魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第八巻 「一、 出るも入るも自由為り」】

2017-04-11 10:22:10 | 魂魄の宰相の連載

 ※ 以下、校正はして居無いので、誤字脱字、事実関係に誤りを見付けたらご一報下さい。

 

 

魂魄の宰相 第八巻

 

 

 

第八章 金盃の輝きが人を誘い、皆それぞれの思いを持って大蔵経を解釈する

 

一、 出るも入るも自由為り

 

 中国の士大夫には何時も二本の道があったのだが、一つは仕官する道で、一つは隠遁の生活を送る道であった。この様に二つの道に分かれる心理は二つ異なる心構えから生じるもので、孔子が「行えば用いられ、隠遁するならば捨てる」と言った意味は、仕官することは世の中に仕えることで、隠遁は世の中から逃げることであるということだろう。王安石は大いに世の為に尽くした人であったが、同時に彼は隠遁に憧れるところがあって、決して只管栄達を求める人では無かったのだ。

 王安石は若い頃仕官したのは、主に家族を養い孝養を尽くす為であって、官界に憧れたものでも、富貴を求めるものでも無かったのだ。彼の一家には一日たりとも全員が命を繋げられる田畑すら無かったので、凡そ数十人を抱える一家の生活を支えるには官の禄にしがみ付くしか道は無く、現実として彼は自分の意志に拠って生き様を決める状況に無かったのだ。彼の若い頃の詩歌の中で、「田畑を持て無い者には功を収めるしか道が無い」といって切羽詰った思いを著していたのだが、「京中にあっては十分に食うことが出来無い」ので、地方での任を望んだのは、決して彼の本意では無く、《壬辰寒食》一詩の中で彼の感慨を詠んだのだ:

 客は楊柳のようだと思い慕うのは、心和む穏やかな風体が千万の細枝のようだからだ。更に寒食に涙を傾け、冶城への高まりを膨らませたいと欲す。

 頭髪は競って雪のような白さを発して、鏡の顔の朱は早くも薄れた。位を上げて喜ぶことも無く、惟魚を捕り、柴を刈ることを楽しみとしい貰いたかったのだ。

 この年つまり皇佑四年(1052)、王安石は既に三十二歳に成って、江寧に帰って父と長兄の王安仁の墓参りをした時、思わず万感の思いに駆られて咽び泣いたのは、顔の艶も無くなり、毛髪も真っ白になり、高位高官の地位に期待をもつことも無くなってから、魚を捕り柴刈りに明け暮れる悠々自適な生活をさせてあげたかったからだった。紛い無く、父と兄とは学問への志節に並々なら無いものがあったのに、年老いて官吏を退官する前の壮年のうちに早死にしたことは真に悲しむべきことだと心を痛め、老いて田舎に帰り、魚を捕り、柴を刈って等の暮らしをして貰いたいと心中密に願っていたのだ。併し、彼は詩に託して自分の思いを著すしか無く、現実のものとすることが出来無かったのだ。

 王安石には亦《池雁》一詩があって、その中に書かれたことは::「雛鳥は人が心配するように催促し、縋る様に悲しげに鳴いて餌にありつくのだ。万里衝陽で冬暖かく暮らしたいと思ったのは、元はと言えば稲梁謀が自分を見失ったからだ」。この詩は「自分を見失った」という苦悩を齎し、役人でいる限り「自分を見失った」と言うことを意味し、彼の官界に対しての救い無き嫌悪と田舎の生活に対する憧れを著したのだ。


 王安石は仕えている限り隠遁は許されず、この為に意味も無くもやもやとした気持ちを彼の《両馬齢俱壮》の一詩の中で程好く著していた:

 二人の馬齢(謙遜して無駄に年取った者)は共に堅強で、千里を走る逸材と自ら誇る。

 生き様は飽く迄優劣が就かず、或いは竜(仏法の守護)が仲立ちしても。

 一方の馬は馬場にいるだけで、ただ行ったり来たりを繰り返す;もう一方の馬は

 手綱や轡に操られ蹄も裂けんと、風雷もものともせずに嘶き一気に走り抜ける。

 如何して馬草や豆類を鱈腹食べられようにと、囲い(地位)に未練を思い巡らすのか? 野に放たれて王齕(秦の猛将)の様に走り回りたい筈が、繋ぎ止められてばかりの愚鈍な駑馬を如何して羨ましがるのか?

