魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【魂魄の宰相 第八巻 「二、 中道を行く」~「三、 人が貪るのを無くすまで 」】

2017-04-11 10:48:53 | 魂魄の宰相の連載

 ※ 以下、校正はして居無いので、誤字脱字、事実関係に誤りを見付けたらご一報下さい。

 

二、 中道を行く
 王安石は生涯を通じて極端に進む事はしないで中道の立場を採ったので、我儘を言わず、過激に偏らず、世の中のどんな問題に対してもこの様な態度で対応したのだ。他方、彼は或る面では仲間と決別して孤独に暮らす生活を自ら強いる傾向にあったが、出家の様に夫妻や父と子の関係まで放棄して、世俗の生活を全く捨て切るなぞと言うこと迄のものでは無いと雖も、一方では亦、庸俗的な生活を過ごそうと、完全に世間並みの暮らしに入った訳でも無かったのだ。

 王安石の若い頃には、仏教は人倫について配慮が無いとの批判をしていたのだ。儒学者として、彼は儒家の基本的な立場を堅持し無い訳には行か無かったが、世間から離れて孤独に暮らす生き方をしてようとも、人倫を廃棄することまで賛同する訳にはいかず、それこそ仏教で言う「真実は体験によって得られる」と言うことであるのに、「その轍から離れたことになって仕舞う」という生き方をしてはいけ無いので、当然、尭舜の道理と対峙する様に為ってはいけ無いのだ。彼は《泣水軍淳化院経藏記》の中の一句で、「『考えることもせず、為すこともせず、敢えて隠れることも無く、静かに動か無い者こそ在るが儘が見えるのだ』とする仏教が大道の一角を為す」と力説していたのだが、同時に、そのことは既に道術の理解の下にあったことであったことが分から無かったことを暗示することに為り、有難く思って安直に広めて仕舞い、向上を目指すことに役立たそうと言う面では少し不足を感じ、只世の中に認められることに精力を傾ける仏教を批判して、体面ばかりを考え何に役立つかが不明で、『人の道(人倫)の教え』を日常の中で役立てようと普段の行動に取り入れ自然に身に付かすことが出来無いと思ったのだ。
 王安石は正常な社会(親戚・交友)関係を堅く守っていたので、仲間と離れて孤独に暮らしていても、独り善がりに為って仕舞うことには敏感であった。詩《送潮州呂使君》の中で、彼は韓愈が『礼』を偏向していたことに不満を表し、「友が、異性と婚姻を結ぶことを話すことは真っ当なこと」であり、正常な倫理に添うことで、只「人に受けた恩を粗末にしない」様にすることで、ぎりぎり定法を守ることが出来、正常な社会(親戚・交友)関係と人類の長久の根本の利益が保証されるのだ。王安石は、友達の婚姻について話すことが下品なことでは無く、出家は在家より気高いとも思って無かったのだ。こういう見方は大変貴重なものである。譬え仏教に心を引かれた晩年にあっても、王安石は依然としてこの見方を堅持して、仏陀を信じるが故に決して現世の人生の在り様に関心を持つことを捨てることは無く、彼が一個の人間として自分の考えを持つ人だったからこそ、権力に靡くことなど出来(有得)無かったのだ。
 王安石は仏教が世俗の生活を捨てることに僅かに不満があったのだが、中国の伝統として世俗を離れて孤高を堅持することが気高いのだとすることにも賛成しかねたのだ。詩《涓涓乳下子》の中で、王安石が兄長の贈り物を受け入れずに貴族の地位を受ける事無く、妻を連れて隠遁して草鞋で(作って)生計を立てる貧しい生活に甘んじていたことを、陳仲子が隠遁を不満として「恩義を尽くすには相としての権限を要し、身奇麗にしては道理に適わず」と著し、 俗世間で恩義を守るのは最も大事なことで、こともあろうに自分の好き勝手に生きるのは全く身勝手な仕業だと非難したのだ。
