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大聖寺山城跡全景 千種川支流安室(やすむろ)川の北岸(左岸)にそびえる
大聖寺山城跡と周辺の城跡の位置図
大聖寺山城のこと
大聖寺山城は上郡町船坂にそびえる大聖寺山(258m、比高220m)の山頂にあり、城域は東西約70m、南北約90m。主郭を含め3段の連郭式に配置され小規模のものであるが、畝状竪堀、堀切など戦国末期の城跡の様相を示している。
南麓には安室川が東流し、その支流の梨ケ原川の上流に沿って中世山陽道が走り備前国境の船坂峠に至る。また安室川上流の北西の山伏峠を越えれば八塔寺近くを通り美作方面に通ずる交通の要衝にあった。
城の記録としては、「赤松家播備作城記」に「赤松出羽守満貞 初築之居城也、応永年中(1394~1428)、釆地者赤穂十二個所、備前和気郡也」、「播磨鑑」には「城主は安室五郎義長が居住し、義長は赤松筑前守入道世貞の子であるとし、赤穂十三カ所備前和気郡を合わせて領し、永享(1431)3年5月2日没した」とある。赤松一族が安室荘内(12カ所)を治め、姓を安室と名のったようである。
西方禅寺の梵鐘銘には「播州赤穂郡安室庄下獄宮山西方禅寺者、昔時大聖寺城主之菩提所也。即藤九郎森長之有石塔。城主三浦駒王丸、従義武名村義宗乞三代」とある。「赤穂郡誌」
天正8年(1580)赤穂郡は宇喜多氏の所領となり、安室郷の知行を安室殿に命じている「播磨国知行割覚」。この城の南方の土井ノ内が発掘調査され約9m四方の平地城館跡が確認されている。これは城主安室氏の居館跡と考えられている。
参考:『兵庫県の中世城館』、『近畿の城郭Ⅱ』
アクセス
上郡町役場より西方面に進み、船坂地区の安室川に西方寺橋を目指す。橋を渡って右折れすると西方寺宝筐院塔の案内板があるので、そこを目ざす。
▲西方寺橋 ▲西方寺石造宝塔の
▲宝篋印塔・五輪塔群
説明板には 永仁6年(1298)鎌倉後期 造立とある。県指定文化財
宝塔から少しばかり戻ると、城山に登る道がある。上部にお堂がある。そこからは尾根筋上を進むと迷うことはない。
▲お堂の横を登る
▲登る途中
▲途中見晴らしのよい場所に至る
30~40分ほどでいよいよ山頂付近に至る。
▲虎口
虎口に至る。通路上に石積みが残っている。その先にアンテナの残骸がある。
ここから主郭の途中と南曲輪の西端付近に石積みが見られる。
主郭の背後には岩を砕いた堀切に圧倒される。
▼堀切 岩を削り取っている
▼堀切の断面
▼岩のくぼみがある。水場?
▼南展望 中央に中世山陽道があった
▼東山麓に残る屋敷跡(寺跡か)
城山の東山麓の谷川の道を探ると谷川の左右には石積があり、左上に階段状に屋敷跡(寺跡か)があたり一面に残っている。
雑 感
地名にも残る西方寺のお寺は上郡町山野里に移転している。城・山名として残る大聖寺と西方寺との関連は不明だという。ちなみに前回紹介した駒山城は別名小聖寺城ともいう。
この城の麓に延びる谷を歩いたときに、谷川右にも大きな居館跡があると思っていたが、後日周辺の地域を調べているとこの周辺から東の鉄塔のある山に「西方寺陣跡」、またひとつ谷向こうの山の東麓に「鳳張陣跡」があるという。天正7年(1579)宇喜多直家が毛利と決別したことによりこの周辺で羽柴秀吉軍が駐屯したという
大聖寺山城の南にはさらに別名城跡があることを知る。備前国境の見張りの城として機能していたのだろう。その探索に食指が動いた。
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