郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 徳久城跡

2020-02-24 11:57:40 | 城跡巡り
【閲覧数】1,279件(2018.10.4~2019.10.31)




とくさ
徳久城(柏原城)跡 佐用町東徳久




              

 徳久城(柏原城)は千種川(熊見川)東岸の殿崎集落の東にそびえる標高380mの山頂にある。山頂部に12m×21mの主郭があり、尾根筋上には堀切・竪堀そして10数個の小曲輪がみられる。宇野氏の本城熊見城(米田城)の支城として北の守りとしたものと考えられている。
 城主は柏原弥三郎為永が建保年中(1213~19)に築いたとある『赤松家播備作城記』。為永は宇野氏の出で、父頼宗が宍粟郡柏原城主であったことから、柏原氏を名乗り柏原弥三郎為永と称し、その子永利の代に嘉吉の乱(1441)に山名氏に滅ぼされたと伝わるものの、建保年中から嘉吉の乱までの200年に頼宗・為永・永利の3代しかないのは、年代が合わない。(下図系図参照)
 その後、天正5年(1577)時の城主間島景綱は秀吉が中国攻めに先立ち佐用郡に進出してきた際、廃城したという。



柏原氏のこと

 建久2年(1191)山田則景が播磨国佐用郡の佐用庄(荘園)地頭職を補任されてより、一族はその後郡内各地に土着し、夫々の地名を苗字に名乗っていった。佐用庄(さよのしょう)は九条家領で佐用郡内の三分の二を占め、宍粟郡と赤穂郡にまたがる広大な荘園であった。佐用庄の外には江川庄・豊福庄・本位庄・宇野庄・広岡庄・船曳庄等があった。そこに宇野氏・赤松氏・佐用氏・得平氏・櫛田氏・上月氏・間島氏・本郷(船曳)氏・江見氏・別所氏そして柏原氏などの数多くの一族が生まれた。

 【吾妻鑑】(鎌倉期史書)に柏原氏の名が見られる。柏原氏は柏原(かしわばら)荘(平松村・西徳久村・東徳久村・林崎村の地域)を領分としていたようである。現在でもこの地域では柏原の姓がiいくつか残っている。





 
▲宇野氏系図(長谷川家赤松系図) 三日月町史より



 宇野氏系図には徳久城主柏原為永の父は宍粟郡柏原構 柏原三郎頼宗とある。鎌倉期に始まる佐用郡の宇野氏は東に隣接する宍粟郡山崎町域の高家荘・柏野荘にも進出したと考えられる。則景の末子の家範が佐用庄の南端の赤松村(上郡町)で初めて赤松を名乗ったとされ赤松の祖といわれている。その4代目に赤松則村(円心)が室町期に播磨国守護職を得、二男貞範、その子顕則に至って初めて宍粟郡山崎町に篠ノ丸城や長水城が築かれ、15世紀後期に宇野氏が播磨国守護代となって宍粟郡を基盤に勢力を保ち周辺にも影響力を持った。
 ただ宇野氏系図にある宍粟郡柏原構はどこなのかについては宍粟郡には柏原という地名はなく、この徳久城のことなのかも知れないし、存在したとすれば宍粟郡ではなく佐用郡のどこかにあったと思われる。

 では、宍粟郡金谷の柏原城はどうなのかということだが、この城跡は宍粟郡と揖西郡(新宮町)の郡境上あり、羽柴秀吉の宇野攻めの陣城(付城)であると考えられ、この城跡が昭和の時代に柏原城と名付けられたことに違和感を覚えている。

 ちなみに古書による柏原城の記述については、『赤松家播備作城記』(江戸初期・元禄時代)には記載がなく、地誌『播磨鑑』(江戸期)に宍粟郡古城跡・構居の項に、【柏原城】城主ハ早瀬帯刀正義居【同構居】柏原三郎頼宗」と伝承を伝えているのみで、それも宍粟郡の具体的な住所は示されてはいないのである。