 経世済民を志し、為すこと有りと奮い立って一つなりとも行うことが肝心で、王安石が考えもせず何もしないことを只管善しとしていたなどと考えることなど出来る訳が無い。司馬光は、予てより王安石は老子の「何もしないで天下が治まる道を推進する」を屡批判していて、「天下を騒がすことがあったとしても何かを行うべきだ」として、「法を変えることを思いついた」のだと王安石を嘲笑した。保守派も「現今は古きに及ばず」と大いに見得を切って、更に「祖法は全く隙が無い」とも言い、「変えること無く守り通してこそ天下太平が可能なのだ」としたのだ。王安石はこの言い分を鼻であしらって、彼は《彼狂》一詩の中で指摘した:
 上古は余りにも遥か彼方のことなので言い伝えも無く其の姿は見えず、嘗ては人も鳥獣も依存していた自然の姿も変わって仕舞った。
 時代を追う毎に人口が増大し、ものが全てに行き渡らずに互いに争うようになった。
 魚や小動物を捕らえたり獣を狩猟したりするにも部族同士で争うことが頻繁に為ったので、伏羲は書契(木に文字を刻んで約束する方法)で後に約束事を作った。
 以上のことは情況として止むを得ず経営に当ったのであり、世に偉さを示す為では無かったのだ。
 伏羲は物を分けて分類する方面では名を上げて、賢人を褒め称え功を尊び、恥榮を並べた。
 毒虫が元精(薬根)を巧みに刻む日々と偽り、極言を言えば衆皆悲しました。
 上智を閉匿して敢えて何もせず、時は世俗に塗れ、脚切りと刺青の刑をも免れた。
 文で著して彼の輩の凶暴さを悔やんでも、力ずくで蒙昧の者達から色々な楽しみを奪い取り、動揺し声も掠れて結局公正は為されていない儘なのだ。
 考えが浅く陰険な輩が聖人と良民を乱したので、如何して死ぬ迄黙して無様に田畑を耕して行けようか。
 この詩の中で、王安石は自分成りの社会観や歴史観を著したのだ。彼が言いたかったのは、この時期の人類と鳥獣とは基本的に大きな差も無く相寄り添って生きていたような状況であって、上古の社会での人類は未だ蒙昧そのもので、未だ何一つ大自然を克服して生きることなぞ全く出来無かったので、上代には後世に勝るものは何一つ無いと言うことであったのだ。人類が急速にその人口を増大して行くと、人口の膨張に生産力が追いつかず、あらゆる物が不足し、その為略奪と暴力を生んで衝突が頻繁に起こったのだ。この時聖人の伏羲が現れて、彼は民衆との約束ごととしての法令を制定して、次に魚網を発明して、道具を造って、魚や小動物を捕り狩猟をするに当っては、漁業や牧畜を生業として発展させ、人類の生存を保証することに成功したのだが、同時にそのことで人は自然を壊していくようなことに為って仕舞ったのだ。伏羲がこの様にしたのは、人類の生存の為にと止むを得ずしたことで、自己の利を謀る為のものでも無く、自己の栄誉心を満足させる為のものでも無かったのだ。伏羲は事物夫々に名前を付して分類することを進めて行き、並びに賢尚の功を賞賛し、恥辱を卑しめ、人々が道徳を守り、人々に廉恥を明らかにしたので、人々は積極的に向上を目指し、業を起こし育成して手柄を立てようとしたので、人間社会の再編に成功したのだが、自然との徹底的な別離を為して仕舞ったのだ。此のことそのこと自身は一種の進歩と言えようが、困ったことには人々を騙す偽りの日々を生み出し、活力を日増しに萎めただけで無く、人間が本質的に持っていた純朴さも日増しに過去のものと為って、時は世俗に塗れ、物欲に支配され、優秀な大賢人が育つ環境も無くし、系統的な知識で解決する能力をも活用することをも押さえ込まれたので、問題があっても如何解決して善いか分ら無く為って仕舞い、そのことで人々を水火の中に放り込み、極悪な者も極刑(脚切りや入れ墨の刑)を免れようになったのだ。あれらが歴史的発展の規律であったか不明であるのに、今日に至っても頑固に太古を最善とする誤った説を堅く守る輩は、危うい説を恣に扱い、妄言を文辞に変えて大いに広め、古きに身を置き為るが儘にするのが最善であるとの奸言を弄し、人心を掻き乱したが、この様な異論で世を惑わせば、田畑を耕し布地を織ったりすることに価値を見出さ無く為り、何も考えずに生涯を送って、田畑を耕し無様に老いて死んで行く様な古い道理でことを為すことが通用し無く為って来るのは当然で、世の出来事に関心を持たずにいれようか?
