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今回は、宇野氏の発祥の地(※本貫地)とされる熊見城(くまみじょう)跡を紹介します。※本貫地(ほんかんち):中世以降、武家の苗字の由来となった土地
▲千種川方面(西)からみた熊見城跡全景
▲北から見た熊見城跡全景
▲千種川と千種川支流志文(しぶみ)川に囲まれた熊見城 (by Google Earth)
熊見城(米田城)跡 佐用郡南光町米田(現佐用郡佐用町米田 )
熊見城は千種川に接し、北側は絶壁になっています。かつて、この地域では千種川を熊見川と呼んでいたのでそう呼ばれていました。佐用川も佐用あたりから下流域を同じ名で呼んでいました。場所が米田の地名により別名米田城ともいいます。
宇野という姓は赤松氏の系図の初期に現れます。そして、宇野の姓が使われるようになったのは、鎌倉期初期に山田入道頼範が佐用郡宇野荘に居を構えたのが始まりとされ、その子の宇野新太夫将則(または為助)の流れをくむ宇野一族がこの城を守ったと考えられています。赤松の姓は下の系図に示した宗家の家範が上郡町の赤松村に館を築き赤松と名乗ったが始まりで、赤松家の系図は宇野氏から始まっています。
この宇野氏の熊見城は、中世・戦国時代いくたびかの戦場となっています。
嘉吉の乱(1441)で、美作方面より山名教清(のりきよ)が攻撃を加え落城、のち赤松の再興により回復。文明6年(1474)には山名政豊に攻略され、その後、赤松一族の得平(えひら)氏が居城したが、惣領家の置塩城主赤松義村と争い落城したという。
また天文7年(1538)に宇野祐清(すけきよ)が城主のとき、尼子晴久に敗れ、従属。さらに永禄10年(1567)に尼子氏の居城上月城が毛利に攻められて落城したため、祐清は熊見城を捨て宍粟郡(現宍粟市山崎町)の篠ノ丸城へ逃げたため廃城になったといわれています。
参考:「日本城郭体系」他
アクセス
JR播磨徳久(とくさ)駅から少しばかり西に進むと、千種川に接する小高い山が見えてきます。その山頂に熊見城跡があります。山頂へは米田の集落から車で上れます。
▼南からの鳥瞰
▲南からの鳥瞰 by Google Earth
▲山頂手前の坂道
▲施設横の土塁
▲施設付近の土塁
▲土塁
頂上には福祉施設が建っています。かつて「城山会館」が建てられ、そこに通じる車道が敷かれたんで、主郭の東側の遺構が失われています。
城山会館があったころ、山頂に掲げられた熊見城の看板が城の存在を誇示していましたが、今はさび付いた看板の骨組みだけが残っています。
▲城の看板の骨組跡
▲北側は絶壁になり、麓には千種川が流れる
施設下の道路から崖下の竹やぶにあたる東斜面に階段状の長い削平地が設けられています。 南側の杉林には3段の曲輪が確認できます。
▲崖下に見える城郭をとり囲む削平地
施設の手前(カーブミラーがある少し下)に左の小径に入ると五輪塔等の墓がある。
▲車道の左の小径
廃城になってから供養碑等がこしらえられたと思われます。
▲五輪塔
墓碑の下を降りると右に土塁があり、ここが城の入り口と思われる。
▲大手の入り口
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