郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 駒山城跡1

2020-02-18 09:26:16 | 城跡巡り
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播磨 駒山城跡 1     赤穂郡上郡町井上(いのかみ)・山野里


駒山城の位置図 (白幡城と駒山城)




▼南からの鳥瞰               


▼北からの鳥瞰

※by google






駒山城のこと

  駒山城は、赤穂郡上郡町の中心地の上郡町役場の西背後にある山野里と井上地区にかかる生駒山(263m)の山頂にあります。城主や築城年についての確かな資料がありません。『播磨古城記』『赤松家播備作城記』等に登場するだけで、これを裏付ける記録が見当たらないのです。

  『播磨古城記」には※赤松律師則祐妙善が居城とあり、『赤松家播備作城記』には、駒山小聖寺山城としてあげられ、所在は赤松郡安室庄井上村、城主は安室五郎義長が天文年間(1532~1555)に築城したとあります。※赤松則祐(のりすけ)は、赤松則村(円心)の3男(1314~72)


アクセス 

 駒山城跡へは、羽山(はやま)登山路と井上(いのかみ)登山路がありますが、羽山登山路を利用しました。ここから約2.5kmの尾根筋を登ります。 山頂まで40分~50分。

 
 

 最初はややきついが、そこを抜けると、なだらかな一本筋の尾根道を進んでいきます。


 


中ほどに来ると突如岩場が立ちふさがる。足場を探して登リ切ると、あと山頂まで700mとある。見上げると頂上が見え、その下に伏したお皿ような岩が見えます。








 そのお皿のような石に近づくとこれが「馬の蹄(ひづめ)跡」。大きな亀の甲羅のような一枚岩のふちに、握りこぶしの大の穴がいくつかあり、この跡が馬の蹄に見立てられています。それは礫岩(れきがん)の礫が抜けたものという。

          
▼大きな一枚岩

 

  岩山からの南風景は抜群。右手(東登山口)に井上口の表示があります。ここからは登るほどに展望が開けるので、何度も振り返るたびに眼下の景色に足止めさせられます。 


                  

 
 

「荷置岩」という変化に富んだ岩場があり、名前どおりの石をいくつか探してみる。ここまで来れば、本丸のある山頂が目の前だ。

  本丸はそんなに広くはないがきれいに整備されている。ここから展望すると、この城を築いた理由がうなづける。木々のすきまからではあるが、南北の展望は申し分なく、北面から東面一帯は絶壁斜面で山裾は千種川が取り巻き、北から東の守りは鉄壁である。本丸から左にもう2段の郭があり、その向こうに「二の丸」が続きます。

▼本丸の虎口                        


▼本丸

          

 「本丸」と「二の丸」の間は、明るい日中でも薄暗い窪地のようになっていて、近づくと、大きな空堀と堅堀があった。その空堀の本丸側には石垣が残っています。堀下には降りなかったが、そこに井戸跡があるという。


▼空堀跡                           


▼石垣



二の丸へ続く土橋を抜け少し上ると、倒木が通路を邪魔する。その向こうに「二の丸」があります。
                    
▼二ノ丸

 

二の丸にはさらにもう2段の段状郭が下に続き、最下の段には、石臼が転がっており、それは、昭和半ば人が住んでいた跡だそうです。


▼石臼  住居跡 


              

雑 感

 この城は、南部・東部からの敵を意識した造りになっています。ただ、本丸と二の丸の大きな空掘が気になりました。本丸と二の丸は、いざというときは、切り離すことを意図していたのではないか。その城の形成は、もともと赤松の本城白旗城の南の見張りの城であったのが、その後の地域情勢の変化に対応して、さらに二の丸を拡張・補強したのかも知れません。城の規模はそんなに大きくはないとしても、地の利を考えた中世の城機能を備えた典型的な山城だと思います。 



PS:登山途中、上方から降りてくる山歩きを日課とされている地元のHさんに出会い、城跡についてお話を聞くことができました。郷土資料のことで、帰りにお邪魔する約束をしました。帰りの予定時間がかなり遅れてしまいましたが、家にお伺いし、しばし郷土話に花が咲き、さらに近くの高峰神社や安室(やすむろ)ダムなどを案内までしていただき、地元の方の優しさを感じました。



撮影月日:2011.7.17


➡駒山城2

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