TAZUKO多鶴子

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『宗祇』の連歌から…

2008-10-03 | TAZUKO多鶴子からの伝言


    さびしさも

    身になれはてて山里は

    秋ふく風の

    夕暮もなし

   …… 宗祇集 ……

【通釈】寂しさも我が身にすっかり馴染んでしまって、山里では、秋の夕暮に吹く風だからと言ってどうということもない。
【補記】古歌に歌われた秋の夕暮の寂寥も、孤独に慣れた我が身には無縁だと言う。



<宗祇>
宗祇(そうぎ、1421年(応永28年)- 1502年9月1日(文亀2年7月30日))は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。
若いころ京都相国寺に入り、30歳のころ連歌に志したという。宗砌、専順、心敬に連歌を学び、東常縁に古今伝授を授けられた。
1473年(文明5年)以後、公家や将軍、管領の居住する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、三条西実隆他の公家や細川政元他の室町幕府の上級武士と交わった。 また、畿内の有力国人衆や周防の大内氏、若狭の武田氏、越後の上杉氏ら各地の大名をたずねている。1488年(長享2年)北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となった。この職は、まもなく兼載に譲り、1495年(明応4年)兼載らと『新撰菟玖波集』を編集した。生涯を通じ、たびたび各地を旅したが、1502年弟子の宗長、宗碩らに伴われて越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館で没し、駿河桃園(現:静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。
応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。
連歌の作品として『水無瀬三吟百韻』、『湯山三吟百韻』、『葉守千句』があり、句集に『萱草』(わすれぐさ)、『老葉』(わくらば)、『下草』(したくさ)、紀行文に『白河紀行』、『筑紫道記』(つくしみちのき)、連歌論に『吾妻問答』、『浅茅』などがあり、古典の注釈書も多い。和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに連歌を代表する漂泊の人である。
 

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