過去何度も我の此のブログで訴えて来たことで在るが、当時覇権国家であった欧米の国々が、「日本を亜細亜全土植民地化の一助に利用」し様として幕藩体制に不満を持つ朝鮮下士等下層武士や被差別階級を使って「明治維新」は為されたものである。
西郷隆盛と大久保利通は隣組の幼馴染では無い。高麗町という地名は、島津義弘が慶長の役(1598年終結)で連れてきた朝鮮人達を此の地に住まわせた事に由来する。その後朝鮮人達朝鮮人男女43名は1663年と同9年に日置郡伊集院郷苗代河村(現在の日置市東市来町美山)へ移されたが、高麗町に住んで居た総ての朝鮮人が移された訳では無いだろ。
大久保利通の父利世は1842年迄高麗町に住んでいた。子である大久保利通は1830年9月26日の生まれであるから。利通は12歳に成る迄この地で育ち、此の時、西郷隆盛は15歳であった。薩摩藩も15歳で元服と成れば、屡く言われる隆盛と利通の幼馴染は嘘である。隆盛が薩摩藩で約付け(今流で言えば政務所官吏)と成ったのは、17歳の時である。詰まり、隆盛と利通は実年齢差以上の武士の子としての年齢差が在ったので一緒にの山を駆け巡る様な機会は無かったのだ。以前読んだものに、利世の妻、即ち利通の母の父、詰まり利通の母方の祖父は皆吉鳳徳という医者の家系であったが、島津斉彬も一目置く人物で、日本最初の西洋式帆船「尹呂波丸」を建造した人物であった。下級武士である利通が後に人を介して島津久光に近付き、御小納戸役に抜擢され藩政に参与出来たのも存外此の祖父皆吉鳳徳の雄名の為せる業だったと推測出来る。
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