維新とは「総てが改まって新しく成ることで、特に、政治や社会の革新」のことを言うが、「『維これ新なり』の意」であり、語源は「詩経」大雅(〔「雅」は正の意〕 「詩経」の分類の一。「小雅」とともに「雅」を構成し、周王朝の儀式・祭祀さいし・宴会で歌われた歌三一編を収める。 → 六義りくぎ 大辞林 第三版)の文王から「維(こ)れ新(あらた)なり」の意》である。
余談だが、魚拓として
「改元前後から「朝政一新」「天下一新」「百事一新」など「(御)一新」が主流のようで、
改元直後には「明治維新」の用例は見当たらず、明治政府等が積極的に
「明治維新」「維新」の用語を使用したかも定かではありませんので、
「いつ頃」のみカキコミさせていただきます。
◆国立公文書館アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
上記にて「明治維新」を検索すると186件ヒット。
そのうち、早い時期の使用例としては
内容から明治9年8月24日以降に作成された文書のようです。
◇No.130 件名「明治八年江華島事件善後處置
日米間難破舩救助費償還條約/1明治八年江華島事件」
外務省外交史料館>外務省記録>1門 政治>1類 帝国外交>2項 亜細亜>
対韓政策関係雑纂/明治八年朝鮮江華島事件
上記を<DjVu>又は<JPEG>で画像閲覧すると、
<1/2>右頁8行目に「明治維新」の記載があります。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006092114011480266&
(※なお<Djvu>画像を閲覧する際には、Djvuビューアー<プラグイン>が必要となります)
186件の中、一覧リストだけで年代が明らかな使用例に限れば、
明治30年代から増加傾向にあるようです。
また、上記と同様に「御一新」を検索すると226件ヒット。
226件の中、一覧リストだけで年代が明らかな使用例に限れば、
慶應4年&明治元年が109件と突出していて、後は逓減傾向にあるようです。
これだけでは、限られた公文書内でのお話に過ぎませんので、
◆近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
上記で「明治維新」にて検索したところ
(※一部URL省略)
◇『大政三遷史/小中村義象著/吉川半七/明治21.11』
「第三篇○明治維新」(63頁)<44/62>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769905/44
◇『庄内史/藤山豊著/鈴木喜八/明治26.1』「第十七章 明治維新」(114頁)<65/156>
◇『札幌農學校/札幌農學校學藝會編/裳華房/明治31.9』(20頁)<33/88>
「第二章 札幌農学校の過去 第一節 明治維新と北海道の開拓」
◇『初等帝国史/横山達三編/大日本圖書株式會社/明治32.4』
「第五篇 江戸幕府創立より明治維新に至る」(222頁)<122/171>
◇『国史教科書 下/有賀長雄著/三省堂/明治35.1』「第七十一章 明治維新」(161頁)<109/122>
◇『國語綴方教法及享受案 尋常小學科第四學年後期/日本書籍株式會社/明治37.9』
「第三十二周 第一時 文案 明治維新」(49~50頁)<29~30/51>
「とくがはいへやすが、…これを明治維新といふのだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812120/29
上記のとおり、明治21~32年頃には歴史関係の書籍、教科書などの目次題目に登場していて、
明治37年の国語教法では本文にも登場しています。
また、青空文庫内での早い時期の使用例としては下記のとおりです。
◇青空文庫『海島冐險奇譚 海底軍艦/小笠原長生/文武堂/1900(明治33)年11月15日』
「序 …明治維新以後三十餘星霜ヲ經ルノ今日ニ至ルモ未タ全ク除去スル能ハス…」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001326/files/48215_33989.html
あと、明治期の新聞記事情報が欲しいところですが、登録不要で無料のところは、
◆神戸大学附属図書館新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
上記以外知りません…残念ながらここでは明治末(明治45・大正元年)~昭和18年頃の間の
経済記事に特化した切抜の集積に過ぎませんので今回は参考程度にしかなりませんが、
「明治維新」で検索したところ580件ヒット。
明治45年~大正一桁年の間の記事も多数あり、
大正前半期には既にふつうに使われていたようです。