  此の詩を眺めて見ると、王安石は「上古は蒙昧な時代であって観るべきものは無く、歴史を逆行させるような議論には反対であるとは云え、『礼楽』は文明の開けた社会の証だと思っていたので、聖人が『礼』を制定し『楽』を創ったのは、文明の開けた社会の歴史的勲功として欠かす訳にはいか無いのだ」とも思っていたのだと感じ無い訳にはいか無かった。文明自身が歴史的進歩を齎すのに、人の輪から離れて、猿が住み、鶴が居る様な所に隠遁し、歴史を戻したような鳥獣と変わらない生活をすることは、誉められることでは無く、それが何で高潔なことなのか分ら無いからだ。積極的に世の中に取り入れ、成果をあげて、社会の進歩を進めて来たのだが、何が罪かと言えば、時に弊害を齎し、成功させることも無く、救世を衰えさせて仕舞ったことは、自ら賢明で無かったことを示したことにはならないか。世俗を離れることが必ずしも有徳とは限らず、世俗を受け入れることが必ずしも誤りだとも言え無いのだが、今を疎かにして古を大切することが当時の流行であったので、世俗を離れることは崇高で、世俗を受け入れることは世俗に流されることだと敢えて王安石が決め付けたことは推崇に値する。
 王安石はあれら世俗の風習を守る輩が物欲を惑わすのを「極端にものを言って何時も大衆を脅す」とし、「根っから真理に耳を貸す姿勢は無く、然も、惟喧しく論じるばかりで、風説を飛ばして水をかき回して態々濁らせように庶民を惑わし、其の最中にも利を得ようと算段するのだ」と風刺した。其の真意は「脅し声を上げて揺さぶって公正さを眩ます」などの文に拠って強烈に的を射て著さたので、呂公は王安石を弾劾する為上奏するように促し、「今日何度も天災に遭って、人の心は未だ和む事無いのに、事を荒立てて、態々混乱を招くべきで無い。安石は朝廷に余りに長く居座ったので、間違い無く謙虚さを失ったようだ」と云々したのだが、王安石は負けずに相手を凹まそうと、「世の中を混乱させようにと流言を飛ばして揺さぶるのは、変法に反対する為には一切手段を選ばない保守派の輩の為せる態で、人心を乱して、変法を阻止しようと、甚だしきに至っては儒家の古い道徳を擁護することに感けて、新法に反対する為には何時も仏教を持ち出して、何事にも手を加えない事が最善だと吹聴し、それなら新法が推進されるのを黙って見てれば良いのに、思い通りになら無いことに我慢出来ずに、全力を尽くして新法を妨害して、八方手を尽くしてその成立を妨害するのだ」と反論したのだ。
 王安石は若い頃弊害が生じると力の限り救済に尽力したが、「余りに『矯枉過正』に偏ってはなら無い」ともしていたのだ。此のことで彼が言いたかったことは、飽く迄仏教を排除するのは誤りであると言うことに在ったのでは無く、隠遁を反対する者を非難したのでも無く、惟、世俗に塗れた輩が弁護の余地は全く無いのにも拘らず、汲々と禄を食むのを邪魔されることに反感を持っただけのことに尽きるので、これらについて些細に取り沙汰されることにも過敏に為り、余りに人を見誤るように為って仕舞ったことに気付き、そうした自身を戒めたまでのことだったのだ。彼には《杭州修広師法喜堂》と言う詩がある:
