魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【東條英機の正体】

2017-11-10 18:47:47 | カルト宗教の闇

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2017-11-10 14:17:44 | 反日

 東條家は東条英機の祖父の代に東條学派に系統し、東條姓を名乗った。
 東條家は安房の特定の「土地の小豪族」、江戸時代に宝生流ワキ方の猿楽師として、北上して盛岡藩に仕えた家系とされ英教の父の時に盛岡藩に士分に取り立てられた。英機の父英教は明治維新後数年後結成され明治32年迄存続した陸軍の下士(下士官)養成所を出て、将校に累進して、更に陸大の一期生を首席で卒業したが(同期に日本騎兵の父と云われた秋山好古等)、陸軍中将で予備役と成った。俊才と目され乍も出世が遅れ、大将に成れ無かったことを、本人は長州閥に睨まれたことが原因と終生考えていたという。母は九州福岡県北九州市小倉の万徳寺住職徳永某の娘で千歳といい、実家の近くにあった歩兵第14連隊に居た英数と結婚した。東條英機の妻東條かつ子は、千歳の縁戚である。嫁入りしたかつ子に千歳は厳しかった。
福岡県田川郡安真木村(現在の川崎町)出身で、地元の長者の伊藤万太郎の娘。かつ子は小倉高等女学校時代に万徳寺に下宿していた。1906年(明治39年)に日本女子大学国文科に入学した時、英機の父・英俊に保証人に成って貰い、東條家に出入りして居た。


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d2/Tojo_family_1941.jpg/375px-Tojo_family_1941.jpg

夫の元内閣総理大臣東條英機とかつ子。中央は孫娘の由布子(1941年)。


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永徳寺は浄土真宗本願寺派


奈良県立同和問題関係史料センター
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近世村の村と寺
―複数の真宗寺院が所在する村―

奥本武祐一

 江戸時代に西本願寺で作成された「穢寺帳」なる史料
は、それ自体が西本願寺教団内における差別の象徴
的存在とみなされたことによるものか、原本の所在が不
明であるという制約があり、部落史研究の史料として十
分に活用されているとは言い難い状況にある。しかし、

西本願寺教団内のすべての村寺院が網羅されている
わけではないことなどを差し引いても、幕末の西本願寺
教団内の村寺院の状況を通覧できるという意味では
その史料的価値は大きい。

東条は江戸からの流れ者の家系 石原完爾 ...- 杜父魚ブログ☜左クリックで開く

☝の魚拓☟

戦時宰相・東条英機は東京人と久しく思っていた。というのは東条は私の母校・都立戸山高校の先輩であった。戸山高校の前身である東京府城北尋常中学校(→東京府立第4中学校→東京都立第4中学校→都立第4高校)の二年から東京陸軍地方幼年学校に進学している。明治32年入学の第3期生。

古津四郎氏は東条の出自について面白いエピソードを紹介している。

東条とは犬猿の仲だった石原完爾は、京都第16師団長を解任されて、いったんは郷里の山形県鶴岡に閉居したが、昭和17年夏に東亜連盟顧問として盛岡市で第一声を放っている。

「内閣総理大臣東条英機なる男を諸君は同郷の先達と思っているようだが、東条は盛岡出身ではない。彼の先祖は江戸からの流れ者。風来坊の一芸人で、南部藩の出ではない」とやったから、警察官が「弁士、中止!」という騒ぎとなった。

石原の東条家出自説は一部は当たっているが、一部は間違っている。

盛岡市大慈寺町の曹洞宗・久昌寺に東条家先祖の墓がある。寺を訪れた古津四郎氏は若い僧侶から「東条家は代々神道で、当寺は墓地をお貸ししただけ・・・」と迷惑そうな説明を受けている。墓も結界石かと見間違う奇妙な石柱があるだけ・・・。

知人を介して久昌寺を再度訪れた古津四郎氏は、嘉永14年(1729)から慶応3年(1867)までの過去蝶(帳)を見せて貰った。南部藩士だった東条家だから過去帳に名が出ていない筈がない。

寺の過去帳を調べるのは、私も経験があるが、かなりの根気がいる作業である。昔の過去帳は仏となった月日別に区分されて、親族は肉親縁者の祥月命日を覚えていて、その日に墓参する風習があった。

明治以降の過去蝶にも目を通していたら、2月18日の数ページの中から①戒名=本照院現安妙大姉②俗名=横沢石子③死亡年=明治10年丁丑④在世年数=41年8ヶ月⑤続柄=妻⑥戸主=東条英俊・・・の記述を発見した。

英俊は東条英機の祖父。その子・英教は南部利祥(伯爵)の教育係を仰せつかった英才だったという。明治陸軍において陸軍大学校の第一期生を首席で卒業している。明治陸軍を育てたプロイセンのメッケル少佐の愛弟子で、同期には秋山好古がいる。

話を戻そう。石原完爾が「東条の先祖は江戸からの流れ者」と言ったのは一部は当たっている。第28代南部藩主・重直は江戸で育ったから文弱に流れ、南部領の凶作をよそにして能楽に耽った。江戸から能楽宝生流の師を招き、城内に能舞台を建てようとしている。

この能楽師は凡庸でない。南部領の凶作をみて重直に芸を捨て、武士一本で主君の恩義に報いることを願い出ている。君命に忠実である証左として、子孫には「英」の一字を継がせ、英勝、英正、英照、英俊と代を重ねた。”君命即天命”と心得た家柄である。

東条英機の墓は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園にある。戒名は「光寿無量院英機居士」。

杜父魚文庫

 

世界大百科事典内の猿楽の言及【庭者】より

 室町時代に活躍したの別称の一つ。また,江戸時代には徳川将軍家に仕え,白衣で江戸城の奥庭の清掃や将軍の身の警備に従事するとともに,秘密情報の収集・提供を行った〈御休息御庭之者,お庭番といった)者のことを指し,更には〈猿楽師(能役者)〉に対する軽侮の念の篭もった言葉として使われた語。別に又,江戸時代に各地の農家に代々隷従奉仕した貧農をさす〈庭子〉の語とも同義に用いられた場合がある。

 

世界大百科事典 第2版【】の解説より

江戸時代に,歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。ともいった。元来,とは,中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は,原則として非課税の土地だったので,天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を追われたり離れたりした流亡民たちがここに定住し,零細な農耕を営む一方,貴族・寺社の社会から賤業と見なされた雑業に従って生活していた。彼らが従事した業は,皮革生産・鳥獣・死体埋葬・清掃・細工・染色など,実にさまざまの種類にわたっていたが,室町時代末期には作庭にすぐれた才能を持つが輩出したことが知られている。

 詰まり、石原莞爾は仇敵?ま東条英機の出自を賤しんで馬鹿にしていたのである。


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