魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第七巻 「三、 祖宗の法は不十分である」~「四、言い分には考慮が足り無い」】

2017-04-10 15:31:07 | 魂魄の宰相の連載

※ 以下、校正はして居無いので、誤字脱字、事実関係に誤りを見付けたらご一報下さい。

魂魄の宰相 第七巻

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三、 祖宗の法は不十分である

  伝統の儒家の観念の中にあって、継承が永遠に第一位であって、古代では尚更で、「三年は父の道を直してはいけ無い」は枉げられないとしたが、父の生き様が正しいか如何かとなると、余りにも古を由とし過ぎた為、深く議論することを避けていたので、古くからある習慣が価値観として定着されて仕舞って、王安石が法律(制度)を変えるに中っても絶対に「『先王の道』」の一枚看板を外すことが出来無かったのだ。

 継承が何故重んじられたかと言うと、太古の御世では国民が持つ文化と知識が未開であった為に、科学も進んで無く、知恵も活用される迄に至って無かったので、経験を積むことが最も重要とならざるを得ず、年配者の知恵に頼る以外無く、本当に重要な知恵と知識を尊重することとせず、年輩の人が尊重され権威をも与えられたことで、継承が重んじられることに為ったのだ。併し、継承の合理性が偏った考えに基づくものだったので、知識と能力が格段と活用されるようになった後世では、年齢を重ねた者がより知恵を持つとは限らず、革新の重要性が次第に継承を上回って来たのであったが、このような情況の下では、最早継承を偏って尊重することは通用し無く為ったのだ。

 けれども一旦定着した習慣を変えることは大変難しい上に、中国社会は特別慣習を重んじるので、情況の変化を無視して頑なに古い仕来りに拘るのは中国では笑えない事実で、圧倒的多数の総ての人が前もって良いことだと分かっていたとしても、何処に落とし穴があろうかと心配して二の足を踏むのだ。宋代に至っても、最善とされて来た伝統は、古を超えようとしても全く打ち破れず、甚だしきに至っては古が今日を分析する為の価値判断の基準とされたのだ。王安石は初めて政務に参じたとき、朝廷に鎮座する者達が明確な理念に欠けていたことに腹が立って、ある日切実に曰く:「君等は本を読まず耳をも貸さず」。諸侯が学術に疎いのは当然で、読書も足りず、努力していないからだと言うと、思いがけず趙抃が曰く:「君は間違っている。例えば皐、夔、五穀の神、契の時代について、読むことが出来るどんな本があったのか?」 意味は上古の時代の、五穀の神、契などの聖人などの時代には書なぞ無いので、王安石が言ったことは取り入れるに足らず。この逸話は《邵氏聞見后録》二十巻に出ていたもので、真偽は確かで無いが、邵氏の真意は王安石が他人を全く眼中に置か無いことを明らかにした出来事だと言って、同列の君等を軽視していたのを、趙抃によって鼻柱を折れたのだ。趙抃は筋が通っていて、古きに戻れば戻る程良いので、古人が譬え本を読んで無いとしても、努力して本を読む後代の人より確りしていたのだ。

 保守派は心中で、祖宗の法律は変えるべきで無く、祖宗の法律を変更するのは罪に等しく、根底がひっくり返って仕舞うので変えてはなら無いのだと考えていた。司馬光は甚だしきに至っては変われば変わる程後退して仕舞い、変われば変わる程国が滅びて仕舞うと言う不思議な論調を広く喧伝していたのだが、重要なのは謹んで「祖宗が定めた法律」を守ることで、「今後も代々守って、変わらせてはなら無いのだ」と決め付けた。無論所謂祖宗の法を変えることが出来るか如何かということについては、観念上で守る意思以外に、保守派が何故祖宗の法を変えてはならぬと主張したかというと、彼の輩が重く捉えていたことが、利益を貪る利己的な思いがあったからで、最も重要なのはその時の法制が彼らのこの階層について最も有利な為だったのだが、彼らの勢力が一旦不利な立場になると、彼らは臆面も無く直ぐに祖宗の既定の法律を直す口実を探すことも出来、二度と祖宗の法が変えるべきで無い等と言は無くなったのだ。

 王安石は、保守派が所謂「三つの不足」と言い出した意味を分かっていたのだが、これは一石二鳥を狙うもので、一方で攻撃して、一方で阻んで脅して、改革派を進退極まらせるもので、若しも保守派が無理に押しつけた「三つ恐れ」の罪を認めたならば、天下の大悪を敢えて犯すことに為って仕舞うので、法律(制度)を変えることが出来無くなるので、如何しても恐れを為し、如何しても能動的で無くなって、この三つに強制され縛り付けられ、改が足並み揃えて進むのを阻まれるので、この三つの基本原則の枠の中で如何にして大いに遣り甲斐をもってことを為せようか?