 二馬は同じようなものだとはとても言えず、各々世での居場所は推測がつく。どちらが良いとも言い難いが、私の心は揺ぎ無い。

 此の詩は、実は二馬に譬えて賢人の二つの生き様を顕したもので、一人は政権側にあって官に為り、己の本分を守って、枠に嵌められた生き方を選んだが、一人は自由奔放に野に退き郷に居し、何事からも解き放たれて、思うが侭に生きたのだ。政権側にあっては国の為に忠義を尽くさなければならず、野に在っては気儘に暮らせ、どちらを選ぼうとも、良し悪しは言え無いのだ。併し、当時の人は賢者の意図を理解することが出来無いくせに、妄言を以って、「政権側にある賢者は、王事に忠実で、地位に未練を抱いて禄を貪る」と謗るのだった; 高い資質の者は庶民にもいて、束縛されることも無く気儘に生きて、何も求めず世間の煩わしさにも関することが無い筈だ。賢く成った者は進退の如何に関わらず逃げも隠れも出来ずいるが、どちらにしても世間の人々の謗りを免れ無いのだが、謗る輩は賢者の胸の内を推し量ることも出来無いくせに、勝手に自分の考えで人を推し量って、駿馬と愚鈍な駄馬との区別も付かず、聖賢も庸禄を食むだけだと見ていたのだ。

 この詩は嘉祐年間に王安石が地方官にあった時に詠まれたものかもしれないが、「彼が野生の馬の状況から抜け出して、敢えて束縛されたいと思って、時に彼は朝堂に上れるように世渡りしている」と誰かが感じていたので彼が目障りであったのと、或いは他の誰かが「彼が位を固めて権利に執着する」と思っていたのだと勘繰れば、此の詩は彼のことを二馬に譬えて創られたもので、此の詩に依って彼自身を風刺したものだと思われたのだ。このような情況の下でも、彼は依然として自身の考えを固めていて、世俗の考えからの懐疑や勘ぐりには拘らず、自分が思う通りに事を進めようとの意思を持っていたのだ。

 王安石は心の中で、仕えるも引退するも、凡て道義に従うべきで、仕えるも引退するも自分としては高下に分けることでは無いと考えていたのだ。英宗の世、彼は江寧で喪に服して、数年間は召されることも無く、多くの人は彼が富貴を目指さず、隠遁を決め込み再び出馬することは無いと思っていたのに、翰林学士として入朝を促され時、彼がそれに応じたので、彼の古い友人の王介が詩を詠んで風刺したのだが、王安石はこれを一笑に付し、《松間》一詩で反撃したのだ:


 偶々古い題材を探しに松間へと行く途中で、ある無法者が北山(回教の経典)を暗唱して写取ろうとしていたのを止めさせたのだ。

 丈夫の出所進退は自分の意思で無く、鳥獣はずっと己が何者かも分ることは無い。


 李壁はこの詩を注釈した中で指摘している:「《石林詩話》で曰く:王介、字は中甫、衢州の人、荊公とは交流があり、甚だ仲が良かったが、未だ嘗て仲違などしたことが無かった。煕寧初年、荊公は以前より何度も招かれていたのだが腰を上げることは無かったのだが、翰林学士として招聘されて、漸く受命したのだ。王介は詩を寄せて公に曰く:『草庵に三顧の礼を執って春啓蟄を促し、蕙帳は空しく寒々とした生き様への兆候を誘う』と諷刺を含んで詠んだのだ。公は大笑いをして、直ぐに返詩を詠んで、『男子の出処進退は意に叶わず』との文を、王介に送ったのだ」。

 南斉の孔稚珪は《北山移文》を詠んで、其の詩中に、退官した周顒を例に採って退官した者が節度を欠けていたのを風刺して、「蕙帳は空しいと夜に鶴が非難したので、隠者が明け方に猿を叱りつけに行ったのだ」の一句は、王介が、諸劉備が葛孔明に三顧の礼を執ったので感動した孔明が漸く腰を上げた故事に託して、王安石が富貴を求めようと動かされ、最早世を捨てた者の志節を守ることが出来無く為ったと密に謗ったのだ。王安石は、世を捨てようと一生退官した儘で、老いて死ぬ迄松間に居ようとは思ってはいず、「如何して《北山移文》を読まれた位で互いに謗り合う必要があるのか?」と思っていたのだ。一人前の男子と言うものは漢民族の男子として、出処進退はすべてことの成り行次第に従うのでは無く、道義と自分の思いに依って事を進め、その志は猿や鶴が至るものでは無いのだ。ここでは王安石も王介に対して風刺で返して、彼の見識無さを「鶉や雀は鸿鹄の遠大な志が如何いうものか知る由も無い」と嘲笑したのだが、二人は親しい友人で、互いを馬鹿にしても、全く意に介さず、仲違いすることなぞ露も心配無かったのだ。

