郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 長谷高山城跡

2020-02-26 19:28:26 | 城跡巡り
【閲覧】6343件(2011.11.5~2019.10.31)




ながたにこうやま
長谷高山城跡

 長谷高山城は、 佐用町横坂の佐用川と金近川(かねちかがわ)が合流する北側にそびえる高山(250m)に建てられた中世の山城です。眼下に佐用川沿いの因幡街道筋を南北に見渡せる好位置にあり、山麓西には、西土居という小字が残っており高山城を守った武士が屋敷を構え、土手で囲ったことに由来するという。

 城主は山田則景。則景は鎌倉時代初頭に佐用荘地頭となり、のち隠居して、ここに築城したという。その子が山田左衛門尉家範で、上郡町赤松村に移り住み、最初に赤松氏を名乗ったとされ、ゆえに赤松誕生の地といわれています。 家範から4代目が赤松則村(円心)であるとされ、この城は、則景・将則・光広と続き、3代で途絶えたという。  
 
参考:『佐用町史』、『日本城郭体系』他。





▲長谷高山城跡全景    by Google Earth


長谷高山城跡のイメージ図




       

       
アクセス

 佐用インター出入り口の南の自動車道下をくぐりすぐに、左折すると、右側に高山城の案内表示があります。そこを左折し、中国自動車道下の車1台通れるトンネルをくぐると、出口に防獣用フェンスがあり、それを手で開けます。









この辺一帯は「高山城ふれあいの里」として整備され、数台の車が止められるスペースがあります。 トイレもありましたが、今は使えません。









ここから北の谷あいの道を進みますが、道の一部には落石が道を覆っています。










少し歩いて案内表示を左に進み、上り詰めたところに、堀切が2つあり、その先に見張り台の平地があります。そこは中国自動車道佐用インターを眼下にし、佐用盆地が一望できる断崖絶壁の地です。

 またこの場所は、地元では鐘撞堂と伝わっており、ここから東の尾根伝いにある高伏山にあった長谷寺(ちょうこくじ)の伽藍の一部であったという。また、この場所は、発掘調査が行われ、弥生時代後期の長方形墳丘であるとし、西ノ土居墳墓と名づけられています。




 






 



 そこから尾根上に沿って日当たりのよい北東を少し進むと最初の曲輪跡が現れます。







 


数段の棚状の郭が頂上に続き、広い平地が現れる。ここが長谷高山城の本丸跡とされています。地元では、千畳敷と呼んでいます。









この場所から、北には、平福の利神城跡がよく見え、その背景には雪を頂いた高峻の峰々が目に入ります。



▲平福の利神城跡


▲ズーム



本丸を左に進み、やや上方に本丸の半分ほどの西詰の曲輪跡があり、数段続く。この西の曲輪の南側に2段に渡って石垣が組まれ、その下はかなりの谷間になっています。
















 本丸から右手(東)方面にはアベマキ林が続き、さらに木の階段を上っていくと日当たりと展望のよい「見晴らしの丘」に出ます。そこからは下りになり、口金近(くちかねちか)の集落に至ります。













※撮影2011.3.19


追伸  2020.9.3

「長谷高山城」の読み
はせこうやま(誤) ➡ ながたにこうやま(正)

『日本城郭体系』では、長谷高山城を「はせこうやま」としています。
しかし、この城の近くに口長谷(くちながたに)、奥長谷(おくながたに)の地名があります。城名は地名からきています。
『赤松家播備作城記』には、ルビでナガタニコウヤマとなっています。
地名の由来で「長谷」は、「行基の開基といわれる高伏山長谷寺にちなむ」とあります。しかし奥長谷にある高伏山長谷寺は「たかふせやまちょうこくじ」なので、はせとは読みません。
『近畿の城郭』、その他ネット上の多くは、誤っているので、ここで明記しておきます。



◆城郭一覧アドレス


地域の守り・消防①

2020-02-26 11:08:15 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】1,001件(2011.1.14~2019.10.31)


大正12年(1933)消防出初式 宍粟橋下流








一斉送水で吹き上がる水しぶき 

 村々の安全を守る郡内各地域より集まった消防団員。日ごろ使い慣れたわが村の愛機を人力を最大限に発揮していち早く、より高く、より遠く送水を披露する晴れの舞台である。

※最初の写真の左下には、岸に筏が組まれている。揖保川での筏流しの全盛の頃を写し出している。