 司馬光は法律(制度)を変えることに反対する面では何と惟一人はっきりした立場で政治家としての策略を表した人物で、煕寧三年試験を主宰した時『科挙の試験科目』の中に序として、彼はこの三つの問題を出すことにしたのだ:

 今此のことを議論する者いて曰く:「食料が足りず、動揺して気持ちが昂ぶっても、自然と人とには関連が無く、全て常にあることで、恐れるに足り無い。祖宗の法が、最善なものとは言わ無いが、従って守るに然り、改革は改めるべきであり、固執する必要は無い。普通の人の感覚としては、規律を厳しく守った方が安心で、変化は憚れるので、楽にことを成そうとしても、難しくてびくびくし始めるのだ。色々な意見も入り乱れ、方針も纏められない」。人の感情も古今で異なるので、《詩》や《書》などは過ぎ去った事柄として全く信奉出来無いものなのか? 聖人の言い分は微に細にわたり高遠で奥深いということを非凡な人なら分かるのに、先儒の解釈も若しかして其趣旨を得ていないとでも言うのか? 聞く耳をもって見識を持たれたい。

 司馬光は、表面上は三つの問題の論争を人に譲る態度を示していたが、その実人知れず事前に解答を用意していて、誰かが大胆にも「《詩》、《書》などの六経には信じられない過去の出来事が載せてある」と言ったことに対して、「誰かが『聖人の言い分は奥深く微細にわたり高遠だ』ということを承認しないことが、勇気があると言えるのか?」と直ぐ反論出来たのだ。司馬光は、実は今回(其の当時の)の科挙の試験科目に託けて法律(制度)を変えることに反対したのだ。神集は愚かでは無くて、司馬光の意図を見抜いていて、「出る芽を摘んではいけない」と下命し、それから王安石と対策を相談したのだ。神宗は司馬光が総括した「三つの不足」と言う説を直接世間に公言したことに対して非常に反感を持って憤慨して、このことは朝廷に対する中傷だと思って、道理として「朝廷は未だ嘗てこんな目にあったことがあろうか」? 王安石は更に根が深い意味を含むと察し、「三つの不足」のいずれも承認するか否定するのかに関わらず、保守派に有利に成ることを分かっていて、そのことが分からず決めると中途半端に承認することになって仕舞うので、そこである意味で賢明な折衷の態度を採ったのだ。

 王安石は「三つの不足」との違いに対応したのだが、此の考えが神宗の本音に添ったものだったので、彼は公然とは反発出来無かった筈だが、実際は極力彼の思いを広く喧伝したのだ; 言い分に惑わされはしないが、方や皇帝が仰る言葉は最大限尊重されなければならないとしても、対して『世俗の慣習』として言われていることは訊き入れるに足り無いと言ったのだ; 『祖宗の法との違い』については、はっきりと認め、彼は次のように指摘したのだ:「『祖宗の法との違い』に手を加え無いという事に為ると、天変があっても為す術が無いので、断固として手を着けることにしたのだ。然も仁宗の四十年在位中、凡そ数回は詔を改めていたのだ; 若し子孫代々に法は変えるもので無く其の儘にして置くことを『由』としろとするならば、祖宗は何で幾度も法を変えたのか?」

 王安石は、「三つの不足」の中で、最も重要なのはどのように祖宗の法に対応するかが分かっていて、詰り肝心な点を合理的に法律(制度) に拠って変えて行くことに尽きるのだとした; 司馬光が「古今で共通して言えることは、聖人の言と雖も万世に通じる不変の真理として総括されるものでは無い」と、政治的に慎重に発言したことに拠っても、王安石や司馬光などの優れた人は大体同様の見解であることが分るのだが、惜しむらくは二人の立場は完全に相反していたのだ。

