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魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【日韓併合の真実を正しく伝える。】⑤

2016-03-21 13:38:13 | カルト宗教の闇
 日清戦争の勝利で日本は清国から莫大な賞金と遼東半島・台湾・澎湖島を割譲させる交渉に成功した。然し、翌年下関で講和条約を結んだときに、露・仏・英三国に、多大な犠牲を払って漸く手に入れた遼東半島の割譲を無効とされてしまったのだ。

 当時満州の陣中で病に臥して帰国させられた山県有朋は戦争末期に陸軍大臣になったのだが、彼は「そもそもわが国の軍備は主権を護る為のものとして為されていたものでるが、多大な犠牲を払って手に入れた領土も、毛唐列強に取られてしまったことは真に残念である。ここに来て、わが国は守戦の軍備すら足るべくも無いのだが、今後、東洋の盟主たらんとするならば、必ず軍備の拡張は為されて行かねばならないものである。」(大意)として、日本の大幅な軍備拡張を上奏したのだ。そして日本が毛唐列強何するものかと軍備拡張に手掛け始んとして意見を具申した十日先に、三国干渉の冷酷無比の仕打ちを受けて、奈落の底へと突き落とされたのだ。

 当時、国民新聞の社長で嘗ては平民主義の旗手として一世を風靡した徳富蘇峰は、この様子を見て歯軋みしながら、「蘇峰外伝」に次のように書いたのだ。「この遼東還付が、予の殆ど一生にお置ける運命を支配したと言っても差し支えあるまい。このことを聞いて以来、予は精神的に殆ど別人となった。これと言うのも畢竟すれば、力が足りぬ訳故である。力が足らなければ、如何なる正義公道も、半文の価値も無いと確信するに至るった。

 そこで我は一刻も他国に返還した土地に居るのを潔しとせず、最近の御用船を見つけて帰ることとした。そして土産には、旅順港の波打ち際から、小石や砂利を一握りハンカチに包んで持って帰った。せめてこれが一度は日本の領土となった記念として」。

 毛唐列強より開国を迫られて、国を潰されてなろうものかと多大な犠牲を払って維新を果たし、明治政府を打ち立てて、一刻も猶予無く毛唐列強と肩を並べんと、国民に犠牲を強いて近代化を推し進め、東亜の不振を見かねて毛唐より護る軍備も整えて、戦争に勝ったまでは良かったが、出る杭打たれる其の侭に、力の差で押し切られ、思い知ったのは軍備の拡張であったのだ。

 こうして、三国干渉が日本の世論に齎したものは、力には力を持って対抗せんとす考え方を広め行き渡らすことであった。

 そこで国内に横たわるあらゆる難題をさておいて、軍備の拡張が為されて行った。

戦後経営の基本方針は、陸海軍の拡張におかれた。陸軍は其れまで六個師団であったものを一挙に十三個師団に増大しようとするものであった。海軍には清国から分捕った艦艇大小十六隻あったが全く旧式のものであり、従来の日本艦隊も毛唐列強のものと較べれば、大して役立つものではなかった。そこで七カ年計画を立て莫大な予算をつけて三十九隻の新鋭艦を建造することにした。

日清戦争以前は、富国強兵で疲弊した国民の生活第一主義を採って来た自由党すら、この国際的危機の前に、党是をさらりと捨て去り、軍備の拡大こそが国民利益を護るものだと偏向し、挙国一致の体制が整った。

然しこの軍備の拡張は、日清戦争以前の日本の財政規模は凡そ年間八千万円前後で、軍事費はその二十七パーセント前後であったのが、二億五千万円の軍費を要した日清戦争が終わった二十九年度には、歳出額は一挙に

 二倍の一億七千万円に増え、しかも軍事費はその四十三パーセント、七千三百万円に跳ね上がり、翌三十年には二億二千万円の歳出に対して一億一千万、すなわち五〇パーセントが軍事費となったのだ。この跳勢は日露戦争まで続けられる。三億三千万円の賞金の大半も、この間に消費されていった。

 「臥薪嘗胆」「十年1剣を磨く」をスローガンにして、戦後処理を巡っての国民の不満の声を、逆に毛唐列強の圧力の不安を煽ることで、軍国への体制を強化することに国民の関心を振り向け、挙国一致の方向へ世論を誘導し、其れまで批判的であった藩閥政権まで巻き込んで、強権力を一切用いること無く、軍国体制は成功裡に進められたのだ。

 その先頭の旗振りを任じたのは徳富蘇峰であって、彼は明治三十年には松方・大隈内閣に入閣し、勅任参事官となったのだ。まるで小泉や今回の民主の大勝が、あれよあれよ一気に為された態だった。人間とは強ち思考停止に自ら追い込み、あらぬ方向に進んでしまうものではある。

 この時、徳富蘇峰は「余としては日本男児として為すべきことを為したるに過ぎぬ」と述べたのだが、この時彼は自分の変節に気が付かなかったのかも知れない。田岡嶺雲はこれを見て「一言の氏に寄すべきあり、曰く一片の真骨頂を有てよ。説を変ずるはよし、節を変ずる無かれ」(『第二嶺雲揺曳』)と捩じ込んだ。平民主義蘇峰の変節は国民新聞の読者を大幅に減らして行ったのだ。以降彼は藩閥政権と密着し、最早国民の声を代表する旗手だったとは到底考えられぬあらぬ方向へ進んで行ったのだ。

 このことは、左翼思想を気取っていた奴等が、昨今自分の地位に満足するや、別人のように時の権力に擦り寄る発言をし捲くることに酷似するが、蘇峰の場合はこれ等と似て非の道理で節を枉げたものと、我は理解する。

さて、時は経だたり、明治四十二年十月二十六日のことである。伊藤博文は張るピン駅に到着すると、露スケの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。その後露スケの守備隊の閲兵式を終えると、各国領事と握手を交わして、更に歓迎する日本人に向かって足を数歩進めたとき、その日本人の列の後方から人を掻き分け前に出た者が、両手で拳銃を構えるや数段の銃弾を続け様に放ったのだ。至近距離から放った弾で伊藤は堪らず倒れ込んだ。そばに居た者達が数人で抱きかかえ、伊藤を車中に入れて横臥した。伊藤は意識がハッキリしていたので、暴漢が朝鮮人だと伝えると「馬鹿な奴だ」と一言と言うと、次第に顔が青ざめて駆けつけた医者の手当て虚しく、三十分後には息を引き取った。享年六十九歳であった。



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