魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【日韓併合の真実を正しく伝える。】⑥

2016-03-21 13:59:47 | 歴史
 弾は総て当たっており、三弾とも身体を貫通せずに留まっていた。そのうち致命傷となったのは、腕に当たったもの以外の胸と腹に当たった二弾であった。

 犯人は安重根と言い、誓いに左手の第四指を切断し、仲間十四人と結託し、日韓協約に調印した韓国の大臣たちを売国奴として悉く暗殺せんと誓いを立て、伊藤に対しては三年以内に必ず暗殺するとお互いに約束していたのである。安はその場で露スケの官憲に取り押さえられ、後に日本側に引き渡されると、翌年三月に旅順で処刑された。

 伊藤はその年の六月まで三年半は韓国統監であり、事実上の韓国の支配者であった。伊藤は常々このようなことは予期しており覚悟もあった。

 その覚悟を示す逸話を一つ紹介しよう。

 対韓政策の一貫として、四十年秋に、後の大正天皇である東宮が韓国行啓を決めて有栖川の宮が一緒に同行することになっていた。その時東宮に伊藤は言った。「韓国の現状は、何時爆弾が飛んで来るやもしれません。その際伊藤は殿下に先立ち斃れる覚悟です。殿下もお覚悟召されたい。」

 しかし、允かハルピンで非業の死ぬ目に遭おうとは、思いもしないことだった。伊藤の悲報は朝野に悲しみを齎した。特に少壮のときより艱難辛苦をともにした井上馨の悲しみは想像に難くなく、涙が溢れ止まらなかった。だが、伊藤の死への悲しみを一番感じたのは誰あろう明治天皇であった。山縣は性格が陰険で心を赦せる相手ではなかったが、一方、伊藤は性格明るく冷静で、何かにつけて相談する一番信頼できる男と認めていたのである。伊藤も其れによく応え、信頼を裏切ることは無かったのだ。伊藤の機密費も皇室費から出してあげていたほどであった。天皇はその死を聞いて体の一部が捥がれるような深い悲しみを覚えたのだ。

 彼の死は政敵までも悲しませ、その性格は多くの人から好感を持たれるものだった。大隈は彼の死を国家の不幸と悼みつつ、「どうせ死ぬなら満州の野にて刺客の手にやられたのは死に栄えがあった」と洩らしたと言う。彼の死は政界の大きな転換を齎した。桂は西園寺に「伊藤が死んでしまった以上、山縣は責任回避ばかりする男で、松方は老齢過ぎ、井上は老衰して長きこと無し」と愚痴をこぼした。

 ところが韓国国内は密かに祝賀の宴を開くほど、喜びに沸いていた。伊藤は四年前、韓国の統監に着くや、韓国愛国者にとって憎悪の的となっていたのだ。韓国統監府は日韓両旗を掲げ哀悼の意を示すように下知したが、一行に旗を掲げる者が居なかったのは、売国奴と呼ばれるのを避けたからだ。

 そもそも韓国人の性分は素直でないのだ。人間は相手にもよるが素直に相手に対応したほうが、決して損にならないものである。ましてや、日本人は徳川幕府の治世の下で、数百年もの間、大きな騒乱一つ無く穏やかに庶民文化も育めた國であり、決して半島を食い尽くしてやろうと侵略したものではなかったのだ。毛唐列強とは違うのだ。

 半島人には聞きづらいだろうが、日本が統治する前の半島人の庶民の暮らしぶりが人として耐え難いほど酷かったことはネットの動画でも証明される。韓国の庶民層はこんな風だったが、支配層には元々日本を野蛮な國だと蔑視する思想を持っていた。韓国は中国の属藩として成り立っていた國だったので、東洋思想の根源である儒学では、日本など智劣な國だと勝手に思っていたので、支配層は昔より日本を見下していたのだ。しかし、朝鮮は不思議な国で、そうして日本を見下しながらも、その日本に江戸時代、まるで幕府に朝貢するように朝鮮通信使を何度も送って来ていたのだ。日本が統治する前の半島の庶民など、儒学を学ぶ余裕など全く無かった筈なのに、支配層のこの思考は、食うや食わずの庶民層まで伝播して、日本を見下す風習は半島全土に行き渡っていたのだろう。