 王安石は祖宗の法では対応出来無いと明白に指摘し続け、変法の必要を世間に訴えることで大いに世論を作ろうとしたのだが、この為には一切の動揺も曖昧さも許されず、そうで無ければ保守派に付込まれて仕舞うのだ。王安石が考えた法制が、古、今、中、外と比べて合理的な不足があるかどうかの検証は、主にその現実的な効果に焦点を合わせ、国家が富み栄えるものかどうかを判断しなければ為らず、もし財が十分にあって国勢を強化に使えるならば、法制は整備されていることになるのであって、現状を見れば、法制の整備は為されて無く、祖宗の法は改められなければ為らないとしたのだ。

 「祖宗の法は守るに足らず」を説明する為、王安石は保守派が大いに尊重した仁宗を挙げることが多く、その理由は仁宗が嘗て「幾度か詔を改めた」ことで、彼は自身で矛盾を広げたからだ。ここでは実は王安石が概念のすり替えを行ったので、仁宗の改正は一寸した手直しを行っただけで、百歩譲っても単なる改正で、保守派も耐ええる範囲のもので、王安石のような保守派も耐えることが出来無い根こそぎの変革とは大違いで、変わると言うことでは同じでも、変わる程度、方式、目的、効果は全く違っていたのだが、この様な論争を通して保守派の口封じを狙っていたのだ。

 「祖宗の法は守るに足らず」は、変法を前進させる或いは亦思想上の一大改革への大いなる青信号と為ったのだ。この標語は儒家の古くさい伝統的観念にとっては或る種力強い衝撃で、時の前後で価値判断の古い模式に取って代わるという古今の論の是非をも突破する為の宣言で、受け継ぐものと新機軸を打ち出すこととの関係により合理的な弁証法的な態度を採って、革新の意義を強調したのだ。この標語はある面では加速度的に歴史を前進させようと進歩的な歴史観の発生を公言したものであったのだが、其の歴史観とは「永遠に不変なものは無く、後退りしてはなら無い」と言うものだが、王安石がこの歴史観の創始者だと言うがことは出来ないまでも、少なくとも彼が歴史的発展を指導した大政治家であったと言うことに疑う余地が無いのだ。

 王安石は、祖宗の法の中での不合理を改革するだけでは無く完全に合理的なものへして行く改革は、後に続く者達の受けるべき責任だと思っていた。只(皇帝を)踏襲した者が、表面上では祖宗の成憲を尊重していても、粗略にして全く為す術も知ら無い不肖の後継者であるならば、祖宗の事業は全く光彩を放つことが出来ずに、祖宗の名も上げることは出来無いのだ。亦、若しも創業の家業(事業)を盛り立てて行くことだけを目標とするならば、創業の家業(事業)を盛り立てることすら出来ずに、目に見えて後れて行くことに成って仕舞うのだ。

 王安石は只管、理に適うか否かを重んじ、権威と祖宗に対しては決して最後まで従う姿勢を見せ無かった。彼と神宗が歴代の政務の得失を討論する時、彼が太宗、真宗、仁宗などの歴代の皇帝のことを避ける事無く頻繁に批判したにも関らず、神宗は彼を怪しむことは無かった。実は此のことは理に適っていて、そんな大きな危険を冒せたのは、神宗が王安石からの特別の贈り物の恩に会っても一生改め無いような器量の無い暗君で、猜疑も強いとは全く思って無かったからであったのだが、あの輩の居る保守派は往々にして「仁宗を蔑視した」ことは罪で、そのことで彼を事ある毎に攻撃したのだ。王安石の性格は剛直で、その弟子の陸によって書き留められた小作には、往々にして神宗とお互い厳しい口調で言い争って、神宗は其の度に安石の容姿のだらしなさや礼を失する姿勢を詰っていたと記されていたのだ。これは元々王安石が只管道義と真理のみを尊重したので、高爵や貴族達など尊重せず、屈服し無い不屈の精神の体現であったのだが、それなのに多く後世の無能な学者達は彼を謗って、「君すら尊ぶことが無かった」とするこの上無い罪を彼に被せたのだ。実は王安石は神宗を尊ぶこと無く、先帝をも軽蔑していたのでは決して無く、彼はこのように相手の面目も顧みず率直に戒められたのは、自身の利害に関係無く、国家利益の為だけを思い、後世の人々の利益の為にと、即ち宋室と国家の為と考えての行動していたのだ。