 王安石の主張は訊くに値し、兼ねてからの天下を救うという気概を秘めていたが、彼は吾身が独善に為ってはなら無いと考えていたので、そこで伝統に従って世俗を避けて隠遁することに重きを置き、昇進ばかりに拘るのを軽く見て否定の態度を示していたのだ。彼には具体的にこの様な思想を表現した《禄隠》一文がある。古くは孔子が「気高き者は譬え餓えようとも禄を嫌って隠遁するものだ」と言っていたのだが、柳下恵が志を曲げてその身を辱めた例を挙げた上で、伯夷や叔斎が揃って志を枉げ無かったのは、道義に沿ったことだと言ったことは、孟子や揚雄の見方でもあったのだ。王安石はこのことに納得出来無く、彼は「聖人が言う気高き者とは、自分と同じように行う者であるのだ; 人が意志を枉げるのは、自分と違う行いはすべきで無いと言っている様なものだ」として、この様なことを基本に置くならば、孔子、孟子は『飢餓に遭おうとも事を進めるべき』と言うことを褒め称えるばかりで、実はそれは間違っていて、「孔孟が避けることが出来たことを避けて通る訳には行か無い世に生まれた」揚雄は枉げて王莽の臣と為ったので、これでは聖人だと言える様な仕業とはとても認められないと言わざるを得無く為って仕舞うではないか? そうで無いことは明白だ。「聖人の言行とは、同じ所も有り、必ずしも同じで無い所も有り、無用なものまで用いてはなら無いのだ。同じ道理に従う者と雖も、異なった考えを持つことがあるのだ」。 聖賢の道理と同じことも違うこともあり、飢餓に為っても禄を放れることも有り、或いは禄に居座る事も有って、どちらに高下をつけ難いのだ。聖賢は皆変わり身も早く、余りに多くの足蹟を残し、人を束縛し無いので、その系統立てた分類は難しく、「聖人と言われる者は、知権の大きい者; 賢者と言われる者は、知権の小さい者」と為し、そこで殷の三仁を観ると、その足蹟に違いがあり、諌めた為に微子は追放され、箕子は奴隷と為ったのだが、死ぬより益しとすれば、其の道は同じと言える。《易》は曰く:「出るも居坐るも、黙も話すも」とし「聖人はどちらでも善いと言うので、出処を語るも黙るも、全て道理に適わないなどと言え無いのだ」。

 王安石は大胆にも孔子、孟子、揚子などを聖人と看做すことを一度見直そうと、「彼らについて書かれたものの出処が総て隠されているので、惟実在する足蹟を顕正することが必要だ」と指摘して、「足蹟の違いは道学に内在する統一性に影響することは有り得無いので、決して上下や高低に分けることをしない」としたのだ。彼が違っていると思うのは、『統一性と個性』、『本質と現象』の弁証法的な関係に対しての明らかな認識の差であって、多くが禍とは為らず、同じく多くは一害を為すのみである。彼は見解を纏め上げる時にはぶれないように細心の注意を払い、同時に大胆にも個性と変化の存在をも許したのであって、全くの快挙を為したと言えるのだ。彼は聖人をより素晴らしく思っていて、更に臨機応変の措置を採れ時勢に従って動けることが出来る筈で、彼の心の中では「聖人は決して頑固で保守的な役に立たない学者であってはなら無い」と理解していて、時代を先取りした改革家としては突発の出来事に対しても、前向きに適切に対応出来ると信じていたのだ。

 王安石が入仕したのは成果を挙げる為で、富貴を図る為では無くて、其処で、譬え彼の身が宰相の位に為ろうとも山林を思い慕うことには変わりが無かったのだ。魏泰《東軒笔録》に十二巻:

 煕寧庚戌の冬、荊公は参知政事と同じく中書門下平章事を拝命し、更に史館大学士も受命した。この日には、百官が数百人を下ら無い祝賀の者と為って競って訪問したが、荊公は感謝の礼も疎かに、全ての者に会わずに、一つ残った西門の小閣に座していた。荊公は暫く其の儘で居たが突然眉を顰めたかと思うと、筆を取って窓に向って書を為して、次のように曰く:「霜筠雪竹の鐘山寺、年を取って身を投じ、此の生涯を託す」と書くと筆を放して未だ為されていなかった感謝の礼に向ったのだ。その三年後、公は相を辞めて金陵を主管した。其の次の年には、又もや昭文館大学士を拝した。更に次の年には、金陵を出て行くことにし、遂に平章事を辞職し、更に亦、宮廷に道教の寺院を建立することを願い出たのだ。暫くしてから、道教の寺院への使いが霊を見たというので、直ぐに城外に第南門を築いた。元豊の癸丑の春、私は第で公に謁見したが、公は慌しく泳ぐように鐘山に私を招いて、法雲寺で休息し、二人は僧房に座して、私が「公道は昔日の日常の事や窓辺で書いた詩を暗唱することでも為されるのでは?」と問うと、公は少し驚いて曰く:「そう言うものなのですか」と笑みを零して言ったのだ。