 今日にも及ぶ日本に対する半島人の反撥精神の根源は今や彼等は意識していないが、存外こんなところにあったのだ。日本の半島統治ははなっから波乱を含むものであったのだ。

 しかし、半島人とて同じ人間に違いなく、このような捻じ曲がった精神が育まれた背景には其れ相応の根拠がある。元々、王族季氏はかつては中国の関隴集団に属していたと考えられる異民族であったのだ。半島を武力で抑える異民族の集団が統治するには、色々画策を為さねばならぬ。庶民に過酷な生活を強いるのにも、過酷な階級制度を利用してきたのだ。さらに、半島全土への支配を徹底するには朝鮮民族としての纏まる気持ちを醸成させなければならない。

 ここで、何時もの我の癖で本題と離れることを言うが、今の社会が、昔の良き習慣を悉く打ち壊してこれたのは如何なるものと考えるか?昔は世代間の伝承が無ければ、文化も伝統も技術も生活も総て成り立たなかった。何故か?賢明な人は直ぐ答えを出せるであろう。

 当時の半島にも、毛唐列強に、反発出来得る国家が存在していれば、日本はその国と戦争し、大きな代償まで覚悟して半島経営など考えず、その国と同盟関係を結び、東亜を毛唐の蹂躙から守ることが出来たのだ。戦争にはたえず國を滅ぼす危険が潜むものであるからだ。

 其れよりも、鳩山は完全に行ってしまっている。北朝鮮と日本が二国間協議をするような話を中国でしているらしいが、美濃部元東京都知事宜しく世間知らずのお坊ちゃまで、加えて学者肌だと勝手に自認する脳天気が、率いる朝鮮族で固められた民主が、北朝鮮と、とんでもない約束をしてしまう可能性は大なのである。日本の公務員が大きく腐り始めたのは、学者を気取る美濃部元都知事が、公務員の給料を見境無く上げ始めたことから始まったことを思い起こしてもらいたい。熱に浮かされたようにブリジストンと朝鮮人の女房に振り回され、自分の身の丈も知らない侭に、大政治家ぶったトッチャン坊やを、周りの朝鮮人が煽てて傀儡にすることなど、赤子の手を捻るよりも簡単なことなのだ。

 何度も言うが、我はあのトッチャン坊やとは間近で会話をしているのだ。その時、我が奴から受けた印象は、背が少し高いだけのひ弱な木偶の棒で、我を見て少しからだが震えていた。とても一國の総理などトンでもないのだ。

 小泉は北朝鮮で金正日に、日朝正常化が生った暁には、必ず数兆円の賠償に応ずると裏約束をしているのだ。あんな國と国交正常化などする必要が無いどころか、もしすれば、韓国と北朝鮮との朝鮮人により、日本が目茶目茶になってしまうのは火を見るよりも明らかなのだ。もしかしたら、郵政の金も北に流したことも考えられよう。

 うがり過ぎた考え方だと、反撥も受けようが、拉致問題が表面化し、日本が取り組み始めた頃から、いやに、日本での朝鮮人の活動が目立つようになって来た。いくら気の毒だからと雖も、日本を売国してまで拉致被害者は助けることが道理に合ったことなのか?我を批難する前に、冷静に考えて頂きたい。

 如何も英語を活弁にする為だけに留学した奴等が、政治の場に出ると、日本を等閑にする活動をしがちである。今は庶民でも留学する時代である。一国の政治家が、外国カブレなんてとんでもみっともないことである。

 身の丈知ら無い世間知らずの坊ちゃんは幾ら歳を取ってもお子様なのだ。小泉も、福田も、安倍も、麻生も、鳩山も、その点では共通なのである。他の者の悪口はこの位で十分だが、兎に角あのトッチャン坊やは危険過ぎる。せっかく火がついた献金疑惑を煽って大火にし、早急に、あのトッチャン坊やを焼失させる運動を行うことに是非協力して貰いたい。民主とマスコミに非難の抗議を上げ捲くろう!

