TAZUKO多鶴子

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京人形からみる歴史

2008-10-07 | TAZUKO多鶴子からの伝言
近年のテレビやラジオで
魂の入った怖い人形の話しの情報がよく流れる。
私はその話しに、
どうも以前から疑問がある。

そもそも日本人形の起源は、縄文時代からはじまる。
土偶や埴輪がそれである。
これらはいずれも信仰や呪術の対象であり、
よく知られるものには
陰陽師が用いた道具・呪法などの中にも人形(ひとがた)がある。
また人形の起源は京都にあると行っても過言で無い。
何故なら京都は、
仏具・繊維・漆芸などの工芸が発達しており、
人形作りの環境としても適していた。
京人形は、
平安時代の公卿社会で用いられた雛に始まるそうである。
その頃の人々は、
三月の初めの巳の日に、
上巳(じょうし、じょうみ)の節句といって、
無病息災を願う祓いの行事をしていた。
陰陽師(おんみょうじ・占い師のこと)を呼んで天地の神に祈り、
季節の食物を供え、
人形(ひとがた)に自分の災厄を托して海や川に流していた。
また、
貴族の少女たちの間では“ひいな遊び”というもの流行り、
紙などで作った人形と、御殿や、
身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので、
これが後のひな祭りになっていった。
このような歴史から紐解いても、
京人形、
つまり日本人形には
人の災いや不幸を人形が代わりに受けて、
助け救ってくれる役割として、
時には夢や希望を人形が後押ししてくれる欠かせない物として、
発展してきたのが主軸である筈だ。
だからメディアで報じられているような、
それを大切にしている人々に
不幸を呼ぶ事が考えられないとTAZUKO多鶴子は思う。
もし感じるのであれば、
それを感じる側に
内在した何かの問題があるのではないかと感じている。
今はもう残念ながら
日本人形の有り難さを忘れてしまっている時代になってしまった。
珍しい目線で眼を向けるのは
外国の人々が多いという寂しい時代になってしまった。
…怖い話しはひょっとして、
忘れ去られた深い文化を持つ日本人形に目を向けるよう、
現代人が無意識に感じている形なのかもしれない…。


◎ 日本人形 ◎
 <京人形>
  節句人形(せっくにんぎょう)
  嵯峨人形(さがにんぎょう)
  賀茂人形(かもにんぎょう)
  御所人形(ごしょにんぎょう)
  伏見人形(ふしみにんぎょう)などがある
 *京人形は、天児(あまがつ)、這子(ほうこ)など
  子供の身代わりに悪いことを引き受けるものとして用いられた
 *頭師(かしらし)、髪付け師(かみつけし)、手足師(てあしし)、
  小道具師(こどうぐし)、胴着付け師(どうぎつ し)などに
  分業されて作られる
 *その伝統は、1対1で後継ぎに伝える一子相伝によって伝えられる
 *宝鏡寺(通称:人形寺)、三時知恩寺、霊鑑寺などの尼門跡寺院があり、
  代々、皇女が入寺、江戸時代の優れた人形を伝え、「拝領人形」ともいわれ、
  大名への贈答品とされていた
  *素焼きの京陶人形も人気
  <伏見人形> 伏見人形は、素朴な土焼き
   おくどさん(釜戸)の近くで荒神を祀る棚「荒神棚(こうじんだな)」には、
   布袋さん(三宝さん)や、弁天さん、お猿さんなどの伏見人形が飾られる。
【人形の歴史・経緯】
 <形代(かたしろ)>
 古代から、人の身代わりとなる信仰により作られる
 身の穢れや禍いを人形(ひとがた)に移して、川や海に流して無病息災などが祈願された
 <天児(あまがつ)・這子(はいこ)>
 天児が男子、這子が女子とされる
 幼児の枕元におかれ、無病息災・無事な成長が祈願された
 <這い這い人形>
 天児(あまがつ)・這子(はいこ)の代わりに、子供の成長を祈願する人形
 長旅をするときには駕籠に一緒に乗せて、道中の禍除けとされた