 仏塔の法と世の中は格別で、万事を洗って空白を求める。
 師心はそれ故物欲を善いとせず、自ずと蓄えを一堂に収めさす。
 堂が高く聳えた石双の蔭と為り、石双の脚元には青々と枝振りの良い竹がよく茂っている。
 既に眠っていた勇気を出して、況や朝な夕なに貧しい宴に座そうとも。
 思い起こせば自ら勇気を出して救済に任じた時は、巨大化した世俗を観て苦難の道のりを感じたのだ。
 肥えた馬が引く端麗な車が乗せた豪傑英雄も、志少なく願いは多く恐れ憂える。
 進退が各自に道理があることを始めて知り、今後は軽率に賢愚を分けるべきでないと心に誓う。
 室を築いて耕して釣ることに戻れば、仲間と此処で山湖を吟じよう。
 曾鞏《元豊類稿》の《宝月大師塔銘》に拠ると、修広は字を叔微と言い、杭州銭塘人で、俗姓は王とした。九歳の時仏教を学ぶ為に出家をして、本州の明慶院に居した。景祐二年(1035)、紫衣を戴いて、五年(1038)、号を宝月大師と戴いた。治平年間、本州管内の僧正と成ったが、煕寧元年(1068)十月に逝去し、齢六十一歳であった。この詩の中では、王安石は世の常とは大きく異なり、虚無を求める仏法を褒め称える態度を顕したことで、修広が物欲に偏らない心と変幻自在に限り無く修養を積んでいることを褒め称え、目指すところも一致しており、頼もしく思って胸襟を開き、誠心を持って打解けて、況や毎日此処で宴座して禅を修めるようになったのだ。彼は若い頃に無謀にも世を救おうと立ち上がり、仏教への批判が世の中に示されたことに対して強烈に反省を促したが、出所進退には各々道理があるものだと言うことを始めて知って、率に高下を判断し、妄りに賢を区切って談じるのは愚かな間違いだと悟り、山湖を詠唱し、耕して釣りをすることを生業とする世渡りが朝廷に仕えることに及ばないなぞとは言い難いことも分かり、その上将に此のことこそ彼の間も無く選ぶ暮らしとなったのだ。此の時期の王安石はある面消極的であったと見えるのだが、実は之こそ彼を成熟させた経験となったのだ。注意するに値するのは、王安石は晩年にあっても進退は各自それぞれと認め、更に妄りに高下を分けてはなら無いとの信念を持って、只管決して世を捨てて隠遁したいと口に出すことも無く、彼は意識して平等な目で異なるものを評価しようとしたのだ。
 勇気を出して世の救済に当たって、現実に如何に挫折しようとも天下を救うことを自分の努めと心に決めたのだが、手痛く誣告を受けて仕舞ったことから世間の人の理解を得無ければ大事を為すことは出来ぬと感じ、そこで「自分の思いを抑えることに慎重な配慮をする」を座右の銘としたことで、天下を救済する手法が独り善がりになら無いように、彼は全てに目配りし更に的確に俗世間の生き様を評価せざるを得ないと考え、人を高下に分けることも無いようにと、何事も客観的に判断するように心掛けたのだ。彼には《読〈蜀志〉》一詩がある:
 長い年月の争いごとは共々に全く利が無く、徒労に明け暮れる双方共に身の上を哀れむ。
 劉玄徳に助言を与える者無く、如何して耕すことを止める考えが最善であると奨めるのだ!
