TAZUKO多鶴子

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江戸の文化『光琳模様』と現在の出版社

2007-06-05 | TAZUKO多鶴子からの伝言
江戸の文化は鎖国と身分制度の中で
面白い事に様々な優れた文化が洗練されました。
その中で今日は『光琳模様』についてお伝えします。
『光琳模様とは』
尾形光琳(狩野派の流れの師から学ぶ…いつか又ブログで書き込む予定)
の画風のうち特徴的な部分を
小袖模様にとりいれたもので「1716~36年」~「1736~41年」
にかけての約20年ほどの間、町人女性の間で爆発的な人気を博した模様です。
当時、尾形光琳はすでに画家として名声をなし
彼の手がけた絵画や蒔絵(まきえ)は個性的な作風ゆえに人々に注目を集め
富裕層の間で大人気を博していました。
なかには光琳自身に依頼して
自分の小袖に絵を描いてもらう女性までいた程でした。
光琳にオーダーしてみたいと思う女性は沢山いたと想像されますが、
中流階級以下の人々にとってはそのようなことはかなうべくもありません。
こうした状況のもと、
光琳絵画独特の装飾的表現を自分たちの手で小袖衣装にアレンジしようという
アイディアが、おそらくは呉服商から生まれてきたものと思われます。
また、当時のファッションブックである小袖模様雛形本は、
流行の最先端を集めたものであると同時に、
流行を生み出すものでもありました。
呉服商と出版業者は互いに情報交換しながら、
人々の求めるところをすばやく取り入れ、
またそれを小袖模様雛形本を通して「流行」にまで
つくり上げていったのでした。
こうして、光琳に直接作品を依頼できない一般の町人女性を
主たる顧客として、
『光琳模様』は大流行を迎えることになったのです。
江戸時代、画家を生活の中に取り入れた動きは尾形光琳だけではなく
描絵小袖といって裕福な町人などは、
当時の一流画家に特別に絵を描かせた小袖が流行していたのでした。

では
現在はどうでしょうか…。お金だけの経済中心の時代…。
海外物やサブカルチャーばかりの時代。
現在良い絵を描こうとしている画家程冬の時代。
何が良いのか悪いのか…迷いの時代。
良い本を作ろうとしている出版業界も冬の時代。
(その考えでは今の出版業界も生きてはいけないと予想されます。)
しかし
数字ばかりに毎日追われ
数字だけで甲乙をつけ
現代の学校や会社や社会は
お金と地位と個人の為だけに頑張っている…
今の時代は人につくので無く
お金と損得の結果の地位や名誉につく…。
そんな時代の結末が直ぐそこまで来ようとしています。
でも…
昔の日本はそうでない人がもっと一杯いたような気がします。

先週の日曜日NHKの大河ドラマ『風林火山』を見ました。
(TAZUKO多鶴子はあまりテレビは見ませんが『風林火山』は見ているのです)
山本勘助の言葉が耳にはなれません。
「私は故郷というものは何処にも無い…けれどあるとすれば人が故郷です…。人が私の故郷です。」

この言葉は私の思いと同じなのです!!

<参考資料>
『きものと裂のことば案内』
  著者:長崎 巌