 王安石がこのように祖宗の権威を重く無いとしたことが、革新と発展の思想が彼にあったことを浮き彫りにしていたのだ。

 孟子の「財産や地位に惑わされず、貧賎を改めず、権威や武力でも屈服され得無い」の影響もあったろうが、更に強く影響を与えたのは仏教で、儒家が伝統を重視し過ぎた為、譬え孟子であっても「祖宗の法は守るに足らず」に対する弁明を完全にすることは出来無いだろう。

 仏教は個性を特に重んじたのだが、取り分け禅宗は特別であった。禅宗は、実際には決して祖先を尊重しなかったのでは無く、仏教徒が祖先を罵るのを叱っていた程で、只世にある個人崇拝とその権威とを捨て切ることを明確にしただけで、本来、自分自身の根源的な本質を明らかにし、真っ直ぐ自己を見つめ直して鍛錬することを本旨としていたのだ。そこで禅宗が更に重視したのは、継承の中で新機軸を打ち出すことで、盲目的に古人に追随するのでは無く、極端に言えば公然と弟子が先生を上回るようにと説いて、「師を越えて祖先を超えて」と言うことに合致するように説得し、そうでなければ継承者になる資格が無いとしたのだ。《古尊宿語録》一巻によると:

 

 ある日師(懐海)が衆に言ったことはこうだ:「仏法(の力)は小なものでは無く、老僧が昔馬大師に一喝されると、三日間全くの聴覚障害となった」。黄蘗は喝を聞いて、不覚にも気を失ったと聞いて驚いた。師曰く:「子は馬祖を継承したく無いのだろうか?」 蘗曰く:「そう考えもしたのだが、今日和尚が言った言葉で、馬祖を知ら無いうちに、馬祖に重用される大きい機会を得たことに為ったのだが、若し馬祖を継ぐとなれば、最早これから先私が継承する筈だった人を失うのです」。 師曰く:「ことごと左様で、師と位が一所に成るならば、師の徳が半減するだけが、師を超えて仕舞えば、継承させ無い訳にはいか無いのだ。子は全く師を越えているではないか」。 蘗は一礼を拝したのだ。

 

 白丈懐海は馬祖の直系の弟子であったが、懐海は黄蘗が最も有力な後継者となるように願っていたのだ。懐海は学徒に向かって仏法(の力)はこれ小事にあらず、容易く到達出来るものでも無いと言ったのだが、馬祖が彼に悟りを得させる為、彼は大喝の一声を浴びて、何と三日間も彼の鼓膜が振動し続けたのだ。突然の大喝を聞いて、迂闊に気を失ったのだ。懐海は「あなたは後に馬祖を受け継ぐことは無いのか」と彼に聞いたのだ。馬祖は自分の祖師であり、普通の慣わしでは、当然受け継ぐ筈だが、そうとは限ら無い答えを望むので、今日師を通じて(通って)馬祖に重用される機会を得たのだが、馬祖を知る由も無いので、もし馬祖を受け継ぐならば、今後私はもう継承者が居なく為って仕舞うのだ。若し馬祖が完全に受け入れることを望んでも如何なる革新や発展も為すことが出来無いならば、私の存在価値は亡くなって、後世の後継者も私が存在したことも知ることが無いだろう。懐海はこのことを大いに褒め称え、成程然様に確なことで、若しも弟子の力量と師の能力とが同じ程度ならば、師が人を選ぶなどいうことは出来無くなり、仏教の事業に発展は望むべくも無く成るに任せるしか無く、言うに及ばず師の徳行は半減したものと成って仕舞うだろう; 弟子の見解が師を上回って、漸く伝授の資格を得ることが出来るので、この様にしてこそ後の世代の才能が前の世代に勝っていることに成り、仏教の事業は漸く年月と共に繁栄して発達することが出来るのだ。こうして懐海は、師を超えていると彼に言って、上述のように弟子の能力が師を上回ることが出来たので初めて良い弟子と成れたと、彼を絶賛して継承を希望したのだった。

 弟子が師を超えるように励ますようにはなったのだが、弟子が師とは異なった自分の新しい見解を必ず持たなければ為らず、其の見解は伝統の範疇に属してはならいと言う決まりもあり、このようなことは仏教に於いても恐らく漸く探し出せるものであり、儒家の伝統の中では、このようなことは師を欺き、祖先を蔑ろにすることと看做され、大逆無道で、絶対に許されることでは無く、更に励ますことを認めることなぞ全く考えられないことであったのだ。仏教の経典の歴史を王安石が熟知していたことは間違い無く、仏教と禅宗の歴史の中から、この方面での影響を吸収することに為ったと思われ、彼は勇気を出して「祖宗の法は足らず」の標語を提示することが出来、大々的な変法の推進に向えたのだ。