 《三国志・魏志・張邈伝》に拠ると、劉備は许汜に対して非常に不満を持ち、彼の発言を責めた:「今日天下は大乱にあり、国が人々の暮らしに配慮が無いことを憂えるように君に望むのは、世の救済が主願である筈なのに、君が耕すことやめるように奨めることには、全く的を外した箴言と謂えよう」。以来この故事は事ある毎に引用され、辛棄疾も「田を捨てるようにと奨めるのは、劉郎の才気を辱めるものだ」と謂う文を作って、乱世にあって国を救い、民を救うことを志した劉備に敬意を顕し敬い慕うように提示したのだ。王安石はそのような考えには反対であって、乱世には紛争が付き物であって、三家の鼎立自体が、国にとっても民にとっても、個人にとっても世の中総てに利を齎すなどと言うことは無く、無駄な労苦を強いるだけであるのに、残念乍この道理を劉備に教える人は居無かったのであり、極端に言えば天下を奪い取る為に戦うことが重要なのであり、耕すことを捨てるように奨めることが別に間違ってはいないことを彼に分らせるべきだったとしたのだ。
 この詩が道理に適うもので無いのは謂い得ていて、このような紛争が結局漢室を復興する大事業を目的として為されたものであるならば、世にとっては寸分も利の無いものであったのだ;作者が変法を堅持することに酷い中傷を受けたことで憤懣を感じた後にこの詩を見たと言う説も在る。併し、そのようなことは無く、事実、王安石は道の輩とは一段高い立場で全てを見ていたので、何を得て何を失って、何が気高く何が下品で、と言うように偉業の是非を問うてみても、どんな意義があろうか? 独り善がりであるよりも、却って田を捨てるように問い掛ける方が良いのであり、個人の生命の価値を尊重する立場からは有益と成るのだ。
 王安石の晩年の考えは間違い無く微妙な変化があって、俗世間をひっくり返し改造するように社会を引っ張って行くには、個人の生命の価値を求めるような考えに傾き、人となりの個性をも重視するような為って、彼は心中個人の自由こそ最も尊重されるべきと考えていたのだ。彼は既に社会への出入りを分別することを越えて、今一段高い処に上っていたのだ。

三、 人が貪るのを無くすまで
 王安石は天地の気概を持って、生活態度を戒め、道徳的資質を練磨することで、更なる限界に挑み、より自分を厳しく戒めることも忘れ無いで、本当の自由を実現する為には、物質欲に惑わされことは無論のこと、欲望に左右されてはなら無いと考えていたのだ。
 王安石は、酒は嗜む程度だったので、宴会を楽しむどころか、嫌がっていた。司馬光が言うところに依ると、「王安石が館(図書館)職を担当していた時、ある日、長官の包拯が宴席を設けた時、司馬光とは同僚の間柄にあったので、二人は同席したが、包拯の人となりは厳正だったので、司馬光は自分の面子を潰したく無くて、どちらかと言うと下戸の方だったにも拘らず、思い切って杯を重ねたが、王安石は終始、一杯も飲ことが無かった」と言う逸話は、彼の剛直で何事も枉げ無い個性を顕すものである。
 王安石は当時の士大夫が慣れっこに為っていた生活習慣にも馴染む事無く、飲食で無駄な時間を過ごすそうなどとの気は毛頭持たず、そんなことで自分の名節に傷つけることを避けたのだ。将に彼は我が道を行くで、大勢に合わせることも無かったので、謗りを受け易かったのだ。彼から言わせれば、俗世間とは違った考えを持っていたので、自分を見失いように、外界に左右されること無く、只自分の赴く儘に事を為していただけだ。
 王安石は酒盃を大いに嫌っていただけでは無く、女色に溺れる事も無かった。当時の士大夫の生活は爛れていて、好色は一般化され、時代を風靡した儒学の大学者の欧陽修さえ若い頃此の癖から免れることが出来ず、彼は長くに亘って少年が陥り易い全く自制の効か無い行いをして非難される憂き目に遭っていたのだ。一世代の文豪の宋祁も蜀にいた時には、姫妾の数十を抱え、こんなことが流行となっていたのだ。王安石も一世代の文宗だが、些かも文人に有り勝ちな欠点など無く、道学家より更に厳格で、彼の保守派もこの方面で彼の欠点を何度も探し出したが、中傷することが出来ず、お為こなしに一度は彼を褒め讃えざるを得なかったのだ。
