TAZUKO多鶴子

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奈良『飛鳥園・TAZUKO多鶴子個展』記事掲載のお知らせが2件(^ ^)

2008-10-26 | TAZUKO多鶴子からの伝言
今日先程、
奈良『飛鳥園』の店長から嬉しいお電話を頂きました。
来月末に『飛鳥園』で開催する
『TAZUKO多鶴子個展』の雑誌掲載のお知らせでした。
『飛鳥園』の素敵なオーナや気品ある美しい店長を初め、
『飛鳥園』皆様の心ある温かな方に感謝する日となりました。
その雑誌の記事掲載は
個展会期中に見ることが出来ると思います。
今からTAZUKO多鶴子はその日を楽しみにしています。
また、つい先日ですが
『美術年鑑社』の方から『飛鳥園』個展の取材がありました。
11月の新美術新聞に掲載されるそうです。
この記事は11月初めに出るそうで、
私の手元に届くのを
これもとても楽しみにしています。
ご恩ある設楽様!本当に有り難うございました!
心からお礼申し上げます。

尚、どちらの記事も掲載され
手元に届きましたら
ブログでも公開致しますので今暫くお待ち下さいね(^ ^)


 <TAZUKO多鶴子『奈良』個展>

  会場:仏像写真ギャラリー『飛鳥園』

  場所:〒630-8213
     奈良県奈良市登大路町59
 
  会期:2008年11月24日(月)~30日(日)

『エピクテトス』の言葉

2008-10-26 | TAZUKO多鶴子からの伝言


   神が人間に

   1つの舌と

   2つの耳を授けしは、

   しゃべるより

   他人から2倍よけいに

   聞くためなり

   …… エピクテトス (ギリシャの哲学者)……



<エピクテトス(Επ?κτητο?, 55年 - 138年)>
古代ギリシアのストア派の哲学者。フリギアのヒエラポリスで生まれたと考えられている。母親は奴隷階級だったらしく、自身も奴隷としてローマ帝国の皇帝ネロのもとに売られる。ローマでは彼の生活は不健康だったという。89年から95年の間に皇帝ドミティアヌスに追い出される。亡命後ニコポリスで哲学の学校を開く。皇帝ハドリアヌスも訪問した。ここでアレクサンドロス3世の伝記(『アレクサンドロス東征記』で、これは現存する古代のアレクサンドロス大王の伝の中で最も信頼できるものと評されている)を書いたアッリアノスは勉強した。
エピクテトス自身は著作を残さなかったが、アッリアノスがエピクテトスの論文を書き写していた。
  

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

苦悩の日々…

2008-10-24 | TAZUKO多鶴子からの伝言
あちらを立てればこちらが立たず…
今回もまた…
何故このようになったのか…
ある件で絵を描く余裕が無く…
苦悩する日々…
私の人生は苦しみの道ばかり…
選択権はあったのに…
選択権は無かった現実と偶然…
どんな大変な道でも…
私は…ただ…心を閉ざして…
前だけを向いて…歩くしか生きる道は無い…
そして…どう考えても…
何度考えても…
今も昔も…
生きる道は…
この道しか無かったのです…
だから…
頑張るしか無いのです…
いつか…きっと…
全ての苦労が…
報われる日が必ず来ると…信じて…

夜の『北野天満宮』を通りましたよ(^-^)

2008-10-23 | TAZUKO多鶴子からの伝言

<北野天満宮(きたのてんまんぐう)>

京都市上京区にある神社である。
通称、天神さん・北野さん。旧社格は官幣中社。京都市民からは「てんじんさん」の愛称で呼ばれる。
菅原道真を主祭神とし、相殿に中将殿(道真の長子・高視)と吉祥女(道真の正室)を祀る。毎月25日に縁日が開かれ、多くの参拝者や観光客で賑わう。特に学問の神として知られ、多くの受験生らの信仰を集めている。京都市が大学の町であることもあってか、掲げられている絵馬には、大学受験合格を祈願するものが多い。福岡県の太宰府天満宮とともに天神信仰の中心となっており、当社から全国各地に勧請が行われている。

*延喜3年(903年)、菅原道真が無実の罪で配流された大宰府で歿した後、都では落雷などの災害が相次いだ。これが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられた。そこで、歿後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地に朝廷によって道真を祀る社殿が造営された。後に藤原師輔(時平の甥であるが、父の忠平が菅原氏と縁戚であったと言われる)が自分の屋敷の建物を寄贈して、壮大な社殿に作り直されたと言う。
永延元年(987年)に初めて勅祭が行われ、一条天皇より「北野天満宮天神」の称が贈られた。正暦4年(993年)には正一位・右大臣・太政大臣が追贈された。以降も朝廷から厚い崇敬を受け、二十二社の一社ともなった。
中世になっても菅原氏・藤原氏のみならず足利将軍家などからも崇敬を受けた。だが、当時北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルから文安元年(1444年)に室町幕府軍の攻撃を受けて天満宮が焼け落ちてしまい、一時衰退する(文安の麹騒動)。
天正15年(1587年)10月1日、境内において豊臣秀吉による北野大茶湯が催行された。境内西側に史跡「御土居」がある。
江戸時代には道真の御霊としての性格は薄れ、学問の神として広く信仰されるようになり、寺子屋などで当社の分霊が祀られた。
1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野神社」と改名させられる。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためである。旧称の北野天満宮の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理を脱したあとである。
『梅と牛』
北野天満宮や菅原道真は、梅および牛との関係が深い。
道真は梅をこよなく愛し、大宰府左遷の際、庭の梅に「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(現在は「春を忘るな」とされることもある)」と和歌を詠んだことや、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説ができたことから、梅が神紋となっている。そのことにちなみ境内には梅が多く植えられている。(楼門外には梅林もあり、シーズン中は有料で公開される。) 梅の花の咲く頃は受験シーズンであるので受験生やその家族の参拝がもともと多いが、加えて観梅の観光客も多く訪れる。
牛は天満宮において神使(祭神の使者)とされているが、その理由については「道真の出生年は丑年である」「亡くなったのが丑の月の丑の日である」「道真は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真を守った」「道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など多くの伝承があり、どれが真実なのか、それとも全て伝承に過ぎないのかは今となっては良くわからないものの、それらの伝承にちなみ北野天満宮には神使とされる臥牛の像が多数置かれている。伝承のうち「牛が刺客から道真を守った」というのは和気清麻呂を祭神とする護王神社の猪の伝承との関連性が強く認められる。

参考資料: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』