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安志藩の成立 ~中津城から無城の地安志町(あんじまち)へ~
1、国替えの朱印状
享保2年(1715)に次の書状(朱印状と目録)が幕府から※小笠原喜三郎(長興)宛に届けられました。 ※小笠原喜三郎長興(ながおき):中津城主長邕(ながさと)(6才で病死)の弟
播磨国完粟郡之内拾八箇村 佐用郡之内拾箇村 赤穂郡之内拾八箇村 高壱万石 事充行之訖、可領知之如件
享保二年八月十一日 御朱印 小笠原喜三郎との
享保元年(1716)10月、当時の安志は街道筋に若干の商家がある程度の安志町(あんじまち)別名農人町でしたが、ある日突然大名が在す陣屋町となりました。安志藩ができるまでは、この地は、江戸期の初期から姫路藩領・岡山藩領・山崎藩領・幕府領と藩主の変遷がありました。
藩主小笠原長興(ながおき)(5歳)と家老以下家臣が豊前国中津から遠路はるばる播磨国宍粟郡安志にやってきました。もとは中津藩8万石の大名から、わずか1万石の無城の大名として遠方の播磨の山間の地に赴く家臣達は、その遠い赴任の旅中は無念やるかたない思いと新天地に一縷(いちる)の期待もあったかと思われます。
2、安志藩領
この幕府からの朱印状に記された所領は以下の46村。
宍粟郡内 18か村
安志谷 5村
山崎町域菅野・土万谷2村
山崎町域揖保川流域3村
一宮町域揖保川・引原川流域5村
一宮町域染河内川流域3村
佐用郡 11村
上月町域佐用~杉坂谷6村
上月町域佐用川流域3村
上月町・三日月町域千種川水系2村
赤穂郡 18村
上郡町域 西播磨高原地域7村
上郡町域 千種川流域6村
赤穂市 千種川流域1村
相生市 矢野谷4村
この分布を地図に落としてみると、所領は3郡にまたがった分散領地の46村で、その3分の2が郡外にあります。それも遠く離れた高原地や山間の僻地(へきち)が多く、米麦の生産性の悪い地域が多くありました。
▼安志藩所領(3郡にまたがる所領46村)
特に赤穂藩から安志藩となった村々は、安志藩成立の15年前の元禄14年(1701)忠臣蔵で有名な赤穂事件の後、幕府領となっていたもので、そのうちの8か村は標高300m以上の吉備準平原上にあり、生産力が乏しい僻村(へきそん)でした。このような交通の不便な広域の地の年貢の取立ては効率が悪く、藩財政も縮小構成とならざるをえなかったと考えられています。庄屋も最初は1郡一人で3人でしたが、宍粟郡を2名に増員し、4名体制にしています。
この広範囲の所領の現実を見た中津藩時代からの家老であった筆頭家老犬甘(いぬかい)半左衛門は、幕府に対して江戸近辺への所替えや城主格待遇を求める願い(下記)を出しています。
「何とぞ只今の居所なりとも仮成には城地ニ取りたて、城主格仰せつけ下し置かれ候ように心願まかりあり候」
それは、大名の名がついても所詮(しょせん)最下の無城の大名、かつては8万石名門小笠原家の体面と威厳を保つための切実な願いだったのではないかと察せられます。この願い出に対する吉報を待ちながら、藩邸や家中屋敷の建設が進められることになりました。しかし幾たびかの願いも聞き入れられることはありませんでした。
享和3年(1803)頃の安志藩陣屋絵図
3、安志藩と小倉藩
一度はお家断絶という武家にとっての最大の危機を免れた安志藩。以後小倉藩とは遠方ではあっても、きわめて密接な関係を保ち、互いの藩主に嫡子(ちゃくし)が無い場合は両家の間で養子を組み、無嗣(むし)断絶がないように連携を保ちました。
武家は世襲制であるため無嗣断絶や改易(幕法違反)によってお家断絶となる大名が外様、譜代にかかわらず数多くありました。その主な理由は、藩主に世継ぎの無いこと特に藩主の予期せぬ早死によることが多く、大名が危篤になってからあわてて養子を願い出ることは許されないことも断絶の多い一因ともなっていました。(徳川第4代家綱の時代に末期養子の禁は緩和されました。)
ちなみに江戸時代を通じて外様大名の127家、親藩・譜代大名121家の計248家が改易されたといいます。
➡安志藩(4)
【関連】
安志藩(その1)
安志藩(その2)
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