 王安石は終生姫妾を抱える事無く、夫人が彼の為に買った妾も傷つける事無く返してやり、後世にも模範と成る佳話を残していたのだ。《邵氏聞見録》の巻十一には:
 王荊公が知制誥と成ったので、呉夫人は妾を買うことにしたのだ。荊公は其の女と面会して、言った:「如何したことか?」彼女が言った:「夫人が執り諮ったことです」。安石が言った:「汝の氏は何か?」彼女が言った:「妾の夫は軍の将軍でしたが、部隊の米を運ぶ舟を失って、家は一切の資産も無くなり暮らしも儘成ら無く為って仕舞ったので、何とかしようと売られてきたのです」。公は悄然と言った:「夫人は汝を買うのに幾ら払ったのかね?」彼女が言った:「九十万です」。公はその夫を呼び出して、元通りに夫婦を戻し、金を与えて心を尽くしたのだ。
 王安石は嘉祐六年(1061)に知制告に成ったのだが、彼の諸弟が全て成人に成った時点では、彼は未だ工部郎中でしかなかったが、これ以降王安石は一家のそれまでの重い負担から開放され、保安に任じる都駐在の刑獄を担当することに成った後には、官職と俸禄が上がって、社会の上流に位置するに至ったので、呉夫人は思いやりがあり賢明であったので夫に上流社会の趣を少でも味わって貰おうと、彼の為に密に妾を買って尽くそうとしたのだ。凡そ王安石の家には当時姫妾なぞ全くいず、侍女としての女子も抱えて無い程だったので、家の中に知ら無い若い女子が現れたので大変吃驚して仕舞って、急いで彼女が何者かを問質したのだ。この女子が大安石に夫人の執り諮らいで為されたことだと伝えたので、更に彼女から名字と家柄を知るに至り、如何してこの様なことになったのかと問うと、彼女は元将軍の婦人だったと答えて、夫が軍中に在って米を運搬する船を沈没させて仕舞ったので、軍規に基づいて賠償の責を負わなければならなく為ったので、結局身代を全部使い尽くしても足り無かったので、彼女を身売りして借金の弁済に当てる外無かったと言うことが分ったのだ。王安石は彼女の悲惨な境遇に非常に同情させられ、同時に、夫人が彼女に幾ら出したのかと言うことも聞いたのだが、彼女は九十万であると言ったのだ。この数字は王安石にとっても少ない金額とは言え無いものではあったが、彼はこの女子の夫を呼び出し、其の夫妻を元の鞘に戻してやったばかりか、其の儘九十万を彼らに与えてやったのだ。
 王安石が夫人を返してやっただけでなく、赤の他人にお金まで与えたことは、全く大きい功徳を称する資格を得たと言え、このような品性ある行為は普通の人ではとても真似出来得無いと言えよう。彼の所行は並みの士大夫の道徳感を遥かに超えていたので、世を驚かし俗っぽくあれこれ批評することも憚られ、全く傑出したものだったので後に続く者も出たほどだ。
 王安石を悪評する者は、「官職を持つ者の自覚に足りず、物を売っても利益が出無くして仕舞うのは人の欲望を抑えるからで、彼の心が氷の様に冷たいからだ」と言うが、事実は、彼は朗らかで、ひょうきんなところもあって人を笑わせ楽しくするような感情の持ち主でもあったのだ。彼に欲が無いのは天性のことで、厳格に自立を保てたのもこうしたことに依るものではあったが、彼にも全く欲が無かったとは言えず、人間本来の弱点を克服する為、心を自由にすることを弛まなく心掛けていたのだ。
 孔子が嘗て弟子に「どのような人が称賛するに足る資格があると思うか」と問うた時、ある者が答えたことに対して、孔子は「如何して称賛に値するのかと言うことを答えて欲しいのだ」と言ったのだ。孔子は心中では分っていて、「偏った行動が全く無い品性を内面に持ち、外目にも尊大で荒々しいところが全く無い人物だ」と思っていたのだ。諺に拠ると、「食い扶持の不足や、人手の不足などを何とかしようと、要求が多ければ人を頼ることに為り、人への依存が多ければ、体つきが如何に高大で壮健であっても、権力を如何に大きく持っていても、地位が如何に高くても、全て謙虚であるのが一番で、『実るほど垂れる頭の稲穂かな』に尽きるのだ」と言うのだ。外部に対し自身に不足在りと思うことがあったとしても、自身がある程度不足していても、上を見れば限が無く、「足るを知る」ことこそ孔子が本当に強調したかったのだ。
