TAZUKO多鶴子

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『芸術とは…』画家の言葉をご紹介します

2007-06-06 | TAZUKO多鶴子からの伝言
『エゴン・シーレ』は
ウィーンの西北30キロほどにある小さな町で生まれ、
僅か28年という短い命を燃や尽くし
衝撃的な人生をおくった画家です。
彼の作品というよりは、
彼の生きた苦悩の人生と言葉が
『現代芸術と現代芸術家に警告する』
純粋な画家の姿に私は感銘を覚えます。
今日はその『エゴン・シーレ』の言葉をご紹介します。

「 ぼくが芸術家という言葉で
    呼ぼうとするのは、
  肩書や資格を持つ人間ではなく、
  使命を負った人間のことである。 」

「 『現代』芸術などというものは存在しない。
      あるのはただ一つ、
       芸術であり、
  それはあらゆる時代を超えて永続する。 」
           エゴン・シーレの言葉

<参考資料>
『エゴン・シーレ魂の裸像』
     著者:黒井千次

江戸の文化『光琳模様』と現在の出版社

2007-06-05 | TAZUKO多鶴子からの伝言
江戸の文化は鎖国と身分制度の中で
面白い事に様々な優れた文化が洗練されました。
その中で今日は『光琳模様』についてお伝えします。
『光琳模様とは』
尾形光琳(狩野派の流れの師から学ぶ…いつか又ブログで書き込む予定)
の画風のうち特徴的な部分を
小袖模様にとりいれたもので「1716~36年」~「1736~41年」
にかけての約20年ほどの間、町人女性の間で爆発的な人気を博した模様です。
当時、尾形光琳はすでに画家として名声をなし
彼の手がけた絵画や蒔絵(まきえ)は個性的な作風ゆえに人々に注目を集め
富裕層の間で大人気を博していました。
なかには光琳自身に依頼して
自分の小袖に絵を描いてもらう女性までいた程でした。
光琳にオーダーしてみたいと思う女性は沢山いたと想像されますが、
中流階級以下の人々にとってはそのようなことはかなうべくもありません。
こうした状況のもと、
光琳絵画独特の装飾的表現を自分たちの手で小袖衣装にアレンジしようという
アイディアが、おそらくは呉服商から生まれてきたものと思われます。
また、当時のファッションブックである小袖模様雛形本は、
流行の最先端を集めたものであると同時に、
流行を生み出すものでもありました。
呉服商と出版業者は互いに情報交換しながら、
人々の求めるところをすばやく取り入れ、
またそれを小袖模様雛形本を通して「流行」にまで
つくり上げていったのでした。
こうして、光琳に直接作品を依頼できない一般の町人女性を
主たる顧客として、
『光琳模様』は大流行を迎えることになったのです。
江戸時代、画家を生活の中に取り入れた動きは尾形光琳だけではなく
描絵小袖といって裕福な町人などは、
当時の一流画家に特別に絵を描かせた小袖が流行していたのでした。

では
現在はどうでしょうか…。お金だけの経済中心の時代…。
海外物やサブカルチャーばかりの時代。
現在良い絵を描こうとしている画家程冬の時代。
何が良いのか悪いのか…迷いの時代。
良い本を作ろうとしている出版業界も冬の時代。
(その考えでは今の出版業界も生きてはいけないと予想されます。)
しかし
数字ばかりに毎日追われ
数字だけで甲乙をつけ
現代の学校や会社や社会は
お金と地位と個人の為だけに頑張っている…
今の時代は人につくので無く
お金と損得の結果の地位や名誉につく…。
そんな時代の結末が直ぐそこまで来ようとしています。
でも…
昔の日本はそうでない人がもっと一杯いたような気がします。

先週の日曜日NHKの大河ドラマ『風林火山』を見ました。
(TAZUKO多鶴子はあまりテレビは見ませんが『風林火山』は見ているのです)
山本勘助の言葉が耳にはなれません。
「私は故郷というものは何処にも無い…けれどあるとすれば人が故郷です…。人が私の故郷です。」

この言葉は私の思いと同じなのです!!

<参考資料>
『きものと裂のことば案内』
  著者:長崎 巌



歩くと色々と観えてきます(^ ^)

2007-06-04 | TAZUKO多鶴子からの伝言
最近特に、なるべく歩くようにしています。
遅いより早い方がいい時代
でも…
急ぐと足下にいる蟻さえ眼にはらない…。
歩いたり…自転車だと…
気が付かない事が一杯目に入ってきます。
鳥の鳴き声や様々な虫たち
そして
野良猫の姿や鎖につながれた飼い犬…
季節が過ぎていく様子
紫陽花の花
バラの花々が咲き
新緑の樹々の美しさ
汚れた川にメダカが一生懸命生きようとしている生命力
様々な家々、多くの人々の営み
車の排気ガスのおそろしさ
空の美しい変化
夜空の月、輝く星…

私は台湾の個展でも
イタリアの個展でも
知人が誰一人いなかったので
短い時間で少しでも
土地柄やその土地の風土に慣れるため
車や電車などを利用せず
なるべく歩くように努めました。
そうする事で
沢山の情報と様々な出来事や発見がありました。
勿論
危険なこともありましたが
アンテナを精一杯きかして…
持ち前の洞察力で
危機一髪の所を何度か間脱がれたこともありました。
でも…
でも…危なくても一杯歩いたのです。
歩く事がどんなに素敵か…
是非!
是非!皆様も歩いてみて下さい。

