TAZUKO多鶴子

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長さの単位…新たな出会いに感謝!

2008-10-04 | TAZUKO多鶴子からの伝言
今日は、
ある有名な京都の人形職人の先生方々から
大変勉強になる事を教えて頂いた。
長さの単位の事である。
明治時代から尺からセンチメートルに代わったのだが、
着物の寸法などはセンチメートルよりも、
尺寸の方が計りやすく身体に合ったものが作れる…と。
何故ならば…それは、尺の由来からくるからだそうで
人間の身体の長さが尺寸の基準になるからだと。
尺寸の素晴らしさを改めて知らされた貴重な話しであった。
その方から多くの様々な事を教えて頂いている昨今、
今日も
更に新たな良い出会いに
益々感謝する日となりました。


<尺>
尺(しゃく)は、尺貫法における長さの単位である。東アジアでひろく使用されている。日本では、明治時代に1尺=(10/33)メートル(約30.3cm)と定めた。中国では、1尺=(1/3)メートル(約33.3cm)とし、また、メートルにも「尺」の字を宛てている。区別のため、前者を市尺、後者を公尺という(市制を参照)。
人体の骨格の尺骨は、この尺とほぼ同じの長さであることに由来する。
尺貫法の長さの基準となる単位であり、転じて物の長さのことや物差しのことも「尺」と呼ぶようになった。映画のフィルムやカットの長さのことを「尺」と呼ぶのもこれに由来する。それがさらに広まり、テレビ、ラジオの番組や、各種イベントなどにおいて、割り当てられた時間のことを指すようにもなった。
*歴史*
尺という単位は古代中国の殷の時代には既にあったとされている。「尺」という文字は親指と人差指を広げた形をかたどったものであり、元々は手を広げたときの親指の先から中指の先までの長さを1尺とする身体尺であった。この長さはおおむね18cmくらいであり、現在の尺の6割くらいの長さである。
身体尺は人によって長さが異なるので、後の時代に一定の長さを1尺とする公定尺を定めるようになった。しかし、公定尺は時代を下るにつれて長くなっていた。これは民間で使われる単位が長くなっていったため、時の政権もそれを追認する形で公定尺を改訂したものである。尺の長さを長くすることで尺を基準にして納める税(反物など)がより多くとれるからとする説もある。紀元前1000年ごろの周代には、1尺が24センチメートル程度に伸びていた。他の長さの単位も、尺に合わせて変化することになる。
しかし、民間の尺や公定尺とは別に、大工が使用していた尺は長い間たってもほとんど変化しなかった。これが曲尺(かねじゃく、きょくじゃく)である。曲尺とは元々は大工が使用する指矩(さしがね)のことであるが、それに目盛られている尺のことも指すようになった。曲尺がほとんど変化しなかったのは、建築技術は師匠から弟子へと伝えられるもので、政治の影響を受けなかったためである。公定尺は税の取立てや商取引のために制定されるものであり、職人の使う尺に干渉することはなかった。曲尺は、面積の単位でもある歩を元にして作られたものである。当初の歩は、日本語で言う2歩分(両足を前に踏み出した長さ)を1歩とし、1歩四方を面積の1歩としていた。その1歩の半分を曲尺の1尺とした。すなわち、曲尺の1尺は日本語で言う1歩分(片足を前に踏み出した長さ)ということになる(なお、その後1歩の面積は大きくなってゆき、現在の1歩は曲尺で6尺四方となっている)。曲尺の尺は西洋のフィートと非常に近い長さであるが、どちらも足を基準にしているためであり、偶然ではない。
隋代には、曲尺を元にして大尺・小尺を公定尺として制定し、唐でもそれを継承した。それが日本に導入され、大宝元年(701年)の大宝律令で大尺・小尺を制定している。ただし異説もあり、日本には大宝令以前に高麗から渡来した大尺より2尺長い高麗尺が普及していたので、これが大宝令の大尺とされ、唐の大尺が小尺にされたともいう。この説では、後に現れる曲尺1尺2寸の呉服尺は高麗尺に基づくものであるとする。また、新井宏は寺院等の実測分析から高麗尺ではなく0.268mの尺が使用されていたという古韓尺説をとなえている。いずれにしても小尺はその後用いられなくなり、大尺が尺として通用することになる。唐の大尺は現在の曲尺で9.78寸(29.63 cm)であり、それ以来ほとんど変化していないことになる。
律令制崩壊後は、全国一律の尺は維持されなくなり、各地で様々な尺が使われるようになった。代表的なものが京都系の竹尺(享保尺)と大坂系の鉄尺(又四郎尺)である。鉄尺は竹尺の1.4倍であった。鉄尺と竹尺を平均して伊能忠敬が作ったのが折衷尺である。明治に入り、政府は折衷尺を公式の曲尺として採用し、国際メートル原器の33分の10の長さ(すなわち10/33メートル)と定めた。通常、単に「尺」と言えば曲尺の尺を指す。
1958年制定の計量法で尺貫法は公式の単位としては廃止され、以降商取引などの使用が禁止されている。
中国においても、唐代以後は小尺は使われなくなり、大尺は清末まで次第に伸びて36cmほどになった。1929年にメートルを基準として(1/3)メートル(約33.3cm)と定められた。
*鯨尺*
曲尺とは別に、用途別の尺も使われた。着物の仕立てに使われた鯨尺(くじらじゃく)・呉服尺などである。現在の鯨尺は曲尺で1尺2寸5分である。呉服尺は1尺2寸であった。鯨尺・呉服尺の起源についての定説は今のところない。鯨尺は大宝律令以前から使われていた高麗尺(こまじゃく)に由来するとする説があるが、室町時代に作られたものだという説もある。高麗尺は現在の曲尺で1.1736尺であり、鯨尺よりむしろ呉服尺の起源であるとする説もある。明治政府は、曲尺の尺の他に鯨尺を布地の計量に限定した計量単位として認め、呉服尺などその他の尺を廃止した。鯨尺の尺(鯨尺尺)は25/66メートル(約37.88cm)と定められた。
江戸時代初期の小噺に、奈良の大仏と土佐の鯨とが、どちらが大きいかで言い争いとなり、最後に「金(曲尺)より鯨(鯨尺)の方が二寸長い」というオチになるというものがある。なお、「鯨尺」という名前は、仕立てに使う物さしをしなやかな鯨のひげで作ったことによる。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』