 事ほど左様に半島の、反日感情は根強いものだったが、親日派も少なからず居たことは、時前に既に書いている。しかし、強国露スケに闘い挑んだそのことで、半島における日本の評判も、一時は高く上がったのだ。その原因と上げにしは、露スケの尊大凶悪に恐れをなすも、反感も大きくなっていたからだ。しかし、其れより日本の評判が上がったことは、何よりも、日本軍の軍規が厳正で、糧食・人夫などへの支払いが公正であったからだった。

 このことを従軍記者マッケンジーは次のように証言した。


 「北部朝鮮いたるところで、開戦後数週間私が住民から聞いたことと言えば、日本人に対する友情の表現ばかりであった。クーリーも農民も、日本人が朝鮮官吏の圧政を緩和してくれるのを期待していたので、友好的だったのである。より上層の人々も、日本の約束を信頼し、徹底的な改革は外国の援助無しには不可能だと確信していたので、日本に同情的であった」

 こうした空気に後押しされて、全権大使林権助は、露スケを打ち破ったことに勢いを得て、日露開戦後間もない三十七年二月下旬に、以下に掲げる「日韓議定書」を取り結ぶことが出来たのだ。

第一条 日韓両帝国間に恒久不易の親交を保持し東洋の平和を確立する為、大韓帝国政府は大日本帝国政府を確信し、施設の改善に関しその忠告を受け容れる事

第二条 大日本帝国政府は大韓帝国の皇室を確実なる親誼を以って安全康寧ならしむる事

第三条 大日本帝国政府は大韓帝国の独立及領土保全を確実に保障する事

第四条 第三国の侵害により若しくは内乱の為大韓帝国の皇室の安寧或いは領土の保全に危険ある場合は、大日本帝国は速やかに臨機必要の処置を取るべし。而して大韓帝国政府は右の行動を容易ならしめる為十分便宜を与える事

 このことについて、韓国宮廷内に反対論もあったのだが、小村権助も『小村外交史』で「韓国従属化の第一歩」とした。これとは別に『小村外交史』を紐解くと「韓廷に一小変動があり、度支部大人兼内蔵院卿の李容翊はその職を免ぜられ、同時に李は詔勅に依り急速本部視察の途に上り、加藤農商工部顧問と相携えて渡来した。その李の出発した翌日京城において日韓議定書の調印があった」

 詰まり、厄介者を体よく追っ払っておいて、調印せしめたのだ。林公使がまんまと李を追っ払ったと外務省には報告している。


 さて、史実を書き綴ろう。人間とは、ちょいと優位を感じると直ぐ調子に乗り勝ちなお調子者なのは、普段より冷厳にもの見つめられる人とて同じ人間の性と言えよう。此処は我慢して呼んでもらいたい。

 明治三十七年五月末、対韓方針を確定させる為、元老会議と閣議が開かれた。桂内閣は、「韓国は毛唐列強の圧力を防ぎきり独立を維持出来るとは到底観測出来ないので、帝国自衛の為に、朝鮮の政治上、軍事上、経済上総て宜しくわが国が面倒を見て行かなければならない」として、次のような対策を打ち出した。

 「わが国は日韓議定書によりある程度、保護権を収めるに至ったが、より進んで国防外交財政等に関して確実且つ適切に締約および設備を確保し、そのことで韓国を保護する実権を確かなものとし、且つこれ等と平行して経済上の両国間のもろもろの関係において須要の利権を収める事も推し進めんことを急務とす」

 同時に政府は、『対韓施設要綱』を決定した。

 此要綱を極めて簡略に説明すると次のようなものとなる。

 「過去日本は韓国王族に幾度も苦い経験を舐めさせられて来たのだが、特に外交的策術によるものは韓国の独立自体危うくするものだったので、韓国を保護するうえでこうしたことは二度とあってはならないことである。であるから、条約締結などの重要な外交案件の処理に関するものは帝国政府の予めの同意を求めることを約束させることが火急を要するこことなるのだ。・・・・ 」続く。

 「韓国を保護するに、紊乱した財政には政府も人民も苦しんでいるので、これを解決するには行政の改革が必要である。先ずは財政を改革していくことだが、これを解決していく為にはわが国が行・財政を掌握することが肝要となる。その実行策として、わが国の者より適当な顧問を入れ、同時に、徴税法の改良貨幣制度の改革に着手し、総て韓国財務の実権を我が国の手中に収めることが必要となる。」

