学生の本分は勉強とは言われるものの、アルバイトをしなければ一人暮らしは出来ない。
現在、大学3年生の私は、フランス料理屋でアルバイトをさせてもらっている。
そこは「フランス料理」という名だけで想像できるような堅苦しい高級感は全くなく、
むしろ、そこの店長と気さえあえばどこのお店よりも気軽に割安においしいフランス料理が
食べれるようなところだ。
そこに入ってから半年が過ぎた。
店長のことをバイトさんたちはムッシュと呼ぶ。
ムッシュは50代に入ったばかりの明るく気のいいおやじさんだ。
そのムッシュ一人で料理の1から10まですべて自分でしている。
買い出しから、注文、仕込み、そして、調理。
そのすべてを一人で全部している彼は毎日ひーひー言っている。
だけれども、それもそのはずで、よく一人であれだけの仕事を
朝から晩まで週6日よくやりますわ、と頭が上がらない。
今日は風邪をこじらせていたせいもあって、久しぶりの出勤であった。
お店の営業時間はランチとディナーとの二つに分かれていて、
私のような学生は夜、つまりはディナーの方中心に入っている。
今日のような週末の日の夜はバイトさん二人入れる形になっているので、
私ともう一人、30歳になるお姉さんも一緒だった。
大抵、予約の人数次第で忙しくなるか暇かは決まっていて、
今日は20時から2名。暇な日だった。
18時からムッシュも含め3人で、外に広がる公園の人間観察をした。
お店の出入り口が春から夏の間はオープンになり、ドアという外との隔たりがなくなる。
そのため、お店の中からは目の前に広がる大きな芝生の公園が広がって見えるのだ。
今日は土曜日ということもあるせいか家族連れが多かった。
どうも、公園で土曜の夕方に夫婦と、まだ3、4歳になるかならないかの娘にその弟、
そんな家族が芝生の上を裸足で駆け回る姿を眺めていると、どうしても平和だと、幸せだと思わずにいられない。
それは、その家族たちが、というよりも、私自身がだ。
その風景を眺めながら、口元を緩めているこの自分自身が平和で幸せそのものなのだ。
なんて、単純明快。私はそういう風景さえ眺めていたら、幸せだ、と思えるのだから。
けど、自分で言うのもなんだが、こういう単純さは必要ではないかと思えてならない。
私が思うに、幸せだと感じるのはいつだって一時、であり、一瞬、である、のではないかと思う。
たまに、いま私とってもハッピーだーと思うときがある。
もしかすると、私だけかもしれないが、まぁそれはどうだっていいとして。
そういう、私いまとってもハッピー、と思うことがふえたらいいなと思う。
それは私だけにとってではなく、もうみーんな、みんなにとってだ。
そういうことを考えたりする。
だがしかし、ここでもうひとつ、思うこと。
幸せだと感じるのは一瞬、一時と言ったが、幸せという存在そのものはいつだって私のすぐそばにあると思う。
例えば、誰かに対して腹が立っているとき、もちろん感情としては腹が立っているわけだから、
腹を立てることしか出来ないし、腹を立ててていいのだと思う。
だけど、ちょっと考えてみると、腹を立て、そのことでしか頭がいっぱいになってたとすると、
それってとってもすごいことで、そこまで自分の感情を揺さぶるものに自分が出会っていて、
真っ向からその感情をぶつけることが可能な相手が存在していること。
存在してる上にまた会うことができる必然性が高いこと。
まぁ、ここまで理屈的にねりねり言うものでもないと思うのですが。
けど、それも裏を返せば幸せなことだと言い兼ねない。と思う。
去年の秋に私の最後の一人のおじいちゃんが亡くなった。
そのとき、私はとってもかなしかったし、さみしかったけど、
それと同時にとても幸せを感じた。
なぜなら、私の家族、父に母、おばあちゃんに、それと兄たち。
彼ら全員の存在の大きさ、彼らが私に向ける笑顔やことばたち。
そんなものをとっても愛おしく感じた。
おじいちゃんの死は、家族みんなのかなしみと同時に愛おしさや幸せさをもたらした。
言いたいのは、どこにでも幸せはあるのだと思う。
それを感じるかどうかは自分次第であると思うけれど。
けど、こういうことを言えるのは私が日本という一見平和な国に生まれたから言えていることなのだろうか。
もし私が難民だったら?
もし私が紛争まっただ中の人だったら?
もし私が家庭内暴力にあっている人だったら?
もし私が家族や友達、恋人、などの大切な人たちがこの世界に誰一人いない人だったら?
同じことが言えただろうか。
それでも、幸せという存在はすぐそばにあって、感じるのは自分次第と言われて、
そうだね、なんて頷くことが出来るだろうか。
それは、わからない。わからない、としか、言えない。
私、と言っているこの自分はだって、日本人として生まれ、
あたたかい家族のもとに生まれ、そんな私だからこそ言えたことばで
他で生まれた私はもう’’私’’でないから。
つまり、もうこの、いま’’私’’と言っている私でいることそのことが幸せであるかな。
うちの父親はそんなことを言っていたかな。
この身体、こころ、すべてを含めて、これが私です、と言えている、言ってしまっている、ことこそが、
すごいこと、すばらしいことだ、と。
だから、「私は映画を観るのが好きです。」の「私は~」と言っている、ことこそがすごいことなんだって。
こういう話をいっぱい聞かされてきた私。
そんな私でよかったな、うれしいな、と思うのでした。
なんて、まとまりのない話だろう。
自分でもびっくりした。
うーん。なんだかなぁ。
まだ自分でももうちょっと考え直す必要がある気がします。
それにとうとのブログにもとべるみたい。
よかったよかった。