に高島まで車で送ってくれました。
まるで、神様のような人です。
(本当に良い人なんです、彼は・・)
今、立命館守山で教鞭を執っていますがテニスの得意な体育の先生です。
私は、今でも足を向けて寝ていません。(でもどっちに住んでおられるのかわからないので・・・)
暑い夏の夕刻、夕立があってむっとした国道端に立ち尽くしていると、思わずぶっ倒れそうになったのを覚えています。
車はシャーシが歪んで修理に新しい車を買うほどかかるとか(車屋さんの話ですが・・)・・。
結局廃車に。
残ったのは車を買うために借りた借金が200万。(つい先日まで返していました)
それと極端な絶望感だけ。
今でこそ笑ってられますが、悲惨でした。
でも救われたのは家族みんなが「車つぶれても、お父さんが死ぬよりましや」と言ってくれたことです。
車がつぶれなかったら、もっと良かったのですが・・・。
後で車の運転席の乗ろうとしたら、降りるときは気が動転してわからなかったけれど
本当に足のすぐ近くまで車がひしゃげて来ていました。
足下にお守りが吊ってあったのですが、ちょうどそのあたりまでがつぶれていました。
ひょっとしてこのお守りが救ってくれたか!!
助手席の姉が乗ったままだったら、彼女の膝下はなくなっていたかも知れません。
(ただ、乗っていたら、事故は起きなかったかも知れない。そういうものでしょうね)
さて、長くなりましたがまだ続きがあります。
今日はこのくらいにしておいてやろうか!!
ではまた、次回、お楽しみに・・・。
(関西人はどうしてこう自分の失態を笑って書いてられるのだろう?)