少し先覚のことでも勉強せい!尖閣問題は、日中共古来より曖昧にして来たことがどちらも悪い。本来下関条約の時に決着が付いたものを日本は条約の成立が「沖縄も中国領だ」と主張した李鴻章の横槍に困惑すると共に憤慨し、沖縄県の領有の緯度経度の範囲を明確にし無い儘、 決めてしまった。
処が、後に尖閣も日本の領土と日本はずっと信じ込んで来たのだ。一方中国も歴史的にはずっと中国のものだと近代の国際法規では認められぬ証拠を1970年代から主張し始めた。サンフランシスコ条約で下関条約で日本が割譲された領土の中に尖閣が入るか如何 両国政府の正式な証拠となる政府資料は全く無いのである。
ならば、何を基準として尖閣の領有権の両国の主張に軍配を上げるかと言うことは、領有権の判定が現今の国際的通用する認識に拠るしかないのである。
つまり、政府としての実効支配権が下関条約を結ぶ以前にどちらの国が及ぼしていたかに尽きるのだ。1880年代後半 から1940年(昭和15年)にかけ、尖閣諸島には日本の琉球諸島の住民が建設した船着 場や古賀が開設した鰹節工場などがあった。通称: 日清講和条約、下関条調印: 明治28(1895)年4月17日(下関) とすれば、下関条約の少なくとも6年前には、日本は尖閣を自領として実行していたと言うことになる。
中国が下関条約以前に尖閣が中国領だったという証拠としてあげているものは、地図に書いていたと言うだけのものしかなく、中国人が尖閣に上陸したとだけのものすら無い。 1884年(明治17年) - 尖閣諸島八島のうち魚釣島、久場島、南小島、北小島の四島を「明治政府から30年間無料で借受け」、家屋建設や船着場設置などの開拓事業に従事。決定打。
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