 

四、言い分には考慮が足り無い

 王安石は以前「三つ足らず」についての流言について神宗と討論した時次のように謂った: 「陛下は言葉を受け取る側に、人にどれ位の影響があったかを問質すこともせず、如何して言い分に耳を貸すのか? 仮初に道理に適うと雖も、その言い分が人への配慮が足り無いとすれば、言い分が十分に検証されたと言えるのか? 《伝》の『礼義を違えて無いならば、何故に言い分に配慮が要ろうか!』は、鄭荘公が『多くの人が言うのなら、尊重するに足るのだ』と言ったことに拠っていたのだが、それ故少数意見が萎縮し大きく乱れていることに、詩人が批判しているのだ; 言い分への検証が足りず、未だ勝れず」。

 王安石は一方では神宗が決して言い分に耳を貸さないということは無く、言い分を善く訊くことを認めてはいるのだが、それは皇帝の思いに沿った言葉を聴くということで、その意味で神宗は決して言い分の検証をしたことは無いのだ。然れども、王安石は人への配慮が足り無い言い分について言うのであって、肝心な点は道理に適っているかを検証することで、言い分そのものでは無いのだ。王安石の主張は道理に適っていて、道理に適わぬ人の言い分は相手にする必要は無いので、万事慣習を重んじて言い分を信じていては、何も出来ず、役立つどころか、却って害を齎すのだ。若し鄭荘公の『多くの人が言うことを尊重する』を言うならば、敢えて筋道に従って事を進めることも無く、他人の謗りに耐えられず、結局国家が大いに乱れて仕舞うのだ。このように言い分は検証されていなかったので、此の説は受け入れられていなかったのだ。

 王安石は、道理に適うことが最も重要で、道理に適うのでさえすれあれば、全て恐れるに足らずと思っていた。彼は何度もこの主張を力説し、例えば湯、武の革命を言う時、「人倫に適って天に応じた」と言うが、誰しもがこれに頷くものでは無く、若しも湯の部下が皆出兵したくないと思っても、当然彼らに情けを懸けられないので、湯は大勢の反対を顧みず、断固として戦に出ることを命令して、甚だしきに至っては刑を以って脅しをかける羽目に為っただろうが、結果として勝利を得て、天下人を救って、若しも商の湯が人の言を恐れていたなら、皆と衆議していたならば、全く勝利は得られなかったことを思うと、道理に適えさえすれば、誰もが心から願うことを求める必要は無いので、万事を人皆の願いに適うと考えては、永遠に成功することなぞ無いのだ。

 王安石は、真理は必ず少数者の手の中にあると思っていたので、彼は何度も神宗に人の言い分を余り信用しないようにと煽って、「道理で事を推し量る」を促したのだが、そうしなければ、「されども人の言い分を聴き」、 「何が天下の大計かを分っていると軽々しく言う者の言葉に気分を良くするが、其の言葉は出鱈目の意見であることが分ってがっかりするのが落ちである」。一般的な凡人の見解は道理に適わないことが多いので訊くに値せず、天下の大計を賛助することに役立たないだけで無く、逆に人心を惑わせることも在り得るのだ。

 王安石は、「人の心に響くには必ず道理が適っていなければならず、道理に適って漸く人が受け入れることになるので、極端に言えば一時的な人の多寡で見てはいけ無いのだ」と言っていた。《長編拾補》に記載がある:

 諫言の臣下が「人の心を失ってはいけ無い」と言うことを論説する舞台に上がって、安石曰く:「所謂人受けが良い者は義を重んじるとの感がある。義を重んじる者、これ人心の好むところであり、人身のみならず、自然の鬼神と雖も同じことだ。先王は自然の鬼神も不安を抱か無い者を選ぶに当たって、仮初にも理に適った動義を求めなれればなら無い。理に適って道義があったので、周公は四国皆叛いても人心を失うことが無かったのだ; 理不尽な道義に意を介さ無かった為に、本来人心を得ることが出来無い筈の間違った功徳を称える数十万人が王莽に従って仕舞ったのだ」。

 神宗は人の言うことに好く耳を貸したが、併し世間一般の風賞ばかりに耳を傾けていたので、王安石のことを諌めるような臣下の意見を取り集めて警戒し、人心が離れていくのを食い止めようとしたのだ。王安石はこれに対して真っ向から対決して、「道理に適うからと言って必ずしも人々が歓迎するとは限ら無いが、道理としては道道理に適う者が人に受け入れられ、更に又自然の鬼神にも認められるべきである」と説いた。若しも義に適ったものが此方の手の内にあるならば、譬え国を挙げて反対しようとも恐れるに足らず、人心を失うことにはなら無いだろう; もし理不尽な義ならば、譬え全国の人民が陛下を大きく讃えるとしても喜ばしくは無く、人が受け入れたというのは虚構に過ぎない。

 確かに道理に適うかどうは思想が正当なものかどうかに係るのだが、このこともある種盲目的に独断を招き易いので、如何様に道理を捉えるのが良いのかと言うことに対しては、各家や各派の基準は一様で無いのだが、彼も簡単には結論を出すことは出来無かったのだ。若し本当に道理に適えば、断固として守り通すことは正しいことではあるのだが、若しも道理に適わないものを道理に適うものと看做して仕舞ったならば、盲目的に誤りを堅持して仕舞うことに為って仕舞い、的外れの誤った道を歩むことに為るのだ。譬え真理が集中に掌握しているとしても、圧倒的多数の人の理解を得られない情況の下では、只管強権をもって推し進める結果に為り、効果が上げられるか疑問である。

 王安石は思い遣りが足り無いということを人が結論付けても、世間一般で認められた道理から言って、矛盾は感じ無かったのだ。《草稿》二百二十三巻には、王安石が道理について神宗に説諭したことが記されている:

 世俗に塗れた人は、学問なぞ端から馬鹿にしていたので、多くの者は利害の状況も分らずに、君子の立法の意味も解すこと無く、全く的外れな議論を仕掛けて来たのだ。若し人民の主が非道であると感じたならば、必ず大衆から多くを奪うと言う論拠の無い議論をふっかけて来るので、善法と雖も、如何に成立させられようか?

 世俗に塗れた人は、学問が適わず、極端に知識に不足していて、道理も弁えていないので、この様な輩の見解は訊く必要も無く、耳を貸すことが却ってことを複雑にして仕舞うのだ。

 保守派を代表する司馬光の「王安石には重い罪がある」と言う箴言を黙殺したと言われているが、王安石は本当にその箴言を無視したのか?《宋史陸佃伝》には、彼が進言をも黙殺したということが人伝に聞こえて来た其の時、陸佃が王安石に向って問い質したので、王安石はそれに応えて:「吾が箴言を黙殺したのは何故かと言われているが、邪説の群団の意見など、全く聞く必要は無い!」 王安石は世俗に塗れた輩の無益な意見など訊くに値し無いとして、全く訊く耳を持たなかったのだ!

 王安石が新法を制定して推進する際はとても慎重で、出来るだけ民衆の意見を考慮したのだ。免役法を例にとれば、二年もの議論を重ねて制定し、広範に各方面の意見を聴取したのだ。《長編》二百二十四巻には、神宗と王安石とは民事を重視することについて討論した時のことが記されていて、神宗が「民事については引き伸ばすべきで無い」としたが、「慣習を改めることは絶対にするべきで無い」と述べたことに対し、王安石が応えて曰く:「農業と民事とを苦しめて来た徭役のことをさておいて、如何して、慣習だけを改める必要が無いなどと言われるのか? 慣習を改めることに、陛下が異論を抑えることが出来無いならば、誰が陛下の為に全力を尽くしましょうか? 良い結果を齎そうと、一年近く辛苦を重ね協議して、量刑や監獄のことについても細かく調べ上げ、州県の在り方について庶民の意見を徴集し、一人として異論を挿む者が出無い様にと、法の在り方についても積極的に庶民に説得して来て、漸く法令を造り始められるように為ったのです。それ正しく民事が軽く無いと言う証明ではありませんか」。王安石が一方では皇帝に「異なる説を混合して議論してはなりません」と忠告し、一方では亦「本音を庶民から聞き出した」ことを力説し、何が何でも「異論を挿む者が一人として出無い」ようにして、初めて施行出来るのだとし、後続の法令を施行するに当っては、以前に施行した法令が「人民に異論が出無い」ようにやり遂げてこそ、実施出来るのだとしたのだ。新法総てが本当に「人民の異議が出て無かった」ということで、やり遂げられたか如何かは別にして、こうした目標を置いたことが、庶民の意見の重視と人心に対する十分な配慮が為されたことは間違い無かったのだ。

