郷土の歴史と古城巡り

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山崎城(鹿沢城) 宍粟藩初代藩主池田輝澄の足跡をたどる

2020-02-10 11:26:41 | 城跡巡り
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宍粟藩初代藩主池田輝澄の足跡をたどる


輝澄、宍粟郡入封前に相次ぐ父母兄弟の死

 池田輝澄は慶長9年(1604)姫路城主池田輝政の四男として姫路に生まれ、元和元年(1615)6月28日に播磨国宍粟郡3万8千石を受領し、初代宍粟藩主となった。輝澄は若干十二歳であった。二年前の慶長18年(1613)父輝政の死去により遺産配分や相続が決められたが、二年後の元和元年に母督姫(徳川家康娘)と兄忠継が亡くなったことにより、輝澄が宍粟藩を立てることになった。
 輝澄は山崎城を建造すると母と祖母(西郡の局)の菩提寺である青蓮寺を姫路から山崎町山田町に移転している。入封直前に母の死があったからである。

 寛永3年(1626)輝澄は京都の二条城で乗馬の達者に選ばれみごとな馬芸を披露し大御所(秀忠)、三代将軍家光から褒美を受けた。若き輝澄は山崎城の南の段丘下の東西124間(約230m)の「桜の馬場」で、日々馬術の鍛錬をしたのに違いない。






家中騒動起きる(概要)

 輝澄は寛永9年(1631)弟赤穂藩主政綱が没し、佐用郡2万5千石が加封され6万3千石となる。その二年後参勤交代の途上、病に倒れてのち江戸住まいとなっていた。国元には上席家老伊木伊織が藩政を預かっていた。そんな最中の寛永15年(1638)藩を揺るがす家中騒動が起きた。元は小頭と足軽の金銭の貸し借りという些細なもめ事であった。一旦は収まっていたのだが、内部裁定に対する不満が再燃し、古参の家老伊木伊織と新参の家老小河四郎右衛門の争いとなった。輝澄の側近にいた菅友伯(儒学者)が主君輝澄に事実を伝えず、偽書まで作成し小河家老に加担したことが騒ぎを拡大させていった。一門の岡山藩主池田光政が元のように伊木に職を勤めさせ静かに治めるよう申し入れるが、輝澄は聞き入れず、伊木家老等が集団脱藩するという事態にまで発展し、結果幕府は脱藩者及び友伯や当事者に厳罰を処し、宍粟藩は改易という厳しい裁定が下されたのである。


輝澄因州鹿野に蟄居(ちっきょ)

「諸事集書」に、改易の理由として次の三つが輝澄に示された。

輝澄エ被仰渡
一惣領虎之介(輝澄二男)病気不申上事
一家中仕置悪ク騒動之事
一一門之異見不聞事 
 
 注目すべきはこの三つ目の異見不聞事で、幕府は輝澄が池田一門の説得を拒んだことをあげており、逆に言えば池田一門への信頼があったことを表している。
 改易された藩主輝澄は因州鹿野に堪忍料一万石を与えられ、因州鹿野(鳥取市鹿野町)へ、蟄居を命じられた。兄忠雄(ただかつ)の子鳥取藩主池田光仲にお預けとなった。
 さらに「諸事集書」には、「石見守乱心之躰相聞候」、「万事心付差置候様家来共申付」とあることから、幕府は光仲の家来にも輝澄は心乱している状態なので、厳しく扱わず気を付けるよう指示している。蟄居といえども自由度の高い配慮を求めているのである。それを裏付けるかのように輝澄が湖山池周辺に鷹狩りに出かけたことが書状に残されている。



▲鹿野城跡公園

▲輝澄居住時代の庭園(光輪寺)


 将軍家光は厳しく大名統制をすすめ、多くの諸藩が改易されるも、宍粟藩は徳川縁故の例外を許さなかった。ただ、藩主の処分に関しては甘く、おだやかな隠居的対応であり、そこに将軍家の恩情があったように感じられる。輝澄は蟄居後、剃髪し石入と号したと諸書にあり、そのため石入と号したのは蟄居が起因になったと広く一般に理解されてきた。しかしそうではないことがわかった。鳥取藩の勤番家老による日記「控帳」から慶安四年(1651)に夫人が亡くなるまでは従来通り石見守と称し、夫人の死去から石入と号したことが明らかになったのである。このことは輝澄の一面を知るうえで重要である。
 夫人の死と同年に将軍家光も死去した。家光と輝澄は徳川家康の内孫と外孫の関係で二人は同い年でもあった。

 
蟄居の赦免と政直の福本藩立藩

 明暦四年(1658)輝澄四男政直が光仲・光政(岡山藩主)の願いにより赦免され、江戸に召し出され、第四代将軍家綱に拝謁した。「控帳」には同年輝澄は改易後初めて鳥取城へ登城し、(鳥取)東照宮御祭礼にも出向いている。この頃名実ともに父子の蟄居が赦免され、以後行動が活発化していることが確認されている。
 寛文2年(1662)輝澄死去、享年五九歳であった。嫡子政直は父輝澄の遺領分一万石を相続し福本藩を立藩したのである。
 
※この記事は「城郭研究室年報」vol 26に掲載された『「諸事集書」と池田輝澄について』、新鳥取県史編纂委員の伊藤康晴氏の研究内容を元に作成したものです。
 
【山崎郷土研究会報 NO.131 平成30.8.26発行 より転載】
 
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 付 記
 池田輝澄については、山崎城(鹿沢城) 宍粟藩藩政崩壊への道(その1・2)で取り上げました。その時は因幡鳥取の鹿野町に蟄居となった晩年のことは知り得なかったが、その後伊藤康晴氏の研究により詳しく知ることができた。
 輝澄が仏門に入り石入と号したことはよく知られているが、石入と号した理由を記事に「自らの失策による藩の崩壊の責任と一身にその責を負った古参家老伊木伊織をはじめ多くの者を死に至らしめたせめてもの償いのためだったと思いたい。」と書いていた。
 しかし私の思いは裏切られがっかりもしたが、因幡での輝澄に足跡(記録)を知ることにより輝澄の人物像がより見えてきたことはよかった。
 参勤交代で発病した輝澄の病が心の病であったことや、国元とは遠く離れた江戸表にあって側近の菅友伯を重きに置いていたことが、藩崩壊の元凶ともいえる。 池田一門は、それがわかっていただけに必死に説得を試みるも輝澄がかたくなにそれを拒否したため、最後の解決のチャンスを失ってしまったのである。
 徳川家ゆかり(家康の外孫)の嘱望されていたはずの輝澄の人生最大の失策は、池田一門の意見に耳を貸さなかったことに尽きる。ではなぜかたくなに拒否したのか、今は知る由もない。



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