以上は限られたネット検索での一例に過ぎませんので断定は出来ませんが、
遅くとも公文書等では明治9年8月頃には登場し、
書籍・教科書等から明治30年代には広まり始めた兆しが伺え、
新聞では明治後半期には一般化していたのではないかと推測出来ます。
以上 直接の回答でなくて誠に申し訳ありませんm(_"_)m」☜真に精緻な調べ方である。
改元直後には「明治維新」の用例は見当たらず、明治政府等が積極的に
「明治維新」「維新」の用語を使用したかも定かではありませんので、
「いつ頃」のみカキコミさせていただきます。
◆国立公文書館アジア歴史資料センター
http://www.jacar.go.jp/
上記にて「明治維新」を検索すると186件ヒット。
そのうち、早い時期の使用例としては
内容から明治9年8月24日以降に作成された文書のようです。
◇No.130 件名「明治八年江華島事件善後處置
日米間難破舩救助費償還條約/1明治八年江華島事件」
外務省外交史料館>外務省記録>1門 政治>1類 帝国外交>2項 亜細亜>
対韓政策関係雑纂/明治八年朝鮮江華島事件
上記を<DjVu>又は<JPEG>で画像閲覧すると、
<1/2>右頁8行目に「明治維新」の記載があります。
http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006092114011480266&
(※なお<Djvu>画像を閲覧する際には、Djvuビューアー<プラグイン>が必要となります)
186件の中、一覧リストだけで年代が明らかな使用例に限れば、
明治30年代から増加傾向にあるようです。
また、上記と同様に「御一新」を検索すると226件ヒット。
226件の中、一覧リストだけで年代が明らかな使用例に限れば、
慶應4年&明治元年が109件と突出していて、後は逓減傾向にあるようです。
これだけでは、限られた公文書内でのお話に過ぎませんので、
◆近代デジタルライブラリー
http://kindai.ndl.go.jp/index.html
上記で「明治維新」にて検索したところ
(※一部URL省略)
◇『大政三遷史/小中村義象著/吉川半七/明治21.11』
「第三篇○明治維新」(63頁)<44/62>
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769905/44
◇『庄内史/藤山豊著/鈴木喜八/明治26.1』「第十七章 明治維新」(114頁)<65/156>
◇『札幌農學校/札幌農學校學藝會編/裳華房/明治31.9』(20頁)<33/88>
「第二章 札幌農学校の過去 第一節 明治維新と北海道の開拓」
◇『初等帝国史/横山達三編/大日本圖書株式會社/明治32.4』
「第五篇 江戸幕府創立より明治維新に至る」(222頁)<122/171>
◇『国史教科書 下/有賀長雄著/三省堂/明治35.1』「第七十一章 明治維新」(161頁)<109/122>
◇『國語綴方教法及享受案 尋常小學科第四學年後期/日本書籍株式會社/明治37.9』
「第三十二周 第一時 文案 明治維新」(49~50頁)<29~30/51>
「とくがはいへやすが、…これを明治維新といふのだ。」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812120/29
上記のとおり、明治21~32年頃には歴史関係の書籍、教科書などの目次題目に登場していて、
明治37年の国語教法では本文にも登場しています。
また、青空文庫内での早い時期の使用例としては下記のとおりです。
◇青空文庫『海島冐險奇譚 海底軍艦/小笠原長生/文武堂/1900(明治33)年11月15日』
「序 …明治維新以後三十餘星霜ヲ經ルノ今日ニ至ルモ未タ全ク除去スル能ハス…」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001326/files/48215_33989.html
あと、明治期の新聞記事情報が欲しいところですが、登録不要で無料のところは、
◆神戸大学附属図書館新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/
上記以外知りません…残念ながらここでは明治末(明治45・大正元年)~昭和18年頃の間の
経済記事に特化した切抜の集積に過ぎませんので今回は参考程度にしかなりませんが、
「明治維新」で検索したところ580件ヒット。
明治45年~大正一桁年の間の記事も多数あり、
大正前半期には既にふつうに使われていたようです。
以上は限られたネット検索での一例に過ぎませんので断定は出来ませんが、
遅くとも公文書等では明治9年8月頃には登場し、