 保守派の彼に対する攻撃の中からも王安石は決して「大衆に背いて個人を利する」もので無いことは事実と捉えられていたので、広範に各方面から意見を聴取することが出来たのだ。併し、劉摯の如くは、ものの道理も弁えずに、王安石を弾劾する為の上奏文の中で、存外にも「市井の人からの意見を取り入れれば朝議が滅びる」と政務に関する議論を掲げたのは、彼らからすると此の王安石の仕業は一種の罪を為すと言いたかったので、而も共々王安石の「戒めを拒む」ことをも非難して、「拘りを改めもっと謙虚で寛容さを持つように」と戒めた積りであったのだ。

 王安石が配慮しなかったのは、結局「世俗の言葉」にか其れとも所謂「公論」に対してだったのか、結論は双方に真二つに割れたのだ。保守派は「公論を貶し世俗に塗れている」と本来自分達がしていたことを逆手にとって王安石を攻撃して、逆に自らの言葉こそ『公論』としたのだが、一方、王安石も保守派の言論を『異論』、『邪説』或いは『世俗の言葉』と決め付け、双方の言い分には大きな違いがあったので、故に結論は水火の勢いに拠って決すしか無かった。往きつくところは、王安石が蔑視したのは「世俗の言葉」だったのかそれとも「公論」だったの?

 この問題に答えるに就いては、矢張り双方の言い分を訊いてみなければなら無い。変法を進めれば、士大夫の階層はいくつかの不利益を蒙るので、全ての士大夫と豪商や地主の属する社会である上層にあっては、変法の声が一時期主流を占めてきたことに危機感を覚えたので、社会の上層全体にとっては、反対派の声を『公論』と看做したことで、保守派が彼らにとっての『公論』を無視した王安石らを攻撃したのは当然の成り行きだったのだ。保守派にとって、王安石は「階級の異端児」と看做され、如何して自分が属する階級の利益と叫びに配慮せずに彼が裏切れるのかということを理解出来ずに、「捻くれ者」とか、「意地っ張り」などと彼を罵ることしか出来無かったのだ。実は王安石は彼らが思いも付か無い程深遠で、彼が配慮したことは『国家全体の長期の利益』で、此の為に「暫くは上層の階級の利益一点を犠牲にして、下層の家に少しずつ利益を配分して貧困を無くす」とは考えず、全体的な局面を考慮して、「圧倒的に人口比率が高い下層の家の利益を上げるように考えて、より完全なものにすべき」と言うことであったので、それに対した保守派の所謂「公論」などは、名目ばかりで、実質も無くて、公正では無くて、主流とか多数とかをも代表するものでも無かったのだ。故に保守派が根本的に誤っていたかを検証すると、彼らの階級の立場を配慮した狭い考えに終始し、彼らの心中には下層部の人民の立場を尊重する気なぞ端から無かったことからして、彼らの意見は聴取する必要は無いとしたのは正しく、本当は「世間一般に通用する発言」などとは到底言え無いものであったのだ。社会の下層部には発言権が無い為に、代弁者に不足して、彼らの声は上に届かず、そこで少数の代表の「異論」が、それぞれの「公論」だと主張されたのだが、それにも増して前述して来たように王安石は慧眼に極まり偉大であって、気丈な個性でもって、下部の状況を気遣って大政治家が俗習と奮戦することを自分の務めにしたことで漸くことを為していたのであり、最終的には成功しなかったとは言え、その精神と勇気は全く忘れ難く敬服に値するものである。

 王安石は困難と危険を恐れず、艱難辛苦も避けること無く、圧力も撥ね付け、「必や天下で奮戦しなければならない輩(世俗を受け継ぐ輩)とは、勝敗を決す」と意を決し、何ものをも恐れ無い英雄的な気概に裏打ちされた彼の強靱な個性、強固な信念などは比類無き人格の魅力と看做され、後代に措いても永遠に人が見習って敬い慕い続けられることになるだろう。


  「魂魄の宰相 第八巻」に続く


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