 王安石は宰相を拝命する日に「霜筠雪竹の鐘山寺、年を取って身を投じ、此の生涯を託す」を書いていたことで、朝廷にいても彼が山林を忘れて無いことが分ったので、心中は決して富貴の昇ることを喜びとするものでは無く、完全に自由自適な生活を過ごそうと何時かは肩に背負った責任を下ろすことが出来ると思っていたのだ。彼のこのような考えは全く内心から発するものなので、それを言い当てたように魏泰がこのことを言い出したので彼自身思いがけずにびっくりして、間髪置かずに微笑んだことは、彼の一生の願いを言い当てられたからで、おかしな事でも何でも無いのだ。

 王安石の《次韻酬朱昌叔五首》中には官界の生活への嫌悪と隠遁の生活の憧れについて著しており、彼が穏やかに歌えるようにと完全に満足のいく迄鍛錬を積んだのは、名誉と為る事業の功績が全く満足いか無い儘度重なっていた為で、世事の役目を帯びた身体は全くの極限に達していたので、「功績を本当に積んでこそ位人臣を極めることが出来るのだ」との感慨に耽ってはみたものの、「我が身に暇を与えて楽に生ることは容易いことで、岩峰に居し川を眺めて如何して更なる心配を見ようか?」と言い放ったりもしたのだ。如何観ても、彼は岩峰に居して、山に登っては川を見て、一介の洒落て気侭な隠者に憧れていたのだ。彼が「人に合わし、その上、天に合わすことも下手なので、寝食を忘れて道を追求することに専念するのだ」とも言ったのは,自分が道に従う君子に成ろうとしていること強調したもので、役人に為ったのは、専ら俸禄を図る為では無く、自分が人との付き合いも拙く、世俗の習い通りに悪事を働くことが出来無いので、天地にある全てを徳に合わせようと、世の人を同じ考えに教化することに努力を傾けたのだ。

 王安石は富貴が災いを起こすことを十分に分っていたので、未練を持つ者は必ずその害に遭うとした。彼には《食黍行》という詩がある:


 周公の兄弟は互いに殺戮して、李斯の父と子は三族に分かれて仕舞った。

 富貴が常に多く災いの種を抱えていても、貧賎も恥じるべきことである。

 身は衣食を追って南へ北へと駆け巡るので、極近い親戚が傍に居れば安心出来るのに。

 黍が実ったので一緒に炊こうと言ったのは、欻が穂の実り垂れ下がるのを甘粛の黄土で何度も見たからだ。

 旅人は途中で突然帰る歩を止めて、黍を食べたが尚心悲しい。


 彼は周公、李斯の両人が富貴を極めた典型的な例として挙げて、富貴が自分達に不足していて是非欲しいと思ったことを説明した。併し、貧賎も同じようなものでそのこと自体恥ずべきこととし、兄弟や父子と雖も常に相守るということには為っていなかった。南に北へと駆け回る人の為の衣食についても身内の者が身辺にいて守ってあげることが如何して出来ようか? 兄弟は散り散りになって、陰と陽に相分かれて、黍を食べている時も惟「隴上黄離離」の古詩を思い慕うだけでは済まず、人の心を悲しませたのだ。

 自由な生活することへの憧れがあったので王安石は終始富貴を侮蔑出来無いでいたのであり、何度か彼に丞相を辞職させたのは色々な面での原因があったとしても、その中でも最右翼の原因が自分の思いの儘の生活をしたいと思ったことであることは殆ど間違い無いであろう。若し、最後の十年の隠遁の生活が無かったならば、王安石の一生は余りに満足出来無いものに為っていただろう。他人からすると、相に位し、退職後は遠く野に離れて想像もつか無い喪失感に襲われるところだが、併し、王安石にとっては持って来いと言わんばかりの仕業であり、栄耀栄華を慕う富貴にあるところの輩には勿体無いと名残惜しむことしか想像力が働か無かっただろう。


 「二、 中道を行く」に続く


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