 王安石は全くの頑固者と言い得て、《仏祖歴代通し載》二十八巻に拠ると:

 蒋山の元禅師、……云々と、王が初めての十干の丁(ひのと)の太夫人のことを心配して、山中で読経をしようとまるで義兄弟のような付き合いの元と遊歴に出たのだった。祖師に真意を聞こうとしたが、元は答え無かった。王が更に捻じ込むと、元曰く:「般若経には障害が三つあると云われているが、一つは会得が容易に過ぎると言うことから生じるもので、二つ目は生まれつき熟達していると言われている事にある」。 王曰:「其のことについてもう少し訊きたいのだが」。元曰く:「踏みつけにされても屈しなければ、お互いの縁は深くなるものだ。強く意思を持っていれば踏みつけられてもお互いの縁は深まり、経世済民の志を強く抱けば、必ず身を以って天下の重責を担っていけるのだ。 自信が無ければ用いられることは絶対無く、決意が足り無ければ、何時如何なる時代であろうとも、経世の志を持っても決心が鈍ければ、一念と雖も永久に叶うものでは無いのではないか? 亦、大きく戸惑うものとして、学問が理を尊ぶものならば、何を為せば良いのか分ら無いことで、此れが最後の三つ目のことである。ご利益も分らずに剃髪しても、行脚僧の如く無欲に甘んじれば、これが最も近道で、然も、教乗を以って当れば豊饒之増すのだ」と言うと、王は更に礼拝して教えを受けることに為ったのだ。
 王安石は嘉祐年間にあって、江寧に居していたが、丁の母を平穏に過ごさせようと心配して、兄弟のように仲が良い元禅師を伴って蒋山に遊歴に出て、山中で読経したことは褒められるべきだ。彼は禅門の祖師としての真意を聞こうとしたが、元がなかなか応じ無かったので、粘って捻じ込むと、元は「般若には三重の障害があって、生きている間に仏教を修めるのは容易く無いと云われているが、併し、一方に於いて安直に学べる面があって、一生涯を通じる(通って)ならば熟達することが出来るということは、優れた教えであるとの証である」と答えたのだ。王安石はもっと詳しく訊こうとしたのだ。元は答えて曰く「全く酷い抑圧を受けることは、生涯の一大事と為るが、全く之を一大事とするのは生涯に深刻な陰を投げ掛けるからで、一身を以って天下の大事を必然とするならば、必然として全身で天下の大事を担うには、経を懐に秘めて一生を掛けて民を救おうとする志を持つしか無く、之即ち唯一世に受け入れられる便となろうが、出世は出来まい。若しも如何して道を行い得るかということが出来無いならば、才を用いることも出来ず、才能が有り乍不遇の感が強くなり、心穏やかに為ら無いので、不平を持った儘世を救う志を持っても、心穏やかに為らず、才を思うように生かせないと感じ、如何に仏教を体得ようかという一念は永遠のものと成って仕舞い、三世(過去・現在・未来)の限界を乗り越えられようか? 更に性格が怒りっぽいならば、怒りっぽいのは煩悩が多いからで、何か障害があるから悩み煩っているのだ;学問は理を尊ぶので、重視するのは寸分の間違い無く弁別する為の障害を知らねばならないと言う事である。怒りっぽく心穏やかに出来無いのは、仏教を学ぶに当たって学問としての理論構成を尊んで般若の真髄を獲得しようとしても、三つの障害があるので、仏になる道を悟ることは到底不可能だと直ぐに感じて仕舞うからだ。だかこそ、名利を重く見ず、剃髪して、後ろを振り向かず、行脚僧のような生活をして、近道をしては多くを得ることが出来無いことを悟り、経を沢山読んで、仏法に依って体力を付けるべきであるのだ」。 元禅師は王安石が「禅を学ぶのに適して無い」と思っていることを褒めて、彼が経を読むように切掛けを作る為に、入信を奨めたのだが、この様な説に道理が在るかどうかは一先ず置いて、彼の王安石に対する評価と理解が『まと』を得たものであったことは間違い無いのだ。
 王安石には全く剛直なところが無く、彼は自身の限界を超えて、性格的な弱点を克服し、それに依って自身を本当の意味で自由で高潔な境地に入れることが出来たので、名利、色彩、進退、出所には全く関心が無く成り、窮めに達し、是非、恩讐、人の我などにも関係無く為れたのだ。彼は更に一寸した世の中の功罪を軽くしようと神に縋ることをせず、自然に任せ、自身を省みることこそ彼の唯一の選択肢としたことで、彼は辞職して退官しても何一つ変える事無く迷わず落ち着き先を得ることが出来たのだ。
