<北野天満宮(きたのてんまんぐう)>
京都市上京区にある神社である。
通称、天神さん・北野さん。旧社格は官幣中社。京都市民からは「てんじんさん」の愛称で呼ばれる。
菅原道真を主祭神とし、相殿に中将殿(道真の長子・高視)と吉祥女(道真の正室)を祀る。毎月25日に縁日が開かれ、多くの参拝者や観光客で賑わう。特に学問の神として知られ、多くの受験生らの信仰を集めている。京都市が大学の町であることもあってか、掲げられている絵馬には、大学受験合格を祈願するものが多い。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心となっており、当社から全国各地に勧請が行われている。
*延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で歿した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、歿後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。
江戸時代には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名させられる。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。
『梅と牛』
北野天満宮や菅原道真は、梅および牛との関係が深い。
道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(現在は「春を忘るな」とされることもある)」と和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから、梅が神紋となっている。そのことにちなみ境内には梅が多く植えられている。(楼門外には梅林もあり、シーズン中は有料で公開される。) 梅の花の咲く頃は受験シーズンであるので受験生やその家族の参拝がもともと多いが、加えて観梅の観光客も多く訪れる。
牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。
参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』