 この城主の早瀬帯刀正義については、文政8年(1825)太平山二百五〇回忌(上月城落城後250年の法要)の城主赤松蔵人大輔政範以下城兵討死者の名簿に「早瀬帯刀正義 政範舎弟 叔父 東櫓矢倉大将 宍粟郡柏原城主」とある『上月町史』。これによると早瀬正義は上月城主赤松政範の叔父にあたり天正5年(1577)に上月城にて討死ということになる。ちなみに上月城本丸跡にある赤松政範の墓碑はこのとき建立されたものである。



アクセス


▲登城ルートイメージ  赤線ー


▲3D赤色立体図  (by ひなたGIS)

 東徳久の殿崎公民館に車を止めさせてもらう。ここから北にむかい集落のはずれの右手に入っていくと防獣フェンスがあるのでそこを開けて入っていく。



 
▲殿崎倶楽部(公民館)                                                 ▲フェンス


 フェンスから少し進み左の山斜面を登って行く。道が荒れていてわかりずらいが、木のマーキングテープを見つけてそれを頼りに、斜面を登って行くと尾根に至る。ここから約30分ほどのコースとなる。



 
▲左上の傾斜を登る                                                             ▲墓の手前あたり


 
  
▲マーキング                                                                ▲斜面を登りきると尾根筋に出る       



▲途中から南を望む
       

     

▲堀切




▲主郭付近

               


▲頂上の主郭 




▲主郭の奥にある堀切の一つ



雑 感


 昭和39年発行の三日月町史のあとがきには、「地方に残されている資料の文献、記録、文書、系図などほとんどが後の江戸時代に作られたもので、そこには伝説や不確実なものが多くそれをどこまで歴史としてとりあげるかに大きな悩みを感じました。」とあった。当時赤松研究はまだ途についていない時期であったので編纂の苦労を推し測ることができる。
 たしかに佐用郡の諸氏の発生を系図を元に探るのに町史や佐用郡誌等に掲示されたものには異同が多い。その理由は赤松氏が正当な後継者であることを示すために系図を意図的に作りあげたためではないかといわれている
 佐用庄の地頭に補任した山田則景の山田の姓は佐用町の西の字山田からという。則景は宇野則景とある系図があり、また赤松氏の一族に宇野氏を名乗る者が見られるのは、宇野氏が一族の本姓であること暗に示したものであろうと考えられるようになった。
 このように見てみると、赤松則景ではなく宇野則景として据えることにより赤松の位置づけと赤松以前の諸氏との関係が見え、今回の徳久城の紹介が今後の佐用の城の歴史や人物を見ていくうえで手掛かりになったように思う。


参考:「南光町史」、「三日月町史」、「佐用郡誌」、「日本城郭大系、「日本城郭全集」、「web 宇野氏 武家家伝」


◆城郭一覧アドレス


神姫バス 姫路空襲と復興①

2020-02-24 09:44:43 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】1,459件(2011.2.16~2019.10.31)



姫路市 空襲からの復興


 昭和20年(1945)7月4日夜間、B29による焼夷弾(しょういだん)攻撃で姫路市の中心部が壊滅的な打撃を受けた・・・・・・。

 空襲の翌日神姫バスは全従業員を集合させ、復旧仮本部を市内に設置し、各支社・営業所から車両を集め、焼け跡の即日整理をすすめ、市内にバスを走らせたのである。その光景は焼け跡にたたずむ市民を感動させた。

 昭和20年8月15日正午、天皇陛下による玉音放送により敗戦が日本国民に知らされた。日本の混乱期はそこから始まった。
 神姫バスは他の業界に先駆けて、復興輸送体制に奔走したのである。敗戦後の苦難の道を切り開く道のりが、「本社の焼失と終戦」「戦後の復興期」に詳しい。

「神姫バス70年史」より


 空襲で焼け野原となった姫路市内の痛々しい写真(高橋秀吉氏提供)が「神姫バス70年史」に載せられていたので紹介します。


▼1.山陽姫路駅付近



▼2.白銀町筋北


▼3.豆腐町付近



 2の写真「被爆直後の姫路の繁華街 白銀町筋から北を望む」に右上に姫路城が写っている。夜間の猛烈な爆撃の翌朝、無傷の姫路城を見たとき呆然自失の市民に一筋の生きる希望を与えたと聞いている。正にその光景が写し出されている貴重な写真です。