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山崎城(鹿沢城)のこと その3
▼ 紙屋門
▼本多氏の家紋 立葵の瓦
紙屋門をくぐると史蹟山崎城(鹿沢城)本丸跡と山崎歴史民俗資料館がある。この周辺が本丸跡(御屋舗地)である。
▲歴史民俗資料館は山崎町門前にあった明治21年治安庁(後の法務局庁舎)を移築・復元したもの
山崎城の御門および内掘・外堀跡の位置
御門は、下図の赤字で記した外堀の北側、東から、清水口御門、※角鷹(くまたか)御門、中御門、土橋御門の4箇所、南側に新御門と鶴木御門の2箇所あり、各々番所が設けられていた。
御門・堀跡の石柱(山崎郷土研究会)の写真①~⑧
▼①清水口御門跡(郵便局本局の裏手) と明治後期の写真
▼②中御門(聖旨保育園北側)
▼③土橋御門(本家門前屋南駐車場付近)
▼④外堀跡(聖旨保育園門右)
▼⑤大手前(旧山崎市民局左)
▼⑥表御門(山崎小学校校門)
※諸門の中では一番大きな門で、大門と呼ばれた
▼⑦鹿沢城搦手(山崎小学校体育館駐車場付近)
※鹿沢城搦手は築城から池田氏3代の頃は大手口(表門)であったとある。
▼⑧内堀跡(本多公園の入口付近)
鹿沢城(陣屋)のあった鹿沢(山崎郭内)の地の移り変わり
東西の山崎・南光線、城下を通る山崎・新宮線は、明治以降にできたものである。山崎新宮線の元になった道は明治10年代に旧藩士遠藤亘氏の発案により、搦手より南の土堤と石垣を崩し、城下へ続く坂道が造られたことによる。この坂は当時は遠藤坂と呼ばれていた。(⑦の搦手から南、イオン前附近)
▼遠藤坂 (昭和中期)
山崎藩之図に現在の土地利用を示した図
図:「小藩陣屋町における武家地の現況1996 大阪教育大学地理学教室」より
PS:次回は、明治・大正・昭和の写真で山崎城(鹿沢城)・陣屋周辺の移り変わり見ていきます。
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