 <立雛(たちびな)>
 室町時代
 形代(かたしろ)の人形(ひとがた)から人形(にんぎょう)となる
 男雛は烏帽子、袴に小袖を左右に広げ、女雛は袖を前に重ねて細幅の帯姿
 素材は、紙から布地などが用いられるようになる
 <室町雛(むろまちびな)>
 江戸時代初期
 男雛と女雛とも左右に手を広げていて、 お顔は天児(あまがつ)に似た丸顔
 <寛永雛(かんえいびな)>
 江戸時代初期
 寛永年間(1624年~1644年)の頃に作られたもの
 雛人形の原型となる座り雛が考案される
 装束をつけるようになるが、頭には髪の毛はなく、冠とともに一木造りで耳が大きく作られている
 <元禄雛(げんろくびな)>
 元禄年間(1688年~1704年)
 元禄文化の華やぎとともに、人形(雛)にも芸術性が求められるようになる
 容姿や装束生地が美化される
 男雛は冠と頭が一体で、衣装は、金襴の共布で男雛は束帯に似たし装束
 女雛はまだ冠がなく、髪の毛は黒く塗ってあるだけで、顔も素朴に描かれ、
 紅花染めの平織りの袴を着ける
 高さは20~25cm程
 <享保雛(きょうほびな)>
 享保年間(1716年~1736年)に流行した雛人形
 元禄雛をさらに豪華に高級化したもの
 豪華絢爛たる内裏雛は、豪商や豪農に好まれた
 髪は、すが糸で植えられる
 男雛は、冠をかぶり、両袖を張り、太刀を差して笏(しゃく)を手にしている
 女雛は、五衣(いつつぎぬ)、唐衣姿(からころもすがた)で、袴には綿を入れて膨らまされている
 高さは40~100cm程の大型のものも作られるようになる
 1721年(皇紀2381)享保6年
 江戸幕府により、加熱する豪華を誡められ、大きさを8寸(24cm)以下と定められた
 <次郎左衛門雛(じろうざえもんびな)>
 宝暦から安永年間(1751年~1772年)頃に、江戸でも公家から町民などにも流行した雛人形
 京都で幕府御用を務めた人形師 雛屋次郎左衛門が創始したといわれ
 頭は丸く、引目鉤鼻(ひきめかぎはな)に、おちょぼ口という気品に満ちた顔をしている
 男雛は、狩衣風の装束
 女雛は、両手を開いた小袖姿で、着物に袴(はかま)の古式姿をしている
 <有職雛(ゆうそくびな)>
 江戸時代後期
 公家の姿を、有職の作法に従って正しく考証し、細部にわたり忠実に再現された雛人形
 公家社会では、位階や年齢によって着用する装束が詳細に規定されている
 男雛の装束の種類により「束帯雛(そくたいびな)」「直衣雛(のうしびな)」「狩衣雛(かりぎぬびな)」と称される
 女雛は、袿袴が主体
 <古今雛(こきんびな)>
 江戸時代後期から
 写実的な容姿と衣装の美しさが、江戸などで町民などにも流行した雛人形
 女雛は、冠には中央に鳳凰がついたり、瓔珞など装飾が豪華になっている
 明和年間(1764年~1772年)
 江戸の原舟月により考案される
 有職雛の形式で作られている
【上巳の節句】
 3月3日は上巳の節句、「桃の節句」「雛の節句」「雛祭」との称せられる
 *平安時代頃には、人形が作られ、宮中では「ひいな遊び」と称される人形遊びが盛んだった

<陰陽師>
人形(ひとかた、ひとがた)
形代(かたしろ、かたじろ)、撫物(なでもの)とも言い、紙や木材・草葉・藁などで人の形に作られ、それにより患部等を撫でることによって自分の穢れをこれに移しつけて祓うのに使われるもので、流し雛の風習はこれを元としている。一方で人形に相手の名前等を記し、その人形を傷つけるなどして、相手に事故死や病死などの重大な災いをひき起こす呪いとして用いたり、男女二体の人形を一つにし祈祷することで恋愛成就を祈るなど、様々な祈祷儀礼に広く見られる。丑の刻参りの藁人形が有名。


参考資料:京人形 京都通百科事典