全国公募展でお世話になった多くの先生方

2007-06-03 | TAZUKO多鶴子からの伝言
私は20才から全国公募展に出品しました。
美術界デビューとすれば早い年齢ですが
何故だか入選するというイメージがはなれなかったのです。
入選しても意味のない公募展や
沢山の名の知れない公募展もあるので
(美術史の知識のある方はよくお分かりなのです)
歴史に残る有名公募展といえば限られてきますし
一度入選すると連続出品するつもりでしたから
慎重に決定しなければなりません。
どこの展覧会に出品するか
美術界をまだ知らなすぎる時期だったので
一人だけの考えでは決定出来ませんでした。
その時大変お世話になったのが
春陽会会員の『石田正典』先生でした。
この先生との出会いも
私には無くてはならない出会になりました。
寂しいことに
先日、展覧会場で追悼展をしていたのを知り
お礼も云えず申し訳ない気持ちで今では一杯です。
石田先生はとても優れた人格者で
この先生から教わった数々の事がありました。
この詳細は
いつかまたブログで書き込込まなければいけないと思っています。
その時石田先生から勧められた展覧会は
『女流画家協会展』でした。
三岸節子(画家・三岸好太郎の妻)・佐伯米子(画家・佐伯祐三の妻)らが設立した
歴史に残る多くの会を越えた女流画家が集まった公募展です。
昔から公募展には多くの不正審査がある事を知っていたのですが…
私には何のコネもありませんでした…。
その時の石田先生の話しでは
当時、『女流画家協会展』は不正審査が少ないだろうとのご意見でした。
多分この作風であれば入選するだろう…とのアドバイスで
…結果初出品初入選で山陽新聞にも小さい記事ですが報道されたのです。
その後はそれぞれに色々と理由があって
自由美術家協会展、東京展と公募展出品の画歴が変化して行きます。
理由は深いものが様々あるので
その内いつかブログにて書き込み出来れば…とは思います。
そして他
多くの助けて頂いた先生方の出会や偶然も
いつかは書き込みしたいと思っています。
今日更に一番にお伝えしたい内容は
『井上長三郎』先生との出会いです。
先日、紀伊國屋書店で個展をしていて
絵のご注文を頂いた
ご年配の品格ある男性の方とお話しをしていると…。
『井上長三郎』先生の話しになり意気投合したのです。
その後、その方は今だに私を応援して下さっているようで…。
(時々、紀伊國屋書店に応援電話がかかってくるようです)
会話中に気付いたのですが
その方は美術学術関係の深い知識を持たれた
何かのお仕事をされている方のようでした。
そういうご専門の方は必ずご存知のはず!
『井上長三郎』先生の事は!
近代美術を語るには忘れてはならない美術史に残る画家です。
1906年~1995年
生前、自由美術家協会展の中心的作家であり
『不正審査の最も多い』『日展』
(不正審査があるのは日展だけでは無いといわれています)に対抗して
東京展設立にも協力、
独特の社会風刺、また情感を削除した気迫力と重厚な画風、
社会批判等、多くの作家や様々な近代美術に影響を与えた凄い人物です。
この歴史に残る『井上長三郎』先生に何度かお会いしています。
更にその上に
助けて頂いた事もあったのです。
毎年出品していた自由美術家協会展の中で
私の作品が
時には『落選』しそうな時がありました。
そのある時『落選』が既に決定した私の作品に
意義申し出て下さったのが『井上長三郎』先生でいた。
「僕はこの作品が好きだよ!…」と
(この話しはとても御世話頂いた審査員の先生からお聞きした話しです)
その言葉で『落選』した私の作品が速攻『入選』になり…
『井上長三郎』先生には今も大変感謝しております。
また京都での展覧会の親睦会では隣の席で宴席し
様々な会話で勉強させて頂きました。
『井上長三郎』先生への感謝と
美術や芸術が
その社会や時代に於いてどれほど重要で
大切な役割であるのか…
先生の生き様を通して
多くの教えを頂き私の生き様にも
強く影響を及ぼしている事は間違いないのです。
『井上長三郎』先生の生きられた時代から
時代は刻々と変化しています。
過去や現在
正しいと信じていたものが正しいとは限りません。
古い概念にとらわれず新しい何かを掴み取る
(今はもう…美術大学が必要なのか…?
公募展は…?画商は…?賞は…?芸術のあり方は…?文化は…?
貸し画廊は…?カルチャーのあり方は…?
社会は…?時代は…?とも考えています)
それでいて古い良いものは大切にしながら
また昔の良き文化を復活させながら
柔軟で鋭い感性と信念を持ち
次の時代に正しい方向は何処なのか
広い視野で観ぬける芸術家でなければいけないと思っています。
それは『井上長三郎』先生のような
多くの凄い先生方との出会いを無駄にしてならない
感謝の思いからくるものでもあるのです。
このご恩は決して無駄には出来ません!!







青山二郎の日記から…

2007-06-02 | TAZUKO多鶴子からの伝言
今日は
青山二郎が残した日記の中から
皆様に幾つかご紹介したいと思います。

<昭和8年~9年>
ぜいたくな心を清算する要はない。
ぜいたくに磨きを掛けなければいけないのだ。
(現在の日本人は青山二郎の云う贅沢でなく
セレブを選んだのだと私は思う)

<昭和11年>
日本人の詩人だの小説家ぐらい
御都合な頭の働きをする人間はいない
先づ第一に困った事には
彼等には分からない事はないと言う自信だ
頭の押へ手のない独り息子が
親父になった様な奴等だ
(現代は文化人や知識人は多いが
教養人はいなくなった…と云う青山二郎の言葉を思い出す)

三十七才は
三十七年生きていたと言ふ偶然に過ぎぬ
年を数へて覚えたものなし
(この言葉から青山二郎の様々な奥深い意味が観える)

偶然といふものはこの世の中にないと悟る
(私も常々強く感じていることである)