 王安石が二度目の宰相にあった時に彼が自ら何度も願い出なければならなかったのは、神宗が彼から受けた恩を忘れたからでは無く、彼への思いが薄れた結果でも無かったのだ。彼は一回目に宰相を降りたのは政治的圧力があってのことだったのだが、二回目のものは全く彼自身の願望と積極的な選択からのものであり、その上今回の彼は政務への未練を二度と問わないという意志を固めていたので、何れにしても二度目の退職をあきらめることは考えられないことではあったのだ。
 神宗と王安石とは心の深いところでの信頼関係が在ったので、当初は神宗が王安石を手放す訳にはいか無いと思っていたのだが、併し、彼が王安石の思いが分かった後では、もう彼を邪魔する事無く師である臣を助けようと決心したのであって、神宗が王安石の能力や道徳心が分っていても、彼のもつ忠誠心と古くからの臣の思いに応えたのだ。
 後に俗っぽい儒学者は全て自分の考えで人を推し量って王安石の意図を全く理解することが出来無かったので、間違い無く言い難い程の苦しい胸の内があって、間違い無く止むを得無いことであったのに、決して宰相として適切な仕事を為して無いとして、多くの作り話と噂を捏造したことで、彼らは自分の心の中の闇の部分を隠そうとしたのだ。彼らが言うには、「王安石が山(もとの場所)に帰った後には、ずっと再度起用することを望まれていたと謂われており、神宗の親派の中から一度お金を出して呼び戻そうとしたのだが、王安石は金を貰って、初めは非常に喜んだのだが、後で、金さえ出せば喜んでくるだろうと馬鹿にされたことが分ったので、前後の見境も無く怒って、はっきりと反骨心を剥き出しにして呼び出しにも応じず、金を寺院に寄付して仕舞ったのだ。流石に神宗も王安石には愛想をつかして、八年もの間一度も召すことが無くなり、臨終になっても王安石を使わずに司馬光に子供を託すとしたのだ。処が、元豊が官職制度を直すと云うと、王安石は大いに驚いたが、この様な大事も一切彼に知らせ無いのは道理で、間違い無く皇帝が彼に対して不満を持っていたので、そこで詩に依って元豊を賛美したので、安石は神宗に媚び諂い、命懸け云々」と、嘘出鱈目を並び立てたのだ。
 この種類の妄説は、安石のことを知らず、更に神宗のことも分ら無いで、はた亦二人の互いの深い信頼関係も分らずに、全く二人の心が通い合っていた状況を把握出来て無い上でのものであったのだ。王安石は退官して山野に隠遁することを決心したのに、如何して再度起用されることを期待したのか? 若しも、彼が相位に拘っていたならば、何故に辞職する必要があったのか? 若し、神宗が王安石に愛想をつかしていたならば、何度も挨拶の為に使いを派遣していたことでも分るように、如何して生涯恩遇を疎かにしなかったのか? 神宗と王安石との互いの関係が深かったので、神宗は、今度ばかりは王安石が野に下ろうと心の底から決心したことが分っていた筈で、再度出馬させようなどと思う訳が無いのに、彼が忠誠を尽す古くからの臣が退職しようということを如何して邪魔をする必要があったのか? 元豊が官職制度を直そうした時、王安石が退職したにも関らず「相談しに来い」などと弁えも無く言う訳が無く、そんなに「彼は度量が狭い人である」とでも言うのか? 王安石の性格を思えば、彼が皇帝に媚び諂い、保身を量ることなぞ想像出来無いので、あれらの輩は神宗が安石を懲らしめようと思っていたという戯言を言って、妄言を飛ばして中傷しただけのことなのだ。
 王安石は自分の忠誠心と誠意で神宗の理解を勝ち取って、彼が耳に不自由を感じ無い年齢の内に悠々とした閑静な隠居所に向わせてあげたので、鳥獣と戯れ山や川に連れだって、自由でのんびりと最後の十年を過せたのだ。


 【魂魄の狐神 第八巻】に続く


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