先ず以下に、川端康成について書かれた朝鮮新報の記事を照会する。
朝鮮新報
〈歴史×状況×言葉 朝鮮植民地支配100年と日本文学〉
第21回 川端康成
崔承喜に見た、反逆や憤怒、革命(2012-01-20 12:21:42 )
「昨年は崔承喜の生誕100周年で、朝鮮、日本各地でも行事や舞踊公演が相次いだ。これらにちなんで今回は崔承喜を絶賛した川端康成について書こうと思う。
崔承喜が東京にて第一回目の発表会を成功させた1934年の暮れに川端は「朝鮮舞姫崔承喜論」を書く(思えば同時期に書かれた代表作「雪国」の主人公島村も舞踊批評家だった)。崔承喜を「和製・国産」のスターとして、あくまで日本の「近代」によって朝鮮の伝統を創造的に復活させたというのが日本人の評価のほとんどで、川端も彼女の舞踊を「日本一」としながらも、そこに「いちじるしい民族の匂い」を強調してもいた。「民族」への注目は、単に異国趣味や審美的なディレッタントのそれとは言い切れぬ視線を含んでいたと思われる。
およそ10年前の1925年、新感覚派の新進作家としてデビュー間もない頃の川端は、「朝鮮人」(後「海」と改題)という掌編を書いていた。その出だし「七月の白い山路を朝鮮人の一隊が移住して行く。海が見え出した頃にはもう皆が可成り疲れてゐた。/彼等は山を越える路を作つた。七十人ばかりの土方が三年働くと新しい路が峠まで開けた。」―1925年に渡日した朝鮮人の数は、1920年の約3万人から5年間で13万3千人へとはね上がっていた。20年代の「産米増殖計画」を背景に土地を追われ、日本独占資本の要請から格安の労働力として多くの朝鮮人が日本へ渡り辛い底辺の労働に従事した。作品はいち早くそうした朝鮮人の姿を書きこんでいたのである。
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「海が見えると一六七の娘が顔を紙のやうに白くしてへたばつてしまった」。主人公の娘はもう歩けない、としゃがみこみおそらくは故郷へと連れて帰ってくれる誰かを待ち続ける。行き過ぎる同胞たち。最後に若い男が声をかける。「俺が抱いて行つてやる。俺と夫婦になれ」「いやです。―父が言つた。俺が死んだ土の上で結婚するな。内地に来てゐる奴のお嫁になるな。朝鮮へ帰つてお嫁に行け」。異国の地でおそらく過酷な境遇故に悲惨な死を遂げた父。娘にとって父とは民族的な心であり、帰るべき故郷そのものだ。
一方、同胞とつるまない一匹狼の男は、「ふん。だからお前の父はあんな死ざまだ」と吐き捨てる。移住の先々で自分の世話をする女を手に入れ、望郷心はおろか民族的反骨心を逆なでするかのような代詞。ただ目先の欲望のまま「内地」という現実の中で荒々しく生き抜いていくタイプだ。「ほんとにもう一人も来ない」「さうよ。だから俺の言うことを聞け」……「ほんとにもう一人も来ない」「うるさいな」反復し増幅される帰郷への哀切な問いはついに断たれる。作品は娘の次のあきらめの台詞で閉じられている――「私に海が見えないやうにして連れて行つてね」。
父=故郷を否応なく思い出させ、だがその絶望的な隔たりゆえにもはや見たくない「海」。作品は、故国から隔てられ、消極的にも積極的にも、日本という現実を生きねばならない今日の朝鮮人の姿をもだぶらせる。
川端が崔承喜に見出した「民族の匂い」には、異郷と故郷のはざまでアンビバレンスを生きねばならない朝鮮人の悲哀へのまなざしが含まれていたのではないか。そして戦後、朝鮮戦争の只中で書かれた長編「舞姫」において、川端は再び崔承喜に思いを馳せる。
「朝鮮の崔承喜は、どうしているんでしょうね。……あの人も、革命の子ね。朝鮮の戦争が起こる前に、北鮮へ行っていたというから、革命の親かもしれないわ」
政治的な発言や行動とは縁遠い作家だったが、戦後日本が再びの戦争として直視してしかるべきだった朝鮮戦争のさなか、かの「朝鮮の舞姫」を朝鮮の「革命」と重ねていた視線は注目されてよい。
「おどろいたものよ。朝鮮民族の反逆や憤怒が、無言の踊りに感じられてね。どもるような、あがくような、荒けずりで、激しい踊りでね」「民族ということを、崔承喜は深く感じていたのよ」
奇しくも「舞姫」発表と同年の1952年、「朝鮮人」は「海」と改題された。そこには、海の向こうで戦火を戦い抜く崔承喜へのあてどない思いも込められていたのだろうか。(李英哲・朝鮮大学校外国学部准教授)」
※ 崔 承喜、以下Wikiより
1911年11月24日 - 1969年8月8日?)は、第二次世界大戦前、戦中に活躍した舞踏家。戦後北朝鮮へ渡る。兄は作家崔承一、夫は北朝鮮文化省次官を務めた政治家の安漠、娘は同じく舞踏家の安聖姫。以下、
>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%94%E6%89%BF%E5%96%9C
を参照されたい。
さて、朝鮮日報の記事であるが、「崔承喜を「和製・国産」のスターとして、あくまで日本の「近代」によって朝鮮の伝統を創造的に復活させたというのが日本人の評価のほとんどで、川端も彼女の舞踊を「日本一」としながらも、そこに「いちじるしい民族の匂い」を強調してもいた。「民族」への注目は、単に異国趣味や審美的なディレッタントのそれとは言い切れぬ視線を含んでいたと思われる。 」と言う一節は、朝鮮人としての民族意識を感じるものである。
更に、「「七月の白い山路を朝鮮人の一隊が移住して行く。海が見え出した頃にはもう皆が可成り疲れてゐた。/彼等は山を越える路を作つた。七十人ばかりの土方が三年働くと新しい路が峠まで開けた。」」と言う一節には、朝鮮半島から朝鮮人が日本に海を渡って行く迄の道程が詳しく描写されているようだ。川端の経歴には、朝鮮半島で暮らしたと言う経歴は取分け知ることが無い。更に、何故か朝鮮人のことを「同胞」と言う言葉で幾度も書いている。日本人なら、「朝鮮人」と素直に表現するところである。
川端の実家は笹川良一の実家と近所であって、川端が亡くなって以降、笹川は未だ川端の奥さんが存命の時、幼馴染の川端家を訪れ旧交を懐かしんでいる。笹川は、朝鮮人の疑いの濃い人物である。
以上を絡み併せると、日本の敗戦が尾を引いて此処まで此の日本で日本民族が虐げられた無念を三島はあの統合本部の決起で日本民族に訴え掛け、奮起を促したものと考えるのも強ち穿ったものとは言い切れまい!
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