2013年12月20日。
《この写真を見て下さい。トイレはどこにあるでしょうか?》
ここはエチオピアの僻地、ダナキル砂漠にあるエルタ・アレ火山の麓。
どこまでも広がる荒涼とした大地。
何という解放感、爽快感!気持ちがいいもんだ。
でも、どこにいても人間である以上したくなるものがある。
それが、ウンコ。
「でも、どこでするの?」
「ははは!決まってるじゃねぇか!トイレなんかあるわけねぇだろ!そこいらでするんだよ!」
そう、こういう場所に来た時は、当然野グソということになる。そんなの旅をしていたら当たり前だ。
さ~て、んじゃ俺も一発かますか!
ブリブリブリ・・・。
見渡す限りの大平原でかましてやるウンコ。悪くねぇぜ!
おし、バッチリ出たな。さて、こいつをどうするか・・・。
僕は、自分のウンコを眺めて考えた。
「何だか、こんなにじっくり自分のウンコを見るのなんて久しぶりだな・・・。」
僕はウンコから「人生」を考えた。
今の日本はほぼ100%水洗トイレで、しかも洋式である。ウンコをした後は、サッと流してそれでお終い。
自分のウンコをじっくり眺める人なんて、普通いないだろう。
でも、ここは何もない大平原。もちろん野グソ。
野グソをすると、自分のウンコをじっくり見ざるを得ない。
僕は考えた。
「世界中の人が、毎日これをかましてんだよな・・・。」
世界の70億人が、このウンコを毎日している。そう考えたら、何だか怖くなってきた。
70億人分のウンコって、どんな量になるんだ?
いや、日本だけでいい。1億人分のウンコって、どんな量になるんだ?
僕たちは普段、ウンコをしても何も考えずにただ流してお終い。
その後どうなるの?ほとんどの人が、知ったこっちゃないって話だろう。
でも、昔は違った。
ウンコは大切な飼料であり、再利用すべきものだった。
江戸の街での糞尿の再生利用システムは、非常に行き届いていたと聞いたことがる。
きっと昔の日本人は、もっとウンコが身近にあったに違いない。
その価値もその臭いもその鬱陶しさもその素晴らしさも、もっと肌で感じていたに違いない。
ちょっと昔は、ボットン便所も多かった。
嫌でも他人のウンコを目にしたし、その臭いも感じるしかなかった。
でも、今はどうか。
バシャッと流して、はいさようなら。
文字通り、臭い物に蓋をするって感じだ。
でも僕たちは人間である。
生きている限り、必ずウンコをし続ける。
どんなにカッコイイ奴だって可愛い女の子だって善人だって悪人だって、みんな必ずウンコをする。
ウンコをしない人間なんていない。
僕は、ウンコを見つめて考えた。
「こいつに蓋をしちゃいけないんじゃないかな・・・。」
ウンコは臭いし汚い。そりゃそうだ。
でも、誰もがするもの。ウンコなしの人生なんて有り得ない。
だけど今の日本は、ウンコの存在が消えかけている気がする。
別にみんながみんなウンコの研究をしろってわけじゃないし、ウンコがない清潔な街ってのは素晴らしい。
別にウンコまみれの街がいいなんてことはもちろんない。衛生的な日本の街はホントに素晴らしい。
でも、人間である以上死ぬまでお付き合いするウンコがどうなって処理されていくのかって、もっと知らなければいけない気がする。特に、日本人は。
僕たちは、臭い物に蓋をしちゃいけない気がする。
ウンコと直接繋がるのかどうかは分からないけど、日本人って、どうもやっぱり「臭い物に蓋をする」精神が強い気がする。
臭い物とか痛いこととかきついこととか辛いこととか、ちょっとマイナスでネガティブなものに、もっと日本人は逃げずに向き合わなければいけない気がする。
そういうマイナスでネガティブなものから完全に逃れることは出来ないんだし、それがあっての人生なんだから。
全てのものに正面から向き合い、それを受け入れ、蓋をせず、人生を生きていく。
そういう姿勢が必要なんじゃないかって思う。
目を背けたくなるような現実があってこその世の中であり、その中で僕たちは生きている。
それを僕たちは、もっと知らなければいけないと思う。
荒野に放たれた僕のウンコ。
僕はササッと砂をかけた。あとは大地に還っていくのだろう。
たかがウンコ、されどウンコ。
今日はウンコが、僕に「人生」を考えさせてくれた。
我以外皆師。ウンコだって大事な先生だ。
今日はどうもありがとう、ウンコ先生(笑)!エチオピアのウンコ先生、また会う日まで~!
2013年12月20日。遥かなるエルタ・アレ火山を臨む、麓のベースキャンプにて。
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