 我が民族の誹謗をしたくは無いが、ちょっと覇権主義に偏りすぎた考え方になっている。如何して、人間は自分のほうが優位に立つと日本人も朝鮮人も高慢になってしまうのか!自らの悪政により、がたがたになった半島の国を、毛唐列強から護らんば、わが国の自衛も危うくなるので保護するのだとだけ強調すればよいものを何故偉そうに見下した言葉を付け加えるか!此れが百年経った今日に、半島人に突っ込まれる言説になろうとは、ゆめゆめ気付かず吐いた言葉であったのだ。

 三十七年八月に締結した、第一次日韓協約が締結された。露スケとの戦局有利と看た日本政府は勢いに乗って、すぐさま此の協約を締結せんと迫ったのだ。

 「一、韓国政府は日本から財務顧問を受け容れて、すべて財務に関することは此の顧問の意見に従うべし。

二、韓国政府は外交に関することついての顧問も日本から受け容れて、すべて外務に関することは此の顧問の意見に従うべし。

三、韓国政府は、外国との条約締結その他重要な外交案件に関することは予め日本政府と協議すべし。」

 日本政府は毛唐列強など国際社会の反撥を少しでもかわさんとして、日本政府の子飼いとも言える米国人スティーブンスを外交顧問として送ったのだ。哀れこの米国人は三年後、サンフランシスコにて韓国人の刺客によって殺害された。

 財務顧問として送られたのは、大蔵省主計局長目賀田種太郎であり、彼は着任するや、協約の実行を韓国側に確認する契約を取り付け、韓国政府の財政を一手に握ることに成功した。

 局長目賀田は先ず手始めに、と言うよりは最大の仕事として、貨幣制度の改革に取り掛かった。当時の半島では幾種もの貨幣が出回り、更に、財政逼迫の回避の為に悪鋳が為されていた。これらが韓国経済発展を大きく阻害し、強いては日本資本の進出にとっても大きな障害となっていたのだ。当時「隠者の国」と言われた韓国の近代化には、日本資本の進出は必ず必要であったのだ。

 彼はそのとき出回っていた貨幣の価値を引き下げることで旧貨幣を回収し、新貨幣を流通させたのだ。彼はそのとき出回っていた貨幣の価値を引き下げることで旧貨幣を回収し、新貨幣を流通させたのだ。しかし、多くの韓国人は貨幣の悪鋳の苦い思いがあったので、旧貨幣を手放さず、大きく損失を蒙った。

 こうして日本は韓国への実権を手にしたのだが、見誤るべきは、日本政府の威勢に乗って韓国を食い荒らさんとする輩が半島に向かったことで、悪徳商人や朝鮮浪人が韓国社会の悪評を買い、日本政府の崇高な理念を等閑にする傍若無人の輩によって次第に再び半島人の反撥は高まってしまったのだ。

 そんな中日本政府の韓国保護策は露スケに対する勝利が確実視されるや、一層積極的な展開をみたのだ。明治三十八年四月、「韓国保護権確立の件」を閣議決定し、天皇の裁可を得た。いよいよ韓国の財政・外交を監督だけするに留まらず、全面的に掌理する為の駐箚官を置くようにうたったのであった。

 幾ら正義の為とは言え、力ずくでは毛唐列強の手前もあり、後でとんだしっぺ返しを食らわせられるのを恐れて、事は穏便に運ぶのが上策である。此処でかの一筋縄とは認められぬ小村壽太郎の外相として登場となる。

 明治三十八年八月、日露戦争が日本の勝利で終わるのを待って日英同盟の改定が行われた。ここで英国は韓国政府に対する日本の保護策の「指導、管理及び保護の処置を執る権利」を認め、続いて米露もポーツマス条約の中で、露は承認し、ルーズベルトは此れを認める見解を表した。

 問題は、此れを実力行使無しに実行に移すには、如何にして韓国から承諾を受けるかに懸かった。

 これからの仕事は、枢密院議長の職にあった伊藤博文に引き継がれた。伊藤に随伴するは林駐管公使であり、三十八年八月に二人は日韓協約案を持って京城に乗り込んだ。伊藤はその月十五日に、韓国王に親書を奉呈して、日本が韓国外交事務を一切引き受けなければならない事情を説明する為、韓国王と会談した。そのときの二人のやり取りは、次回に持ち越すこととする。

 それではその会話の経緯を現代語に訳して綴ってみよう。

続 く


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