書籍・教科書等から明治30年代には広まり始めた兆しが伺え、
新聞では明治後半期には一般化していたのではないかと推測出来ます。
以上 直接の回答でなくて誠に申し訳ありませんm(_"_)m」☜真に精緻な調べ方である。
「明治維新」と言う言葉の成り立ちは、兎も角、明治維新とは一体、何だったのかを探って行くことにする。
「明治維新」は、「嘉永6年(1853年)に、代将 マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国 海軍 東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件」が発端と成り、新暦 1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から明治新政府が始まるたった13年間の短い間に日本が「攘夷」か「開国」かに意見が分かれ、血を血で洗う闘争の歴史の末に達成されたものであることはよく知られることである。
薩英戦争は、文久3年旧暦7月2日-4日(1863年8月15日-17日)は、英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘で、文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した「生麦事件」の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする
「明治維新」は、「嘉永6年(1853年)に、代将 マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国 海軍 東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件」が発端と成り、新暦 1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から明治新政府が始まるたった13年間の短い間に日本が「攘夷」か「開国」かに意見が分かれ、血を血で洗う闘争の歴史の末に達成されたものであることはよく知られることである。
薩英戦争は、文久3年旧暦7月2日-4日(1863年8月15日-17日)は、英国と薩摩藩の間で戦われた戦闘で、文久2年旧暦8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した「生麦事件」の解決と補償を艦隊の力を背景に迫る英国と、攘夷実行の名目のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを阻止しようとする
薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。今NHKの大河ドラマ「てこどん」の島津斉彬は安静5年(1858年7月16日8月24日)没とされる。従って、久光が対応。1862年(文久2)8月の生麦事件に関し、幕府はイギリスに対し公式謝罪と償金10万ポンドの支払いに応じたが、薩摩藩は犯人の引渡しと償金2万5000ポンドの要求を拒否した。そこで翌63年6月27日、イギリス艦隊司令長官キューパーは鹿児島湾に侵入、翌日犯人の処刑と前記償金の支払いを求めた。しかし交渉は進展せず、7月2日イギリス艦隊は薩藩の汽船天祐丸など3隻を拿捕した。薩藩の天保山砲台はじめ各砲台も発砲、旗艦ユーリアラス号では艦長ジョスリング大佐、副長、水兵(7名)が戦死、6名が負傷した。旗艦の弾薬庫前に幕府償金の箱が積まれていたため、砲撃が2時間も遅れたという。3日も小戦闘が続いが、4日に至りイギリス艦隊は、食料・弾薬・石炭の欠乏、船体修理のため退去、横浜に帰った。英艦のアームストロング砲は、薩藩の旧式砲の4倍の射程距離をもち、集成館、鋳銭所や城下町の1割を焼亡した。死傷者は、イギリス側が戦死13、負傷50名に及んだが、薩藩側は戦死5、負傷十数名にすぎなかった。しかし薩藩側ではイギリス海軍の威力を認識し無謀な攘夷を反省する機運が生まれた。講和は、薩藩が大久保利通・重野安繹らを交渉委員にたて、償金を幕府の立替え払いで支払い、イギリス側も薩藩の軍艦購入を周旋するなどの条件で成約した。以後、薩英関係は急速に緊密となり、薩藩のイギリス留学生派遣なども実現、討幕運動における同藩の地位を高めることとなった。[原口 泉]
出典 小学館 日本百課全書より
英国としては、矢鱈の犠牲を出した責任を本国英国議会で責められたかもしれ無いし、日本の開国を狙って居た列強が数ある中で、独占的貿易権が得られたことは怪我の功名と成ったのである。
続 く
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます